顧雍
顧雍 | |
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呉 丞相・平尚書事・醴陵侯 | |
出生 |
建寧元年(168年) 揚州呉郡呉県 |
死去 | 赤烏6年(243年)11月[1] |
拼音 | Gù Yōng |
字 | 元歎 |
諡号 | 粛侯 |
主君 | 孫権 |
生涯[編集]
若き日[編集]
蔡邕が呉郡に来た時、その下で琴と学問の伝授を受けた。心を集中させ乱されることがなく、頭の回転が速かったため、蔡邕にその非凡さを気に入られ、将来大成するだろうとの評価を受け、その名と同じ読みの﹁雍﹂の文字を授かったという説がある︵﹃江表伝﹄︶。また、蔡邕も驚く程の人物と言うことで﹁歎︵驚くの意︶﹂を字に使ったという︵﹃呉録﹄︶。 州と郡の役所から推挙を受け、20歳ぐらいで合肥県長に就任した。以降は婁・曲阿・上虞の地方官を歴任し、それぞれで見るべき治績を上げた。孫権に仕える[編集]
孫権は会稽太守の職務に当たるようになると、自らが任地に赴かず、顧雍を郡の丞に命じて太守の仕事を代行させた。会稽で反乱が起こったとき、武装してそれをいち早く鎮圧したことから民衆・役人に慕われた。数年後、孫権の元に戻り、左司馬となった。 孫権が呉王になると、昇進を続けて大理奉丞となり、尚書令の職務を任され、陽遂郷侯に封じられた。侯に封じるという命令を受け帰宅した後も、家人にそのことを語らなかったため、家人はそのことを後から人伝いに聞き驚いたという。 同郡の張温の性格について話題になると、全琮と同程度の人物と評価する劉基の言葉を否定し、肩を並べる人物などいないと絶賛したことがある︵﹃三国志﹄呉志﹁張温伝﹂︶。 黄武4年︵225年︶、故郷から母親を呼び寄せたときは、孫権も群臣とともに出迎え、前庭で顧雍の母親に拝謁した。後に、太子だった孫登も祝賀を寄せた。呉の丞相へ[編集]
同年に太常へ改任され、醴陵侯に改封された。初代丞相の孫邵が亡くなると、重臣の大半が最長老の張昭を丞相に推薦したが、孫権は顧雍を二代目の丞相に任命した︵﹃三国志﹄呉志﹁張昭伝﹂︶。顧雍は孫邵の後を受けて平尚書事にも任命された。 顧雍は丞相になると、公平さを旨とした人事を行ない、自らの感情に左右されることがなかったという。時には、民衆の間に入って意見を求めることもあり、時宜に適した方策があると、すべて孫権に上聞した。建策が用いられたときはすべて孫権の手柄とし、用いられなかったときはそのことを決して他言しなかった。このことから孫権には重んじられたという。公の場で発言するときには言葉や顔つきは穏やかであったが、正しいと思うことは遠慮せず意見した[2]。 あるとき、孫権が政策全般について不都合な点がないかどうか、尋ねたことがあった。張昭は、法令が煩雑で刑罰が重くなっているとの評判があちらこちらから聞かれるため、緩和すべきではないかと提言した。孫権がしばらく黙った後、顧雍に意見を求めたところ、顧雍は﹁私も張昭殿が聞いたという評判と、同じことを聞いたことがございます﹂と回答した。このため孫権はしぶしぶ裁判の量刑を緩和したという。 黄龍2年︵230年︶、顧雍らは上奏し、孫権の次男孫慮に王号を与えることを提案したが、孫権には許諾されなかった。その後、尚書僕射の存某という人物が顧雍と意見を通じて上疏し、孫慮を鎮軍大将軍に任命して出鎮させることを提案した。孫権はこれを受け、孫慮に仮節を与えて開府させ、半州に役所を置かせた。しかし孫慮は嘉禾元年︵232年︶に若くして死去した︵﹃三国志﹄呉志﹁呉主五子伝﹂︶。 嘉禾2年︵233年︶3月、孫権は先に服属し燕王に封じていた遼東の公孫淵に、九錫と財宝を与えるため太常の張弥・執金吾の許晏・将軍の賀達らを使者に選び、1万の兵を率いさせ海路で遼東に向かわせようとした。呉の朝臣らは顧雍を中心にして挙って反対したが、孫権には聞き入れられなかった︵﹃三国志﹄呉志﹁呉主伝﹂︶。 嘉禾年間、孫の顧承が初めて孫権に召し出された。孫権は顧承が評判以上の人物であったことを喜び、顧雍に手紙を送って慶びを述べた上で、騎都尉に任命して羽林兵を指揮させた。 孫権は従女が顧氏の外甥に嫁いでいたことから、宴席に顧雍の一族を招いたことがあった。当時、孫の顧譚が選曹尚書に任命され、孫権に重用されていた。この宴席では孫権の機嫌が非常によかったため、顧譚は酒に酔った勢いで三度立ち上がって舞いを踊り、いつまでも舞を止めようとしなかったという。このため顧雍は腹を立て、翌日に顧譚を呼びつけてその慢心振りを叱りつけた。さらに顧雍が退室を許さず、そのまま壁の方を向いて横寝になったため、顧譚は立ち尽くしたまま2時間経ってから、ようやく退室を許されたという︵﹃江表伝﹄︶。呂壱事件と晩年[編集]
嘉禾6年︵237年︶春正月、孫権は詔勅を出し、3年の服喪のために職務を放棄する官吏に対する罰則を、定めるべきかどうか協議させた。顧譚や胡綜が意見を述べた後、顧雍が意見を取りまとめ、違反者に死刑を実施すべきと上奏した︵﹃三国志﹄呉志﹁呉主伝﹂︶。 赤烏元年︵238年︶、孫権の歩夫人が死去し、閏10月に皇后位が追贈されることになった︵﹃三国志﹄呉志﹁呉主伝﹂及び﹁孫権歩夫人伝﹂︶。このときの使者を顧雍が務めた︵﹃三国志﹄呉志﹁孫権歩夫人伝﹂︶。 孫権は呂壱や秦博を中書に任命し、諸官庁や州郡の公文書の検査監督に当たらせた。しかし呂壱らはやがて権限を濫用して、専売品や沢山の産物を自由に売買したり、他人の悪事を摘発するために、些細な出来事や偽の醜聞を大げさに取り挙げ、重臣らの経歴を傷つけて、無辜の者を罪に陥れるようになった。顧雍らもまた、謂れのない譴責を受けることとなった。しかし、後に呂壱の悪事が発覚し獄吏のもとに繋がれると、顧雍が直々に獄に赴いて取り調べにあたったため、呂壱は縄目を受けてその前に引きずり出された。顧雍は顔色を和らげて事件に対する申し開きをさせ、獄を出るときも呂壱に声をかけ﹁何か申したいことがあるのではないか﹂と尋ねた。呂壱は叩頭するばかりで何も答えなかった。尚書郎の懐叙が呂壱を面罵して辱めたが、顧雍は﹁官には定まった法があるため、そのようなことをしてはならない﹂と述べた。 赤烏6年︵243年︶11月、丞相在任のまま病死。76歳であった。死の直前、孫権は医師の趙泉を派遣し顧雍を診察させた後、末子の顧済を騎都尉に任命した。このことを聞いた顧雍は、趙泉が患者の死期を診断するのに巧みな人物であったため、自分の死期が近いことを知り、孫権に対し﹁私が生きているうちに、顧済を採り立ててくれたのであろう﹂と悲しみながら語ったという。人物・逸話[編集]
顧雍は酒を飲まず寡黙な人柄であり、行ないも時宜を得たものであった。孫権には﹁顧君はものを言わぬが、言えば必ず的を射る﹂と高く評価された。孫権が酒宴を催したときも、左右の者が顧雍の目を気にし、酒宴で羽目を外すことを控えるようになったため、孫権は﹁顧公が同席すると、酒が楽しめなくなる﹂とこぼしたという。 長男の死の時、顧雍は僚属を集めて碁盤を囲んでいた。外から知らせが来たことを告げられ、子の手紙が無かった。顔色が変わらなかったが、心中は顧邵が亡くなったことを察し、爪が掌を刺して、血が流れ褥をうるおした。賓客は散会すると、﹁なのに涙で目を潰すような責を受けるわけにはいかない﹂と嘆いた。そこで悲しみを吹き飛ばし、落ち着き払っている︵﹃世説新語﹄︶。一族[編集]
長男の顧邵は陸績と並び称されるほどの名声を持った人物で、孫策の娘を娶るなど将来を期待されたが、豫章太守となった後、5年で早世した。孫の顧譚と顧承も共に優れた人物との評判があったが、二宮の変に巻き込まれ不遇の死を遂げた。 次男の顧裕︵顧穆︶が不治の病であったため、顧雍の爵位は末子の顧済が継いだ。顧済が死去すると後継者がなく断絶したが、孫休の時代となった永安元年︵258年︶、まだ存命であった顧裕が後継を許された。顧裕の子の顧栄は、東晋建国期に活躍した人物である。 一族で同時期に活躍した人物としては、同母弟の顧徽と同族の顧悌がいる。評価[編集]
陳寿は﹁父祖以来の業績を基礎としながらも、それを智謀によって運営することで、栄華と官位を極めることに繋がった﹂と評している。 東晋の袁宏の﹁三国名臣序賛﹂︵﹃文選﹄所収︶では魏の9人、蜀の4人、呉の7人が名臣として賞賛されており、その中に名を挙げられている[3][4]。三国志演義[編集]
小説﹃三国志演義﹄では、張紘の推挙で孫権に仕えている。赤壁の戦いでは開戦に反対する降伏派の群臣の一人として登場し、張昭・張紘・歩騭とともに周瑜に対し曹操への降伏を説く。その後も孫権の参謀の1人として、何度か助言している。孫権が即位すると丞相になっている。家系図[編集]
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| 顧裕(顧穆) |
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| 顧禺 |
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| 顧済 |
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| 顧毗 |
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| 顧徽[ft 1] |
| 顧裕 |
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| 顧向 |
| 顧悌[ft 2] |
| 顧彦 |
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| 顧礼 |
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| 顧謙 |
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| 顧秘 |
| 顧参[ft 3] |
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| 顧寿[ft 4] |
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| 顧衆[ft 5] |
| 顧昌 |
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| 顧会 |
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| 顧容 |
| 顧相 |
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| 顧和[ft 6] |
| 顧淳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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