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2006年4月16日 (日) 07:30時点における版
劉封︵りゅうほう、?-220年︶は、中国の三国時代、蜀漢の皇族武将。子は劉林。
元は羅侯の寇氏の子︵後漢書によると、一説では後漢の元勲の高密侯の鄧禹の後裔で、本来は鄧氏とも言われる︶で長沙の劉氏の甥であったが、劉備が彼の素質を見込んで自分の猶子として迎えた。彼は継弟の劉禅とは対照的で剛毅で勇猛果敢の人物だったといわれる。
劉備の益州攻略戦に参加して武功を挙げて副将軍に昇進した。そして劉備が漢中を平定すると、孟達と共に上庸の守備を命じられた。だが、関羽を見殺しにしたことから孟達と対立し、孟達は魏に出奔してしまった上に、元は魏将であった配下の申耽・申儀兄弟が上庸で反乱を起こして劉封を追放してしまったため、劉封は止むなく猶父の劉備の下へ敗走することになった。
だが、劉備は関羽を見殺しにしたこと、上庸を失ったことなどを激しく咎めた。同時に諸葛亮は劉封の勇猛さを恐れていたという。いずれは自分が劉封によって禍に遭うと判断し、劉備に上奏して﹁わが君のご逝去後に、跡を継がれる太子禅さまでは継兄である封君︵劉封︶を統率されるのは極めて困難でありましょう。この機会に封君に死を賜りまするよう…﹂と進言した。また、劉備自身も劉封の勇猛さでは支え切れない太子の劉禅の将来性を考慮した末に、決断を下して自決用の剣を劉封に渡し、こうして彼は非業の自決を遂げたという。
三国志演義では関羽を見殺しにしたことに怒り劉封を処刑するように部下に命じるが、孟達が劉封へ魏に下るように進言する手紙を使者を通じて送り、怒った劉封が手紙を破り捨て使者を斬り義理を守ったとして諸葛亮が正史とは逆に彼を殺さぬように進言し処刑を止めようとするが、一足遅く劉封は処刑された後で劉封の死を嘆き悲しみ病に倒れたとされる。
また俗説では、呂布に追われた劉備がある邸宅に厄介になった。その時にその主人である劉備と同姓の劉安は、もてなす食料が無いことに気づき、そこで奥の厨房に行って、自分の妻を殺して、その肉をご馳走として劉備に差し出したといわれる。事の成り行きを知った劉備はさすがに驚愕したという。そこまで自分ために尽くした劉安の恩義に報いるために、その褒賞として劉安の息子である劉封を自分の養子に迎えた―… とある。