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孫 魯班︵そん ろはん、生没年不詳︶は、三国時代の呉の公主・長公主[1]。字は大虎。父は孫権。母は歩皇后。同母妹は孫魯育。兄弟は孫和など。夫は周循、後に全琮。子は全懌[2]・全呉。大公主[3]と呼ばれる。
略歴
周瑜の長男周循に嫁いだが、周循が早世した。
黄龍元年︵229年︶、父が即位した際に全琮へ再嫁し、全公主[4]と呼ばれるようになった。
赤烏元年︵238年︶、母の死後、王夫人︵のちに大懿皇后と諡された︶が皇后候補になると、王夫人との関係が悪かった魯班はそれを止めようとした。赤烏5年︵242年︶、皇太子の孫登が死去し、代わって孫和が皇太子に立てられた。魯班は、孫和が生母の王夫人のことで自分を恨んでいるのではと思い、孫和の失脚を画策するようになった。ある時、孫権が病床に臥したので、孫和が宗廟で祈ることになった。すると魯班は、孫和が宗廟を少しの間離れて自分の妃の叔父の元に立ち寄ったとの情報を、ただ聞き知っただけであるにもかかわらず﹁太子は宗廟で祈らず、もっぱら妃の実家と策を練っているようです。さらに王夫人も病を喜んでいる様子です﹂と父に誣告した。孫権がこれに激怒すると、王夫人は失意のうちに病死した。また、孫和も父から疎まれるようになった[5]。
赤烏7年︵244年︶以前に、長公主とよばれるようになった[6]。二派が対立すると、孫覇︵魯王︶派は全琮やその一族、さらに歩皇后の一族である歩騭らを味方にし、讒言により張休・陸遜ら孫和︵太子︶派の重臣を陥れた。これにより一時は政治的な優位を築いた。
赤烏13年︵250年︶、孫権は喧嘩両成敗を理由に孫和を廃嫡し、孫覇にも死を命じて、孫亮を皇太子に立てた。後に、再び病床に臥し気弱になった孫権は、孫和の無実を悟り召還しようとしたが、魯班・孫峻・孫弘らがそれに強く反対したため、結局召還できなかった[7]。
孫覇の死後、魯班は新たに父の寵愛を受けた末弟の孫亮に注目し、姪孫に当たる全尚の娘を薦めた。また、孫亮の即位後には皇后とさせた。それ以外には、孫亮の立嫡も魯班の影響を受けていたと考えられている[8]。
諸葛恪の死後、孫峻と密通した[9]。また孫峻は魯班に取り入るため、孫和を自殺に追い込んだ。五鳳元年︵254年︶、孫英・孫儀らが相次いで孫峻の暗殺計画を立てるが、いずれも失敗した。このため翌2年︵255年︶、魯育が孫和の廃嫡に反対したことを根に持っていた魯班は、孫峻に﹁魯育も孫儀の暗殺計画に加担していたようです。﹂と誣告し、誅殺させた[10][11]。
また孫峻の死後、魯育の死の真相を知った孫亮から詰問され窮すると、朱拠の子の朱熊と朱損︵中国語版︶もクーデターの首謀者の一味であったと讒言し、処刑させた[10][11][12]。
太平3年︵258年︶、孫亮は孫綝の専横に業を煮やし、全尚・魯班や将軍の劉承らと謀り、孫綝を誅殺しようと計画した。しかしこの計画は、全皇后や全尚の妻[13]の動きを事前に察知した孫綝が、同年9月26日に先手を打ってクーデターを起こしたことで失敗に終わった。魯班は豫章に流されてしまったという[11]。
小説﹃三国志演義﹄では、全公主の名前で登場する。彼女は孫和と仲が悪く、中傷によって孫和を皇太子の地位から引きずりおろしている。
出典
(一)^ ﹁長公主﹂とは、皇帝の姉妹や娘の中で尊崇を受けた者につけられた封号、後に皇帝の姉妹を指すようになる。
(二)^ ﹃三国志﹄によると、全懌の母であるという記録はない。しかし﹃晋書﹄では、全懌の母は魯班としている。
(三)^ ﹃三国志﹄孫綝伝
(四)^ ﹃藝文類聚﹄に引く﹃請立諸王表﹄、呉の公主は化粧領がない。封号は夫の姓。
(五)^ ﹃三国志﹄王夫人伝、孫和伝
(六)^ ﹃三国志﹄顧雍伝によると、全寄と顧譚が対立した時、魯班は長公主と呼ばれていた。
(七)^ ﹃三国志﹄孫和伝 裴松之の注が引く﹃呉書﹄︵韋昭著︶
(八)^ ﹃三国志﹄三嗣主伝
(九)^ ﹃三国志﹄孫峻伝。宋以前の中国では、公主は夫以外の愛人を持っていた。当時は珍しくなかった。
(十)^ ab﹃三国志﹄孫休朱夫人伝
(11)^ abc﹃三国志﹄孫綝伝
(12)^ ﹃三国志﹄朱拠伝
(13)^ ﹃江表伝﹄
参考文献
●陳寿 ﹃正史 三国志 呉書I﹄ 裴松之注、小南一郎訳、ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08046-5
●陳寿 ﹃正史 三国志 呉書II﹄ 裴松之注、小南一郎訳、ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08088-0
●陳寿 ﹃正史 三国志 呉書III﹄ 裴松之注、小南一郎訳、ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08089-9
関連項目
●二宮事件