「啓蒙専制君主」の版間の差分
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'''啓蒙専制君主'''(けいもうせんせいくんしゅ、'''Enlightened despotism''')とは、主に18世紀後半、[[プロイセン王国|プロイセン]]・[[オーストリア]]・[[ロシア帝国|ロシア]]において啓蒙思想を掲げて「'''上からの近代化'''」を図った君主をさす。この概念を北欧・西欧の君主にあてはめる場合もある。西欧の絶対君主と類推して'''啓蒙絶対君主'''(''Enlightened absolutism'')と訳出されたこともあったが、近年はあまり用いられない。 |
'''啓蒙専制君主'''︵けいもうせんせいくんしゅ、'''Enlightened despotism'''︶とは、主に18世紀後半、[[プロイセン王国|プロイセン]]・[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]・[[ロシア帝国|ロシア]]において[[啓蒙思想]]を掲げて﹁'''上からの近代化'''﹂を図った君主をさす。この概念を北欧・西欧の君主にあてはめる場合もある。西欧の絶対君主と類推して'''啓蒙絶対君主'''︵''Enlightened absolutism''︶と訳出されたこともあったが、近年はあまり用いられない。
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==代表的人物== |
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最も有名な啓蒙専制君主が18世紀後半の[[プロイセン王国|プロイセン]]における[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]で、その他に[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の[[ヨーゼフ2世]]︵その母である女帝[[マリア・テレジア]]も含む︶、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[エカチェリーナ2世]]などがその典型とされる。また一般的には知られていないが、[[スウェーデン]]の[[グスタフ3世]]も啓蒙君主として説明されることがある |
最も有名な啓蒙専制君主が18世紀後半の[[プロイセン王国|プロイセン]]における[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]で、その他に[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の[[ヨーゼフ2世]]︵その母である女帝[[マリア・テレジア]]も含む︶、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[エカチェリーナ2世]]などがその典型とされる。また一般的には知られていないが、[[スウェーデン]]の[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]も啓蒙君主として説明されることがある︵グスタフ3世の母[[ロビーサ・ウルリカ|ロヴィーサ・ウルリカ]]はフリードリヒ2世の妹であり、彼女も[[啓蒙思想]]に感化されていたように、啓蒙思想は当時の各国君主に少なからず影響を与えた︶。また、後述の説明に基づけば、[[フランス王国|フランス]]の[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]を啓蒙専制君主として理解することも可能である。
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==概念== |
==概念== |
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当初、啓蒙専制君主は啓蒙思想を掲げる絶対君主として理解されていた。プロイセンのフリードリヒ2世が[[ヴォルテール]]を自国へ招いた際には両者は数日で不和を招き、 |
当初、啓蒙専制君主は啓蒙思想を掲げる絶対君主として理解されていた。プロイセンのフリードリヒ2世が[[ヴォルテール]]を自国へ招いた際には両者は数日で不和を招き、啓蒙専制君主は[[絶対君主]]よりも酷い物であるとヴォルテールは述懐している。こういった逸話は啓蒙専制君主の体制を、実質的には[[絶対君主制]]と何ら変らないとする理解をもたらした。こうして、啓蒙専制君主を絶対君主の概念から類推して説明する場合、この概念は「啓蒙絶対君主」とも訳出された。 |
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しかしながら、近年はこうした見解に批判が強い。その根拠として、絶対王政の時代を「社団国家」という枠組みで理解することが主流になったことが挙げられる。フランスの[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]にみられるような、いわゆる「絶対君主」においても、その権力の及ぶ範囲は一人一人の人民にまで及ぶものではなく、身分団体や経済的特権団体などの「[[社団]]」にまでしか及ばなかった。「絶対王政」という体制は、この[[王権]]と特権的諸団体の連携のもとに成立するものである。 |
しかしながら、近年はこうした見解に批判が強い。その根拠として、絶対王政の時代を「社団国家」という枠組みで理解することが主流になったことが挙げられる。フランスの[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]にみられるような、いわゆる「絶対君主」においても、その権力の及ぶ範囲は一人一人の人民にまで及ぶものではなく、身分団体や経済的特権団体などの「[[社団]]」にまでしか及ばなかった。「絶対王政」という体制は、この[[王権]]と特権的諸団体の連携のもとに成立するものである。 |
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こう |
こうして﹁絶対王政﹂を捉えた場合、決して啓蒙専制君主は﹁絶対君主﹂と類推できるものではなく、むしろその逆であるといえる。例えばオーストリアのヨーゼフ2世が貴族の特権をおさえようとしたり、宗教寛容令を出して[[カトリック教会]]の特権的地位を弱めようとしたことは、﹁絶対君主﹂が﹁社団﹂を利用して君主権を強化したことに対して、その反対に﹁社団﹂の弱体化や特権剥奪によって君主権強化を図ったものである。すなわち、啓蒙専制君主は﹁[[上からの改革]]﹂を通じて身分制社会の構造を切り崩し、均質な[[国民]]を創出することに寄与したと理解できる。
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上記の観点に立つのであれば、フランス革命直前の[[ルイ16世]]は、テュルゴーやネッケルの助言のもとで、[[貴族]]や[[聖職者]]の免税特権剥奪を図るなど、国家財政の危機的状況を脱するために「社団」の枠組みを超えた国内改革を行おうとしていた。この点で彼は「絶対君主」ルイ14世とは異なるため、むしろ「啓蒙専制君主」の概念から類推して理解するほうが妥当ともいえるのである。 |
上記の観点に立つのであれば、フランス革命直前の[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]は、[[ジャック・テュルゴー|テュルゴー]]や[[ジャック・ネッケル|ネッケル]]の助言のもとで、[[貴族]]や[[聖職者]]の免税特権剥奪を図るなど、国家財政の危機的状況を脱するために「社団」の枠組みを超えた国内改革を行おうとしていた。この点で彼は「絶対君主」ルイ14世とは異なるため、むしろ「啓蒙専制君主」の概念から類推して理解するほうが妥当ともいえるのである。 |
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2008年3月23日 (日) 17:54時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Joseph_II.jpg/180px-Joseph_II.jpg)
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