内藤千代子
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6e/Chiyoko_Naito.jpg)
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内藤 千代子︵ないとう ちよこ、1893年︵明治26年︶12月9日 - 1925年︵大正14年︶3月23日︶は日本の小説家。
槍ヶ岳・奥穂高岳に登頂した初めての日本人女性でもある。
経歴
東京府東京市下谷︵現・東京都台東区︶出身。3歳の時に神奈川県高座郡鵠沼村︵現・藤沢市︶に移り住み、以後生涯を鵠沼で過ごす。また、教育は全て父の手によって行われ、内藤は学齢期になっても学校に行かせてもらうことはできなかった。その後、生涯に渡って一切学校教育を受けていない。 1908年︵明治41年︶、雑誌﹃女学世界﹄︵博文館︶の懸賞﹁こころの日記﹂に応募した﹁田舎住まひの処女日記﹂が3等当選。以後も投稿を続けて注目されるようになる。 1911年︵明治44年︶9月、初単行本﹃スヰートホーム﹄を刊行。この頃、河岡潮風に出会い、指導を受ける。河岡と内藤の関係については詳細がはっきりしておらず、師弟関係であったとも恋人であったとも言われているが、いずれにせよ河岡が毎週鵠沼の内藤家に通うほど親しい間柄であった。しかし翌1912年︵明治45年︶に河岡は脊髄カリエスのため死去。以後も内藤は作品の発表を続けていたが、1919年︵大正8年︶に﹃毒蛇﹄を刊行したのを最後に、表舞台に現れることはなくなった。 また内藤は、1915年︵大正4年︶に槍ヶ岳と奥穂高岳に登頂している。これは日本人女性初の踏破であった[1]。後、この登山経験を活かして﹃冷炎﹄が書かれた。 1925年︵大正14年︶3月23日、結核のため死去。31歳。墓所は鵠沼の万福寺。作品
﹁樋口一葉の再来﹂とも評され、作品はおしなべて大ベストセラーになったという。読者の中心は若い女性たちであった。短編集
自叙伝
長編小説
脚注
- ^ 日本初の女性登山家といわれる村井米子の初登頂(1924年)より9年早いが、1913年夏にウォルター・ウェストン夫妻が登頂した記録があるから女性初登頂者はウェストン夫人ということになる。
参考文献
- 横田順彌『快絶壮遊[天狗倶楽部] 明治バンカラ交友録』、教育出版、1999年
- 横田順彌『明治時代は謎だらけ』、平凡社、2000年