「大熊喜邦」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m 画像の追加 |
|||
5行目: | 5行目: | ||
==経歴== |
==経歴== |
||
麹町生まれ。父は元[[旗本]]であった。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て、[[1903年]]、[[東京帝国大学]]工科大学建築学科を卒業。卒業後は大学院に籍を置き、横河工務店に入所。[[帝国劇場]]などの設計に関与した。
|
麹町生まれ。父は元[[旗本]]であった。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て、[[1903年]]、[[東京大学|東京帝国大学]]工科大学建築学科を卒業。卒業後は大学院に籍を置き、横河工務店に入所。[[帝国劇場]]などの設計に関与した。
|
||
[[1907年]]、[[大蔵省]]臨時建築部嘱託、[[1913年]]、技師に就任。以後は一貫して官庁営繕に従事した。最大のものが[[1920年]]に着工した国会議事堂である。計画は矢橋賢吉のもとでまとめられたが、実質的に設計に当った人物として、一般に大熊と[[吉武東里]]の名が挙げられる。[[1927年]]、議事堂[[上棟式]]が終った直後に矢橋が急逝。以後は大熊が大蔵省営繕管財局工務部長に就任し、営繕組織を率いて建設を進めた。
|
[[1907年]]、[[大蔵省]]臨時建築部嘱託、[[1913年]]、技師に就任。以後は一貫して官庁営繕に従事した。最大のものが[[1920年]]に着工した国会議事堂である。計画は矢橋賢吉のもとでまとめられたが、実質的に設計に当った人物として、一般に大熊と[[吉武東里]]の名が挙げられる。[[1927年]]、議事堂[[上棟式]]が終った直後に矢橋が急逝。以後は大熊が大蔵省営繕管財局工務部長に就任し、営繕組織を率いて建設を進めた。
|
2009年1月17日 (土) 08:30時点における版
![]() |
大熊 喜邦︵おおくま よしくに、1877年1月13日 - 1952年2月25日︶は、日本の建築家。妻木頼黄・矢橋賢吉の後を引き継いで国会議事堂の建設を統括した。
経歴
麹町生まれ。父は元旗本であった。第一高等学校を経て、1903年、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。卒業後は大学院に籍を置き、横河工務店に入所。帝国劇場などの設計に関与した。 1907年、大蔵省臨時建築部嘱託、1913年、技師に就任。以後は一貫して官庁営繕に従事した。最大のものが1920年に着工した国会議事堂である。計画は矢橋賢吉のもとでまとめられたが、実質的に設計に当った人物として、一般に大熊と吉武東里の名が挙げられる。1927年、議事堂上棟式が終った直後に矢橋が急逝。以後は大熊が大蔵省営繕管財局工務部長に就任し、営繕組織を率いて建設を進めた。 国会議事堂が完成した1937年に辞任。歴史にも造詣が深く、本陣・宿駅の研究をまとめた。 1919年に工学博士号取得、1943年に交通経済史の研究により経済学博士号を取得した。 なお、子息に建築家の大熊喜英︵1905年 - 1984年︶がいる。![]() |