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﹃[[三国志 (歴史書)|三国志]]﹄﹁[[蜀書]]﹂'''劉封伝'''によると、元々は羅侯の寇氏の末裔で、[[長沙]]の劉氏の甥であり、[[劉備]]が自分の[[養子]]として迎えたと記述されている。
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しかし、いくら調べても、劉封について説明している一行にしか、羅侯の寇氏という語が見当たらない。 |
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恐らく、寇氏は鄧氏を誤記したものではないかと思われる。 |
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2007年2月10日 (土) 05:32時点における版
略要
その出自
﹃三国志﹄﹁蜀書﹂劉封伝によると、元々は羅侯の寇氏の末裔で、長沙の劉氏の甥であり、劉備が自分の養子として迎えたと記述されている。
しかし、いくら調べても、劉封について説明している一行にしか、羅侯の寇氏という語が見当たらない。
鄧芝の先祖・鄧禹の死後、孫の鄧丞が何か罪を得て羅侯に格下げされたという記述が﹃後漢書 鄧禹伝﹄に見える事から、
恐らく、寇氏は鄧氏を誤記したものではないかと思われる。
生涯
彼は義弟の劉禅とは対照的で剛毅で勇猛果敢の人物だったといわれる。213年に、養父の劉備の益州攻略戦に参加して、彼は優れた統率力を発揮して武功を挙げて、副軍中郎将に昇進した。当時の劉封は20余歳だったという。翌々年の215年夏5月に劉備が蜀の都である成都を平定すると、孟達と共に上庸の守備を命じられた。だが、劉封は219年に救援を求める関羽を見殺しにした。また、孟達と対立し、そのために孟達は魏に出奔してしまった上に、元は魏将であった配下の申耽・申儀兄弟が上庸で反乱を起こして劉封を追放してしまったため、劉封は止むなく養父の劉備の下へ敗走することになった。
だが、劉備は関羽を見殺しにしたこと、上庸を失ったことなどを激しく咎めた。同時に諸葛亮は劉封の勇猛さを恐れ、いずれは劉封が災禍を起こすであろうと判断し、これを機会に排除すべきと進言した。こうして彼は非業の自決を遂げた。この時に劉封は﹁孟達の投降に従っておれば…﹂と洩らしたという。
子の劉林は牙門将に任命され、蜀漢滅亡後、河東郡に移住したという。
演義などでの劉封
﹃演義﹄での劉封は、樊城の県令の劉泌の甥で、彼の器量に惚れた劉備の養子となった。その時に関羽が寇封︵劉封︶が劉備の養子になったと聞き、険しく苦り切った表情となり、﹁何故、寇封を養子とされたのですか?わが君には阿斗︵劉禅︶君がいるではありませんか?これでは劉表の諸子によるお家騒動の二の舞となり、わが君にもその危険性が及ぶのではありませんか?﹂と思わず不平不満を洩らしたという。しかし以降は、諸葛亮の指揮下で関羽の養子の関平︵実際は関羽の庶長子︶と共に大活躍していることになっている。後年の219年に、劉封は確執関係にあった義理の伯父の関羽を孟達の進言で見殺しにした。翌年に孟達の裏切りで、徐晃・夏侯尚率いる魏軍に大敗を喫してしまった。劉封は止むなく成都に逃れた。しかし、そのことに怒った劉備が、劉封の処刑を部下に命じる。それ以前に、劉封は、魏に降った孟達から︵身の安全のため︶魏への投降を勧められていたが、怒って投降を勧めた使者を斬り、信書を破り捨てていた。そのことを知った諸葛亮らが、処刑の中止を進言するも、一足遅く劉封は処刑されていた。劉備は、一時の怒りで劉封を処刑してしまったことを嘆き悲しみ病に倒れたとされる。
その評価
しかし、﹃三国志﹄の著者の陳寿が劉封に対する評価は極めて厳しいものであった。﹁先主︵劉備︶に嫌疑をかけられる立場に追い詰められているにも拘らず、その対策を全く立てようとしなかった。その身の破滅は当然である﹂…と。