「中根駒十郎」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
'''中根 駒十郎'''(なかね こまじゅうろう、[[1882年]] - [[1964年]])は、[[新潮社]]の編集者、専務取締役。 |
'''中根 駒十郎'''(なかね こまじゅうろう、[[1882年]] - [[1964年]])は、[[新潮社]]の編集者、専務取締役。 |
||
== 経歴== |
|||
[[愛知県]][[岡崎市]]生まれ。1895年郷里の小学校卒業後、上京し、姉の龍子の夫である[[佐藤義亮]]の[[新声社]]に18歳で入社、﹃[[新声]]﹄の編集に当たる。負債のため﹃新声﹄が譲渡され、1904年佐藤が新潮社を興し文芸雑誌として﹃[[新潮]]﹄を創刊すると、[[中村武羅夫]]とともに編集主幹となり、[[田山花袋]]、[[田口掬汀]]らの寄稿を得て、大正期には[[博文館]]の﹃[[太陽 (博文館)|太陽]]﹄、[[春陽堂書店]]の﹃[[新小説]]﹄などと並ぶ文芸雑誌として成長させ、新潮社の大番頭と呼ばれた。1916年﹃[[文章倶楽部]]﹄を創刊、[[楢崎勤]]らを後継者として育て、1943年退職。1960年7月から12月まで﹁駒十郎随聞﹂を﹃図書新聞﹄に連載した。[[夏目漱石]]、[[芥川龍之介]]、[[谷崎潤一郎]]などと親しんだ。
|
[[愛知県]][[岡崎市]]生まれ。1895年郷里の小学校卒業後、上京し、姉の龍子の夫である[[佐藤義亮]]の[[新声社]]に18歳で入社、﹃[[新声]]﹄の編集に当たる。負債のため﹃新声﹄が譲渡され、1904年佐藤が新潮社を興し文芸雑誌として﹃[[新潮]]﹄を創刊すると、[[中村武羅夫]]とともに編集主幹となり、[[田山花袋]]、[[田口掬汀]]らの寄稿を得て、大正期には[[博文館]]の﹃[[太陽 (博文館)|太陽]]﹄、[[春陽堂書店]]の﹃[[新小説]]﹄などと並ぶ文芸雑誌として成長させ、新潮社の大番頭と呼ばれた。1916年﹃[[文章倶楽部]]﹄を創刊、[[楢崎勤]]らを後継者として育て、1943年退職。1960年7月から12月まで﹁駒十郎随聞﹂を﹃図書新聞﹄に連載した。[[夏目漱石]]、[[芥川龍之介]]、[[谷崎潤一郎]]などと親しんだ。
|
||
13行目: | 13行目: | ||
{{People-stub}} |
{{People-stub}} |
||
{{デフォルトソート:なかね こましゆうろう}} |
{{デフォルトソート:なかね こましゆうろう}} |
||
[[Category:編集者]] |
[[Category:日本の雑誌編集者]] |
||
[[Category:新潮社の人物]] |
[[Category:新潮社の人物]] |
||
[[Category:愛知県出身の人物]] |
[[Category:愛知県出身の人物]] |
2011年3月23日 (水) 11:14時点における版
中根 駒十郎︵なかね こまじゅうろう、1882年 - 1964年︶は、新潮社の編集者、専務取締役。
経歴
愛知県岡崎市生まれ。1895年郷里の小学校卒業後、上京し、姉の龍子の夫である佐藤義亮の新声社に18歳で入社、﹃新声﹄の編集に当たる。負債のため﹃新声﹄が譲渡され、1904年佐藤が新潮社を興し文芸雑誌として﹃新潮﹄を創刊すると、中村武羅夫とともに編集主幹となり、田山花袋、田口掬汀らの寄稿を得て、大正期には博文館の﹃太陽﹄、春陽堂書店の﹃新小説﹄などと並ぶ文芸雑誌として成長させ、新潮社の大番頭と呼ばれた。1916年﹃文章倶楽部﹄を創刊、楢崎勤らを後継者として育て、1943年退職。1960年7月から12月まで﹁駒十郎随聞﹂を﹃図書新聞﹄に連載した。夏目漱石、芥川龍之介、谷崎潤一郎などと親しんだ。 漱石の妻・鏡子の旧姓は中根だが特に関係はない。関連項目
参考文献
- 豊田健次「中根駒十郎」『時代を創った編集者101』新書館