第一高等学校 (旧制)
第一高等学校(一高) | |
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創立 | 1886年(明治19年) |
所在地 | 1935年まで 東京市本郷区向ヶ丘 (現:東京都文京区) 東京市目黒区駒場町 (現:東京都目黒区駒場) |
初代校長 | 木下廣次 |
廃止 | 1950年(昭和25年)3月24日 |
後身校 | 東京大学、千葉大学 |
公式ウェブサイト | 第一高等学校ホームページ |
第一高等学校︵だいいちこうとうがっこう、英語: First Higher School︶は、現在の東京大学教養学部および、千葉大学医学部、同薬学部の前身となった旧制高等学校である。﹁旧制一高﹂とも呼ばれる。
概要[編集]
旧制一高は、旧制高等学校の中でも早い時期に創設されたナンバースクールの先駆けであり、1886年︵明治19年︶に、日本の近代国家建設のため必要な人材の育成を目的として第一高等中学校として創設された。第一高等中学校以前たる大学予備門の沿革については「東京大学 (1877-1886)#大学予備門」を参照
校名が第一高等学校に改称された1894年︵明治27年︶以降、一高の修学期間は3年となり、帝国大学の予科と位置付けられた。一部は法学・政治学・文学、二部は工学・理学・農学・薬学、三部は医学であった。また、1921年以降は、文科甲/乙/丙類、理科甲/乙類という分類となる。
一高の卒業生の多くは東京帝国大学へ進学し、戦後、GHQの指導による学制改革に伴って1950年に廃止されるまで、全国から集まった優秀な学生と一流の教授陣により、一高は総計18,633人の卒業生を世に送り出し、政界、官界、財界、学界などあらゆる分野でエリートとして活躍している。
一高の特色としては、1890年代から始まった、学生による自治制度と、皆寄宿制度︵全寮制︶が挙げられる。
一高では生徒訓育を目的に、倫理講堂正面に文人の代表として菅原道真の、武人の代表として坂上田村麻呂の肖像画が掲げられていた[1]。
一高の廃止後、その校舎や組織は、新制東京大学教養学部前期課程︵2年間︶に組み込まれた。このため、東京大学駒場キャンパスにおいては、現在でも旧制一高時代の校舎や﹁一高﹂と刻まれたマンホールの蓋を見ることができるほか、駒場キャンパスの正門には、ローマ神話の女神ミネルヴァの﹁文﹂を意味するオリーブと、軍神マルスの﹁武﹂を表す三つ柏を象った、文武両道を表した一高の校章がはめられている。
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旧制第一高等学校本館(1902年)
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一高柏葉章(鬼三つ柏がモチーフ)
一高生の出身校[編集]
- 小学校
明治期・大正期、現在までに百年来の歴史を持つ文京区の誠之小、千代田区の番町小、麹町小の各小学校には、都下の有力者の子弟が学区を超えて集まり、その多くが﹁一高 - 帝大﹂コースを歩んだ[2]。これは当時、西片︵現在の文京区︶や番町・麹町︵同千代田区︶等に居を構えることが日本を代表する最高の﹁エスタブリッシュメント﹂であったことから、選抜試験を施さない公立小学校でありながら、これら三つの小学校は﹁御三家﹂と呼ばれた。帝大教授の子弟、貴族院議員や子爵の末裔まで、およそ日本の上流階級が好んで集ったがためである[2]。
中等学校
下の表は、1907年︵明治40年︶に旧制第一高等学校に入学した学生の出身中学校︵旧制︶別ランキングを一高への入学者数が多い順に上位12校まで示したもの、および1934年 - 1942年︵昭和9年 - 昭和17年︶の間に同高に入学した学生の出身中学校別ランキングを、同様に多い順に上位12校まで示したものである[3]。
エリートの代名詞として﹁一中 - 一高 - 帝大﹂などと喧伝された官公立の東京府立第一中学校︵現・都立日比谷高校︶や東京府立第四中学校︵現・都立戸山高校︶、官立では東京高等師範学校附属中学校︵現・筑波大附属中・高︶、私立では、明治期までは独語試験の一高三部︵医科︶に多数の合格者を送り出していた獨逸学協会中学校︵現・獨協中・高︶が一中などと合格者数首位争いを演じ、早稲田中学校︵現・早稲田中・高︶や開成中学校︵現・開成中・高︶などが、多くの生徒を一高に送り込んでいたことが分かる。下表には挙がっていないが、日本中学校︵現・日本学園中・高︶、大成中学校︵現・大成高︶、順天求合社中学校︵現・順天中・高︶なども知られていた。
また、1886年︵明治19年︶の中学校令制定により、全国の官公立尋常中学校と全国の官立高等中学校等との履修課程の格差を埋め合わせ、明治半ばの一時期において10年間程度の短期間ではあるが、一部の官公立︵後に一部の私立も含める︶尋常中学校の成績優秀な生徒に対して、無試験︵のち一部科目免除の試験に改定︶で一高をはじめとする全国5校しかなかったナンバースクールへ入学できる特権的な推薦枠︵連絡︶が用意されていた[注 1]。
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沿革[編集]
寮歌[編集]
●﹃全寮寮歌︵闇の中なる︶﹄ - 1901年︵明治34年︶、作詞‥大島正徳、作曲‥島崎赤太郎 ●﹃春爛漫の花の色﹄ - 1901年︵明治34年︶、第11回紀念祭西寮寮歌。作詞‥矢野勘治、作曲‥豊原雄太郎 ●﹃アムール川の流血や﹄ - 1901年︵明治34年︶、第11回紀念祭東寮寮歌。作詞‥塩田環、作曲‥栗林宇一または永井建子 ●﹃嗚呼玉杯に花うけて﹄ - 1902年︵明治35年︶、第12回紀念祭東寮寮歌。作詞‥矢野勘治、作曲‥楠正一 ●﹃新墾の此の丘の上﹄ - 1937年︵昭和12年︶、第47回紀念祭寮歌。学校を本郷から駒場へ移転した心持が歌われている。 ●﹃デカンショ節﹄ - 元は兵庫県篠山の民謡。厳密には寮歌ではないが、ストームと呼ばれる行為の際に歌われた。詳細は「第一高等学校 (旧制)の寮歌」を参照
主な部活動[編集]
●文芸部 - 芥川龍之介、久米正雄、川端康成、堀辰雄など文壇を担う人物を多数輩出。 ●弁論部 - 多くの政治家や官吏を輩出した。また徳富蘆花を招いたことがきっかけとなり物議をかもした。なお、現在の東大弁論部に引き継がれ “第一高等学校・東京大学弁論部” と称している。 ●撃剣部 - 山里忠徳を師として剣道、長刀のほか宝蔵院流高田派槍術を生徒らに伝授し、同術を失伝から守った。 ●野球部 - 1872年︵明治5年︶、大学予備門設立以前の第一大学区第一番中学時代に米人教師ホーレス・ウィルソンから生徒に伝来し創設。翌1873年︵明治6年︶、開成学校に改組されるとともに運動場が設けられた[4]。1890年︵明治23年︶、明治学院との試合でインブリー事件が発生。1896年︵明治29年︶、青井鉞男投手らを擁して、日本初の国際試合とされる[5] 横浜外人クラブを29-4、32-9で破るなどこの時期国内最強を誇った。彼らが行った猛練習・ミート重視の単打戦法などは、今なお野球界に強い影響を与えている。同様にこの頃1880年代以降にかけて、駒場農学校 [注 2]や工部大学校、高商、青山学院、明治学院、慶應義塾、学習院等が部活動を始動した。1896年の横浜外人クラブとの試合に触発された横浜商業︵Y校︶は青井鉞男をコーチに同96年に野球部を創部した。1900年代に入る頃になると、早大野球部始動の礎となった面々が揃う橋戸信の青山学院、大橋武太郎捕手と押川清投手の郁文館中学等に敗れた。1904年︵明治37年︶、早慶両校に敗れ両校等に覇権が移った契機とされる。この間、1890年前後以降から中馬庚二塁手・青井鉞男投手・福島金馬投手・井上匡四郎三塁手らが、1901年前後以降からは守山恒太郎投手、潮恵之輔、中野武二二塁手らが活躍した。1915年前後には城戸四郎などの名が見える。1924年︵大正13年︶、第1回全国高等専門学校野球大会で優勝し、1936年︵昭和11年︶にもその後進大会︵全国高等学校野球大会︶で優勝。また、長く第三高等学校︵京都︶と対抗定期戦を行った。なお﹁東大野球部﹂も参照。 ●水泳部 - 部員であった塩谷温達により兵庫県の民謡であったデカンショ節が伝播され、一高生を通じて民間に普及した。また、紀念祭で踊られた“河童踊り”が現在の東大水泳部によって駒場祭にて踊られている。事件・出来事[編集]
インブリー事件 1890年5月17日、明治学院との野球試合開催中に明治学院の応援に来るのに一高の垣根を乗り越えた神学教師ウィリアム・インブリーに投石、負傷させた事件。 内村鑑三不敬事件 1891年1月9日、教育勅語拝戴式で講師︵寮の舎監で校長・教頭に次ぐNo.3︶の内村鑑三が、教育勅語に記された御親筆の御名に敬礼しなかったため辞任に追い込まれた。 寮歌 1902年3月1日、第12回紀念祭にて寮歌﹁嗚呼玉杯﹂が初めて発表された。 藤村操の自殺 1903年5月22日、在学生の藤村操が﹁巌頭の感﹂の一文を遺し華厳滝で投身自殺した。哲学的煩悶のための自殺として世間に衝撃を与えた︵夏目漱石を参照︶。 謀反論講演 大逆事件の翌年︵1911年2月1日︶、弁論部大会で作家の徳冨蘆花が﹃謀反論﹄の講演を行い、学生の感動を呼んだ︵文部省内では物議をかもす︶。 マント事件 1913年4月、在学していた菊池寛が、友人であった佐野文夫が他の学生から無断借用した制服のマントを︵佐野の依頼で︶質入れしたことをきっかけに窃盗の嫌疑をかけられ、無実の罪をかぶって退学した事件。菊池は後年、この経緯をモデルにした小説﹃青木の出京﹄を執筆した。 日本共産党スパイ査問事件 1934年、日本共産党スパイ査問事件が表面化。党員やシンパが摘発される中で、イギリス人の英語講師ウィリアム・マックスウェル・ビカートンが活動資金を提供していた疑いで検挙された[6]。学生生活[編集]
関係人物一覧[編集]
「第一高等学校 (旧制)の人物一覧」を参照
一高に関連した作品[編集]
●尾崎紅葉﹃金色夜叉﹄︵1897年-1902年︶ ●谷崎潤一郎﹃羹﹄︵1912年︶ ●久米正雄﹃学生時代﹄︵1918年︶ ●川端康成﹃伊豆の踊子﹄︵1926年︶ ●谷崎潤一郎﹃私﹄︵1930年︶ ●三島由紀夫﹃青の時代﹄︵1950年︶[注 3] ●高木彬光﹃わが一高時代の犯罪﹄︵1951年︶ - 駒場に移ってからの一高が舞台。 ●幹本ヤエ﹃十十虫は夢を見る﹄︵2010年~︶ - 昭和初期を舞台にした漫画。主人公が通う﹁壱高﹂として登場。関連文献[編集]
●第一高等学校寄宿寮 ﹃向陵誌﹄ 1939年 ●第一高等学校 ﹃第一高等学校六十年史﹄ 1939年 ●一高自治寮立寮百年委員会 ﹃第一高等学校自治寮六十年史﹄ 一高同窓会、1994年 ●寮歌集 ●水崎雄文﹃校旗の誕生﹄青弓社、2004年12月。ISBN 978-4787232397。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 1891年︵明治24年︶の中学校令改正により、当時の澤柳政太郎文部次官は官立高等諸学校への入学を官公立尋常中学校卒業者に限定し、予備学校︵私立学校︶には認めなかった。そのため今度は,東京では官立高等諸学校と連絡︵推薦︶があった東京府尋常中学への連絡の請願が郁文館や攻玉社はじめ私立諸校から殺到した。のちの1898年︵明治31年︶に連絡は廃止され、官立高等諸学校は同一条件の入学試験に変更された。詳細については 武石典史 (2006年3月10日). “明治前期東京における中等教育の趨勢 : 伝統学知から近代学知へ”. 東京大学大学院教育学研究科. p. 93-94. doi:10.15083/00031353. 2019年2月26日閲覧。
(二)^ 1882年︵明治15年︶、新橋アスレチック倶楽部と駒場農学校との対戦が日本最古の対抗戦とされている︵日本初の野球チーム 新橋アスレチック倶楽部 1878年 日本記録認定協会︶。
(三)^ 東大時代に学士金融の名の下に闇金融を開業し破滅していく戦後アプレ犯罪の象徴とされた山崎晃嗣がモデルの小説。旧制学習院高等科から東大に進んだ三島には当然ながら一高の事情に疎く、﹃青の時代﹄を執筆するにあたり、一高1年時に寮の部屋が山崎と隣同士だった大蔵省入省同期の長岡實に、一高の弊衣破帽、バンカラな校風について聞き取りをした︵週刊新潮 2021年1月14日迎春増大号、p.122 岸宣仁﹃︻特集︼衰退する﹁財務省﹂出世レースの今昔﹄による日経新聞2004年4月﹃私の履歴書 長岡實﹄の引用記事︶。
出典[編集]
関連項目[編集]
●東京大学大学院総合文化研究科・教養学部
●東京大学駒場地区キャンパス
●東京大学の建造物 - 旧制一高時代から残存する校舎についても解説している。
●東京大学駒場寮 - 旧制一高の自治寮についても解説している。
●東京都立日比谷高等学校 - 官立東京英語学校跡の継承経緯を解説している。
●千葉医科大学 (旧制) - 第一高等中学校医学部、第一高等学校医学部、千葉医学専門学校時代を含む変革を解説している。
●エリート
●教養主義
●ナンバースクール
●学制改革
●一高記念賞
外部リンク[編集]
●第一高等学校 ホームページ - 第一高等学校の同窓会が作成したウェブサイト︵東京大学駒場博物館サイト内にて継続︶ ●DVD版 校友会雑誌 ●華麗なる旧制高校巡礼 - 旧制第一高等学校 ●東京大学大学院総合文科研究科・教養学部 駒場博物館 - 第一高等学校の資料を蒐集・保管している。 ●東京大学大学院総合文科研究科・教養学部 駒場博物館デジタルアーカイブ - 第一高等学校旧蔵資料のデジタルアーカイブも含まれている。 ●第一高等学校旧蔵資料 - 東京大学駒場図書館・駒場博物館で所蔵されている第一高等学校の旧蔵書をデジタル化し公開している。