「三毛別羆事件」の版間の差分
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*[http://www.town.tomamae.lg.jp/ 苫前町] |
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*[http://www.town.tomamae.lg.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1186713515857&SiteID=0&ParentGenre=1000000000032 苫前町郷土資料館] 事件の復元模型、資料などを展示 |
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*[http://www.hokkaido-jin.jp/zukan/picturebook/itemview.php?iid=2300400097 北海道デジタル図鑑、三毛別羆事件跡地] |
*[http://www.hokkaido-jin.jp/zukan/picturebook/itemview.php?iid=2300400097 北海道デジタル図鑑、三毛別羆事件跡地] |
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[[Category:苫前町]] |
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[[en:Sankebetsu brown bear incident]] |
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2009年1月15日 (木) 12:52時点における版
この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。 |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e6/Sankebetsu_BrownBear01.png/300px-Sankebetsu_BrownBear01.png)
三毛別羆事件︵さんけべつひぐまじけん、六線沢熊害事件、苫前羆事件とも︶とは、1915年12月9日~12月14日にかけて、北海道留萌苫前村︵現:苫前町古丹別︶三毛別︵現:三渓︶六線沢で発生した日本最大最悪の熊害︵ゆうがい︶事件。 冬眠に失敗した空腹のヒグマが数度にわたり民家を襲い、当時の開拓民7名が死亡、3名の重傷者を出すという被害があった。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b2/Sankebetsu_oldhouse01.png/220px-Sankebetsu_oldhouse01.png)
当時の開拓村の家(再現)
太田家の騒動は明景家にも伝わり、避難した女や子供らは火を焚きつつ怯えながら時を過ごしていた。護衛の者たちは近隣に食事に出かけており、さらに太田家へのヒグマ出没の報を受けてそこに向かってしまい、守りがいなかった。太田家から逃れたヒグマは、まさにこの状態の明景家に向かっていた。
背中に四男・梅吉を背負いながら、討伐隊の夜食を準備していた明景安太郎の妻・ヤヨは、土間で何かの物音を聞いた。次いで起こった地響きにヤヨが声をあげたのとほぼ同時に、窓を破ってヒグマが屋内に侵入して来た。囲炉裏の大鍋がひっくり返されて炎は消え、混乱の中ランプなどの灯かりも落ち、家の中は暗闇となった。ヤヨは屋外へ逃げようとしたが、恐怖にすがりついた次男・勇次郎に足元を取られた。よろけたところにヒグマが襲い掛かり、背負っていた梅吉に噛み付いた。そのまま三人は引きずり込まれ、ヤヨは頭部を齧られた。その時、番として唯一家にいたオドが逃げようと戸口に走った姿に気を取られ、ヒグマは母子を離し、この隙に乗じヤヨは子供たちを連れて逃亡に成功した。追われたオドは物陰に隠れようとしたが叶わず、ヒグマの爪を腰のあたりに受けた。オドの悲鳴にヒグマは再度攻撃目標を変え、屋内に眼を向けた。そこには未だ7人が取り残されていた。ヒグマは明景家の三男・金蔵と斉藤家の四男・春義を一撃で撲殺し、さらに斉藤家三男・巌に噛み付いて床に叩きつけた。この様子に、筵に隠れていた石五郎の妻・斉藤タケが顔を出してしまい、彼女もまたヒグマの標的となってしまった。迫るヒグマに身重のタケは、腹の子の命だけはと助命を嘆願するも、当然の事ながら相手にその訴えが通ずるはずも無く、無残にも生きながら上半身から食われ始めた。
川下に向かっていた討伐隊は、異様な雰囲気を察し急いだ。そこへ重傷のヤヨがたどり着き、一同は明景家で何が起こっているかを知った。途中オドを保護し、討伐隊は明景家を取り囲んだ。しかし、暗闇となった屋内にうかつに踏み込めない。中からは、タケと思われる女の呻き声、そしてそれが聞こえなくなると肉を咀嚼し骨を噛み砕く音が響く。もう中の者は皆殺されただろうと、家に火をかける案も出たが、子供らの生存に望みをかけるヤヨが必死に反対した。討伐隊は二手に分かれ、一方は入り口近くに銃を構えた10名を中心に配置し、残りは家の裏手に廻った。そして空砲を合図に裏手の者が大声を上げてヒグマを脅かした。果たしてヒグマは表で待つ男たちの前に現れた。先頭にいた男が撃とうとしたが、またも不発。それどころか男がヒグマの前に居座る形になってしまい、他の者が撃ちかねている隙に、ヒグマはまたも姿を消した。
白樺の皮を松明に、明景家に入った者の眼に、その惨状が飛び込んできた。一面の血、無残に食いちぎられた二児とタケの遺体。余りのむごたらしさにいたたまれず、日露戦争を経験した者だけがその場に残った。上半身を食われたタケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、不思議とヒグマが手を出した様子は無く、その時には胎児は少し動いていたともいう。ただ、タケの願いも空しく、胎児も一時間後には死亡した。噛み付かれた巌は重傷ながら生きており、さらに恐怖に身が竦んでじっとしていたことが幸いしたのか、明景家長男・力蔵と長女・ヒサノは無事だった。村人は全員分教場へ避難し、重傷者も川下の辻家に収容した。だが、噛み付かれた巌は深夜に息絶え、この二日間で6人、胎児を含めると7人の命が奪われた。
ファイル:Sankebetsu Billboard01.jpgベ アーロードの看板
また、この北海道道1049号は、﹁ベアーロード﹂との別名がつけられ、入り口や路傍に可愛らしい熊の絵が描かれた看板が随所に見られる。観光の目玉としての活用や野生動物との共生を謳う姿勢は別として、事件のあらましを知りつつ訪れる観光客にもたらす複雑な感想は多くのブログなどで語られている。
なお、苫前町郷土資料館﹁古代の里﹂にも、三毛別羆事件に関する豊富な資料が展示されている。
事件の経緯
1915年︵大正4年︶11月中旬のある夜明け頃、日本海から内陸へ30kmほど入った北海道三毛別六線沢にある開拓村の池田という民家に巨大なヒグマが姿を現した。飼い馬が驚いて暴れたため、その時の被害は収穫したトウモロコシに止まった。当時の三毛別は開拓の端緒にかかったばかりの土地でもあり、このような野生動物の襲来は珍しいものではなく、同月20日にふたたびヒグマが現れた。馬への被害を懸念した池田家の主人は、在所と隣村から二人のマタギを呼び、次男・亀太郎を加えた四人で待ち伏せた。そして30日三度現れたヒグマに撃ちかけたが、仕留めるには至らなかった。翌朝、鬼鹿山方向へ続く足跡を追い血痕こそを確認できたもの、吹雪のためこれ以上の追撃を断念した。12月9日
太田家の惨劇
秋から冬にかけて、開拓村では収穫した農作物を出荷する様々な作業に追われていた。三毛別のような僻地ではそれらは人力に頼らざるを得ず、男たちは出払い気味になっていた。まさにそのような時期の12月9日午前10時半頃、またも巨漢のヒグマが太田という民家の干しトウモロコシを狙って現れた。この時、ヒグマは勢い余って民家の壁を壊し、家人と遭遇した。家屋の中にいたのは内縁の妻・阿部マユさんと太田家に預けられていた小児・蓮見幹雄の二人だけ。彼らの悲鳴がヒグマを刺激してしまい、幹雄は頭を噛み付かれて死亡。薪を投げるなど必死に抵抗しつつ逃走を試みたマユは森へと引きずられていった。 同日の昼、同家に寄宿していた伐採を仕事とする男・長松要吉︵通称・オド︶が飯を食べに戻り事件が発覚した。三毛別川に架ける氷橋づくりに集まっていた村の男たちは知らせを受けて駆けつけ、無残な太田家の様子に衝撃を受けた。村人は対応策を話し合うため、川下の明景︵みよけ︶家へ集まった。話し合いの末、斉藤石五郎が役場と警察に連絡を、明景家の当主・安太郎が幹雄の実家である蓮見家への連絡をそれぞれ取る役を受けた。主人が家を留守にする両家の妻子は、明景家に集まり、オドも男手として同泊する手はずが取られた。12月10日
捜索
早朝、斉藤石五郎と明景安太郎は村を後にした。残る男たちを中心に、討伐および太田マユの亡骸を収容すべく30人の捜索隊が結成され、彼らは森に入った。150m程進んだあたりで、一行はヒグマと遭遇した。襲い掛かるヒグマに鉄砲を持った5人が撃ち掛けたが、手入れが行き届かなかったため銃撃できたのはたった1丁だけだった。怒り狂うヒグマに捜索隊は散り散りとなったが、あっけなくヒグマが逃走に転じたため、彼らに被害は無かった。改めてあたりを捜索した彼らは、トド松の根元にあった血に染まった雪の一画と、その下から頭部の一部と膝下の脚しか残されていないマユの遺体を発見した。太田家への再襲
このヒグマは人間の肉の味を覚えた為、マユの亡骸を雪に隠そうとしたのは保存食にしようとした行動だった。そして、奪われたモノを取り返しに来る。その習性を知る村人は、武器を携えて太田家の通夜に集まっていた。そして日も暮れた夜8時頃、ヒグマは再び現れた。予想していたと言え現場はパニックになってしまった。それでも、なんとか一人の男が銃を撃ち、さらに300m程離れた隣家に待機していた50人の討伐隊が駆けつけた頃にはヒグマは既に姿を消していた。犠牲者なしに安堵した一同は、いったん明景家に退避しようと下流へ向かった。明景家の惨劇
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b2/Sankebetsu_oldhouse01.png/220px-Sankebetsu_oldhouse01.png)