原耕
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5d/Hara_Ko.jpg/180px-Hara_Ko.jpg)
原 耕(はら こう、1876年(明治9年)2月7日[1] - 1933年(昭和8年)8月3日)は、日本の政治家、医師、漁業経営者。
略歴
1876(明治9)年11月に鹿児島県川辺郡西南方村︵現南さつま市坊津町︶に生まれた。生家は代々カツオ漁業を経営していた。
1902(明治35)年大阪高等医学校︵現在の大阪大学医学部の前身︶を卒業後、神戸市衛生課、船医勤務等を経て枕崎に医院を開業した。
医院開業のかたわら第16回・第18回衆議院議員総選挙に当選し、衆議院議員を2期務めた︵立憲民政党、新党倶楽部、立憲政友会に所属︶。
また家業のカツオ漁業にも関わり、大正末期から昭和初期にかけて南方漁場の調査・開拓を行った。
1933(昭和8)年アンボンで漁業基地を建設中に悪性マラリアに冒され、死去。享年58。
原耕とカツオ漁業
生家がカツオ漁業の経営を営んでいたこともあり、原とカツオ漁業の関係は深いものがあった。医院開業後の1906︵明治39)年には父親の遺志を継いでカツオ漁業の経営に乗り出している。
当時の漁船は小型船が主流で、風任せの漁船は台風の度に大規模な海難事故に遭遇していた。漁船の動力化と大型化を推進するため、原は枕崎造船所の設立に参画した。
漁船の動力化は海難事故の減少につながった一方、他県船との漁場の競合と不況の煽りで大正末期には枕崎等のカツオ漁業は倒産が相次ぎ、経営が困難になりつつあった。このような状況を打開するため、原は大型船を建造して自ら漁場調査に赴き、次々と新しい漁場を発見していった。
原の漁場調査により、枕崎はカツオ遠洋漁業の基地として飛躍的な発展を遂げることとなった。
脚注
- ^ 衆議院『第五十五回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1928年、34頁。