劉禅
懐帝 劉禅 | |
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蜀漢 | |
第2代皇帝 | |
清代の書物に描かれた劉禅 | |
王朝 | 蜀漢 |
在位期間 |
章武3年4月24日 - 炎興元年11月6日 (223年6月10日 - 263年12月23日) |
都城 | 成都 |
姓・諱 | 劉禅[1] |
字 | 公嗣 |
諡号 | 孝懐皇帝(漢(前趙)による)、思公(安楽公としての諡号、西晋による) |
生年 | 建安12年(207年) |
没年 | 泰始7年(271年) |
父 | 劉備 |
母 | 甘夫人 |
后妃 |
敬哀皇后 張皇后 |
陵墓 | 恵陵 |
年号 |
建興(223年 - 237年) 延熙(238年 - 257年) 景耀(258年 - 263年) 炎興(263年) |
※幼名は阿斗 |
劉 禅 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 劉禪 |
拼音: | Liú Shàn |
英文: |
Liu Sh'an Liu Shan |
劉 禅︵劉 禪、りゅう ぜん︶は、三国時代の蜀漢の第2代皇帝。魏に降伏したため、皇帝としての諡は本来ないが、漢の後継を称する劉淵によって諡を贈られた。
生涯[編集]
誕生[編集]
207年︵建安12年︶、父の劉備が劉表に身を寄せ、荊州の新野にいた時に側室の甘氏との間に生まれた。翌208年に曹操が荊州を攻めた際に、趙雲に救われて九死に一生を得た︵長坂の戦い︶。孫夫人が、劉禅を連れて呉へ帰ろうとしたことがあったが、張飛と趙雲によって奪還されている。劉備が益州の地を奪い、さらに漢中を攻め取って漢中王になると太子になった。 221年︵章武元年︶の夷陵の戦いにおいては、呉の孫権の征伐に赴いた劉備に成都の留守を任された。劉備が夷陵において敗退すると、益州で反乱が勃発するが、諸葛亮らの働きでこれを鎮圧している。皇帝即位[編集]
223年︵章武3年︶、父の劉備の崩御に伴い17歳で皇帝に即位すると、諸葛亮らに政務を任せて国を守った。諸葛亮は蔣琬や費禕、李邵や他多くの人材を招聘して夷陵の戦いで失った人材を補充し、225年︵建興3年︶、南征を起こして蜀南部を安定させた。その後北伐を起こし、228年︵建興6年︶の街亭の戦いは馬謖の抜擢が裏目に出るものの、229年︵建興7年︶には武都・陰平の2郡を陥落させ、蜀に組み込むことに成功する。それに反撃するために魏は230年︵建興8年︶に大規模に侵攻し、子午の役を起こすものの長雨のために失敗し、一方蜀側は魏延や呉懿を涼州方面に出撃させ、郭淮らを撃退する戦果を得た。翌231年︵建興9年︶、再び北伐を起こすものの、兵糧不足で撤退した。しかし司馬懿らを会戦で撃退して3千の敵兵を討ち取り、追撃してきた張郃を討ち取った。この時、輸送の失敗と、それをごまかして罪を転嫁しようとした李厳を、諸葛亮の上奏にもとづいて罷免している。その後、3年間の国力回復後、234年︵建興12年︶に再び北伐を起こすものの、魏との対陣中に諸葛亮は死去した。劉禅は白い喪服を着て3日間哀悼の意を表し︵﹃華陽国志﹄﹁広漢士女﹂による︶、その死を喜び上表した李邈を怒りに任せ処断している。蔣琬や費禕・董允などの能吏に支えられ国を維持していた。劉禅自身の行為としては、後宮の人員増員を要請したり、遊興や行幸したという記録が多く残っており、董允や譙周に諫言されている。諸葛亮の死後[編集]
237年︵建興15年︶に皇后の張氏︵敬哀皇后︶が没し、238年︵延熙元年︶にその妹を新たに皇后とした︵単に張皇后と呼ばれる︶。 諸葛亮の死後、その遺表を遵守し荊州閥で北伐推進派の蔣琬を録尚書事・大将軍に任じ238年︵延熙元年︶には漢中に幕府を開かせ、成都の政は益州閥で北伐慎重派の費禕に一任した。蔣琬は漢水を下って上庸へ侵攻する作戦を立てたが、己の持病が続発したために実行に移せないでいた。 241(延熙4)年10月、蔣琬に否定的な衆論を劉禅は費禕と姜維を遣わし伝達させ、漢中で3者は代替となる涼州侵攻策を作成、243年︵延熙6年︶に上奏し裁可された。同年10月、姜維が涼州刺史に就任し蔣琬は涪に駐屯した。 244年︵延熙7年︶に曹爽・夏侯玄の率いる魏軍が漢中に侵攻し、魏延が生前に秦嶺山脈中に築いた数多の陣地に拠った王平の督戦で撃退に成功した。費禕が魏の退路を断ったため、魏は大いに苦戦しながら撤退し、輸送用の牛や馬のほとんどを失い、羌族が大いに動揺したという。 病が篤くなった蔣琬は董允と同じ246年︵延熙9年︶に没し、その後任に就いたのは諸葛亮の遺表通り費禕であった。蔣琬から費禕に至るまで、本人が外地に在っても国家の恩賞・刑罰は全て両者に諮問してから実行された。北伐推進派の姜維が出兵を申出ても、管轄する北伐慎重派の費禕は大敗に備え1万以下の兵しか与えなかった。﹃魏略﹄では蔣琬の死後から劉禅が自ら政治をみるようになったとあるが、大赦を濫発するなど政治は弛緩し宮中は奢侈に流れた。また董允の死が、それまで抑えられていた宦官の黄皓の台頭を許してしまった。劉禅の黄皓への信用は高く、弟の劉永ですら黄皓のために宮中から遠ざけられる状況であった。 247年︵延熙10年︶に隴西で魏に対する羌族の大きな反乱があり、姜維はこれを機に隴西に出撃するも、少数の兵では大きな戦果を得られなかった。一方で魏軍に破られ、降伏を申し込んできた治無載や白虎文ら反乱軍を蜀に迎え入れ、それを阻止しようとした郭淮らの撃退に成功している[2]。 248年︵延熙11年︶に王平が没すると費禕が後任で漢中に駐屯することとなった。 249年︵延熙12年︶に夏侯覇が蜀漢に亡命してきた。劉禅は夏侯覇と会見し、﹁あなたの父︵夏侯淵︶は戦陣の中で命を落としたのだ。私の父が殺したのではないのだ﹂と言い、自分の子供[3]を指さし示して、﹁この子は夏侯氏の甥にあたる﹂と言った。かくして、手厚く爵位恩賞を賜った[4]。 251年︵延熙14年︶夏に費禕は成都に帰還するも、﹁都には宰相の位が見当たらぬ﹂との占断で冬には北の漢寿︵葭萌関︶に駐屯、2年後に其処で正月の宴席で魏の降将郭循によって刺殺された。先の占断は宰相の死を予言する物であった。 費禕の死を承け、国政を陳祗に輔弼された姜維がたびたび大規模な北伐を遂行︵姜維の北伐︶した。254年︵延熙17年︶には狄道太守李簡の降伏により、隴西の3県を落として敵将徐質を討ち取り、3県の住民を連行して帰還した。255年︵延熙18年︶に再び出撃し、魏の王経の軍を大破して数万の敵兵を討ち取り、魏でも﹁危うく1州を失う所だった﹂と言われるほどの大戦果を得たが、256年︵延熙19年︶段谷の戦いで鄧艾に大敗したのをきっかけに北伐はとん挫し、また連年の出兵で国力は疲弊した。258年︵景耀元年︶に陳祗が没すると、後任と謂うべき才を持つ者は存在せず、宦官の黄皓が政治の実権を執るようになった。 260年︵景耀3年︶には、関羽や張飛といった建国の功臣や夏侯覇に諡号を追贈した。翌年には諸葛亮の子の諸葛瞻が取り立てられ、諸葛瞻・董厥・樊建は政務を担当したが、黄皓の権力の掣肘とはならず、お互いを庇うのが精いっぱいであり、政治の乱れを矯正できなかった。また、黄皓は閻宇と結託して姜維と閻宇を交代させようと画策した。262年︵景耀5年︶には姜維が黄皓の専横を憎んで、除くよう劉禅に上表したが拒否され、自分の身を危うんだ姜維は外地に駐屯し、成都に帰還できなくなった。諸葛瞻・董厥は、姜維が戦争を好んで功績なく、国内が疲弊していることを理由に、姜維を前線から召還して益州刺史とし、その軍事権を奪うように劉禅に上奏すべきと考えていたという。蜀漢の滅亡[編集]
詳細は「蜀漢の滅亡」を参照
263年︵炎興元年︶に魏の軍勢が蜀に大規模な攻勢をかけると、姜維は援軍を求めた。しかし黄皓は敵が来ないという占いを劉禅に信じさせたため、防衛は後手に回り、陰平方面から迂回して進軍してきた魏軍が、江油の馬邈を降参させた。さらに綿竹で諸葛瞻が討ち取られると抵抗の手段を失い、南方か呉への逃亡を図ろうとしたが、結局は北伐反対派で益州閥の譙周の勧めに従い降伏した。劉禅は、降伏するときの仕来りに則り、自らの身を縛りあげ、棺を担いだ姿で、自ら魏軍の鄧艾の元を訪れたという[5]。
このとき五男の北地王劉諶が抗議で一家心中している。また、魏の将軍に略取されそうになった愛妾の李昭儀が自害したという。
264年︵景元5年︶、魏軍内紛の際に姜維より蜀再興の手紙を渡されたというが、結局反乱は失敗し、このとき姜維ら旧臣の多くと太子の劉璿を失った。劉禅は生き残った子たちと共に洛陽に移送された。伴をした家臣は郤正などわずかな者だけであったといわれる。また、洛陽で司馬昭に宴会に招かれた際の逸話が﹃漢晋春秋﹄に載っている︵後述︶。