「ヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンスト・バッハ」の版間の差分
m Bot作業依頼#Cite bookの更新に伴う修正 |
|||
2行目: | 2行目: | ||
{{Portal クラシック音楽}} |
{{Portal クラシック音楽}} |
||
[[File:WilhelmBach.jpg|thumb|W.F.E.バッハ(1843年ごろ)]] |
[[File:WilhelmBach.jpg|thumb|W.F.E.バッハ(1843年ごろ)]] |
||
'''ヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンスト・バッハ''' ('''''Wilhelm Friedrich Ernst Bach''''', [[1759年]][[5月27日]] [[ビュッケブルク]] - [[1845年]][[12月25日]] [[ベルリン]])は、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]の孫 |
'''ヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンスト・バッハ''' ('''''Wilhelm Friedrich Ernst Bach''''', [[1759年]][[5月27日]] [[ビュッケブルク]] - [[1845年]][[12月25日]] [[ベルリン]])は音楽家。 |
||
音楽名家[[バッハ家]]出身で、世界で最も著名な音楽家の一人である[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]の孫。 |
|||
バッハ直系最後の[[作曲家]]。父親は[[ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ]], [[プロイセン王国|プロイセン]]国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム2世]]の[[宮廷楽長]]を務めた。「世襲は発想を摩り減らす」との言葉を残したという。 |
|||
[[1778年]]に父に連れられ、ロンドンに叔父[[ヨハン・クリスティアン・バッハ]]を訪ね、その指導を受け[[ピアニスト]]や[[ピアノ]]教師として名を揚げる。[[1782年]]に叔父が亡くなると、[[パリ]]や[[オランダ]]に移住し、最終的に[[ミンデン]]の[[楽長]]に就任。[[1789年]]に[[プロイセン]]国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に[[ベルリン]]に招かれ、王妃[[フリーデリケ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット|フリーデリケ]]の[[チェンバロ]]教師となる。王妃の死後、1805年に[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]妃[[ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ|ルイーゼ]]の宮廷楽長ならびに王妃付チェンバロ奏者および王太子(後の[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]])の音楽教師に就任。[[1811年]]にすべての公職を退く。 |
[[1778年]]に父に連れられ、ロンドンに叔父[[ヨハン・クリスティアン・バッハ]]を訪ね、その指導を受け[[ピアニスト]]や[[ピアノ]]教師として名を揚げる。[[1782年]]に叔父が亡くなると、[[パリ]]や[[オランダ]]に移住し、最終的に[[ミンデン]]の[[楽長]]に就任。[[1789年]]に[[プロイセン]]国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に[[ベルリン]]に招かれ、王妃[[フリーデリケ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット|フリーデリケ]]の[[チェンバロ]]教師となる。王妃の死後、1805年に[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]妃[[ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ|ルイーゼ]]の宮廷楽長ならびに王妃付チェンバロ奏者および王太子(後の[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]])の音楽教師に就任。[[1811年]]にすべての公職を退く。 |
2024年6月9日 (日) 11:53時点における版
脚注
- ^ Dreyblatt für Klavier zu 6 Händen (William Friedrich Ernst Bach) - YouTube (Mosaïque concert)
- ^ 久保田慶一『バッハの息子たち』音楽之友社、1987年、239-240頁。ISBN 4276370558。