劉封
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生涯
﹃三国志﹄蜀書劉封伝によると、元々は長沙郡の1県である羅侯国の寇氏の末裔で、長沙の劉氏の甥であった。劉備に実子劉禅が生まれる207年以前、当時荊州に滞在し未だ世継ぎの無かった劉備から養子に迎えられた。
212年、劉備が益州攻略戦に乗り出した。劉封は当時20余歳だったが武芸・気力ともに人より優れていたことから、諸葛亮・張飛・趙雲らに従って共にこの戦いに参加。行く先々で武功を挙げて、益州平定後、副軍中郎将に任じられた。
建安24年︵219年︶、劉備は孟達に房陵攻撃を命じ、孟達は西進し上庸太守申耽を攻撃した。劉封は孟達1人では心もとないと思った劉備に命じられ、その援軍として漢中を発して上庸に進軍。太守申耽を降伏させた。この功によって、劉封は副軍将軍に昇進した。
同年曹操と孫権の挟撃を受け、関羽が孤立した。関羽からは何度も援軍を要請されたが、占領したばかりでまだ動揺が収まっていないという理由でこれを拒否した。結果、関羽は敗死。劉封・孟達はこの事で劉備の深い恨みを買った。また劉封は孟達とも対立しており、のちに彼の軍楽隊を接収した。220年7月、劉封に対する憤りと関羽を敗死させた罪への恐れから孟達は魏に出奔。魏は孟達を建武将軍・新城太守に任じ、徐晃・夏侯尚と共に劉封を攻めさせた。その際、孟達は劉封に魏へ付くよう手紙を送ったが劉封は従わなかった。しかし、申耽の弟の申儀などが反乱を起こし、劉封を襲ったため上庸は陥落し、成都への敗走を余儀なくされた。
劉備は関羽を見殺しにしたこと、上庸を失ったことなどを激しく咎めた。諸葛亮は劉備にいずれは劉封が災禍を起こすであろうと判断し、これを機会に排除すべきと進言した。かくして劉封は死を賜る事になった。自決の際、劉封は﹁孟達の言葉に従わなかったことが残念だ﹂と嘆いた。これを聞いた劉備は彼のために涙を流した。
子の劉林は誅殺されず牙門将に任命され、蜀漢滅亡後の264年、河東郡に移住した。
﹃三国志﹄の撰者陳寿評では﹁先主︵劉備︶に嫌疑をかけられる立場に追い詰められているにも拘らず、その対策を全く立てようとしなかった。その身の破滅は当然である﹂と大変手厳しいものとなっている。
三国志演義
小説﹃三国志演義﹄では、樊城の県令の劉泌の甥で、彼の器量に惚れた劉備の養子となった。
それを知った関羽は、﹁阿斗︵劉禅︶君がいるのになぜ養子をとるのか?これでは劉表の諸子によるお家騒動の二の舞になるのではないか﹂と不平不満を洩らしたという。なお、﹃演義﹄における劉封は劉禅が生まれて以降に養子に迎えられた事になっており、史実とは順序が逆転している。
以降は、諸葛亮の指揮下で主に関平らと共に活躍するようになる。曹操の息子曹彰に一騎打ちで敗れたが、それ以外についての記述はほとんどない。
後年の219年に、劉封は確執関係にあった関羽を孟達の進言で見殺しにしてしまう。翌年に孟達の裏切りで、徐晃・夏侯尚率いる魏軍に大敗を喫し、止むなく成都に逃れた。怒った劉備はたちまち劉封の処刑を部下に命じたが、劉封が孟達からの魏への投降勧誘を断り、使者を斬って信書を破り捨てていたことを理由に諸葛亮らが処刑の中止を進言するも、一足遅く劉封は処刑されていた。劉備は、一時の怒りで劉封を処刑してしまったことを嘆き悲しみ病に倒れたとされる。