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'''小山 良師'''︵ |
'''小山 良師'''︵おやま よしもろ、[[慶安]]元年︵[[1648年]]︶ - [[正徳 (日本)|正徳]]5年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]︵[[1715年]][[10月1日]]︶︶は、[[江戸時代]]前期の[[武士]]。[[赤穂藩]][[浅野氏]]の家臣。通称は'''源五左衛門'''︵げんござえもん︶、一説に'''源五右衛門'''︵げんごえもん︶。
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== 生涯 == |
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[[大石良雄|大石内蔵助良雄]]の祖父内蔵助良欽の三男として生まれた。母は鳥居左近忠勝の娘。したがって大石内蔵助良雄にとっては叔父にあたる人物である。[[寛文]]6年([[1666年]])3月26日、19歳にして中小姓(24石4人扶持)として[[浅野長直|浅野内匠頭長直]]([[浅野長矩|内匠頭長矩]]の祖父)に仕えた。[[延宝]]3年([[1675年]])11月25日、28歳のときに伯父にあたる赤穂藩士小山喜右衛門良秀の養子となる。以降、逐次昇進して赤穂藩改易時には足軽頭となっていた。
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慶安元年︵1648年︶、[[大石良欽]]の三男として生まれた。母は鳥居忠勝の娘。[[大石良雄]]にとっては叔父にあたる。
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[[寛文]]6年︵[[1666年]]︶3月26日、中小姓︵24石4人扶持︶として[[浅野長直]]に仕えた。[[延宝]]3年︵[[1675年]]︶11月25日、伯父にあたる赤穂藩士・[[小山良秀]]の養子となり、[[足軽大将|足軽頭]]300石にまでなった。
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大石内蔵助の神文血判を提出した一人で、[[赤穂城]]開城後は[[京都]]に住み、同じく[[大石内蔵助]]の親族[[進藤源四郎]]とともに山科の内蔵助を支えて、浅野家再興運動に協力していたが、[[元禄]]15年([[1702年]])7月、[[浅野長広|浅野大学長広]]が[[広島藩]]お預かりが決まり、浅野家再興が絶望的になる。このあと内蔵助が仇討ち一本の路線に転換すると、内蔵助は神文返しをして、命が惜しいものは抜けるようにそれとなく促したが、なんと内蔵助の親族である小山がこの機会に閏8月10日をもって脱盟した。また[[進藤源四郎]]もこの頃に脱盟。さすがの内蔵助もこの二人の脱盟は予想していなかったようで、二人に再考を求めたが、閏8月25日付の書状で再度脱盟を告げている。同年末の義挙後、悔やんで頭を丸め、山城八幡に住んで鳥居休澤と号した。[[正徳]]5年([[1715年]])9月4日に死去。[[享年]]68。京都の紫野瑞光院に葬られた。法名は廣徳院雲叟休澤。
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[[元禄]]14年︵[[1701年]]︶の主君・[[浅野長矩]]による刃傷事件によって赤穂藩改易されると、[[赤穂城]]での論争では一貫して大石派として行動し、神文血判書も提出して大石良雄の盟約に加わった。赤穂城開城後は[[京都]]に住み、同じく大石の親族の[[進藤俊式]]とともに山科の良雄を支えて、浅野家再興運動に協力した。
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ところが、元禄15年︵[[1702年]]︶7月、長矩の弟・[[浅野長広]]が[[広島藩]]お預かりが決まり、浅野家再興が絶望的になると、大石は仇討ち一本の路線に転換し、命を惜しむ者に脱盟の機会を与えるため﹁神文返し﹂を行うが、小山は閏8月10日をもって脱盟した。また進藤もこの頃に脱盟しており、大石も2人に再考を求めたが、閏8月25日付の書状で再度脱盟を告げた。[[赤穂事件]]ののち、討ち入り阻止に動いた[[広島藩]]や兄・[[小山良速]]を憚り<ref>﹃江赤見聞記﹄</ref>剃髪し、山城八幡に住んで鳥居休澤と号した。
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[[category:元禄赤穂事件|こやま よしもろ]] |
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正徳5年︵1715年︶9月4日に死去。[[享年]]68。京都の紫野瑞光院に葬られた。法名は廣徳院雲叟休澤。
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小山 良師︵おやま よしもろ、慶安元年︵1648年︶ - 正徳5年9月4日︵1715年10月1日︶︶は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。通称は源五左衛門︵げんござえもん︶、一説に源五右衛門︵げんごえもん︶。
生涯[編集]
慶安元年︵1648年︶、大石良欽の三男として生まれた。母は鳥居忠勝の娘。大石良雄にとっては叔父にあたる。 寛文6年︵1666年︶3月26日、中小姓︵24石4人扶持︶として浅野長直に仕えた。延宝3年︵1675年︶11月25日、伯父にあたる赤穂藩士・小山良秀の養子となり、足軽頭300石にまでなった。 元禄14年︵1701年︶の主君・浅野長矩による刃傷事件によって赤穂藩改易されると、赤穂城での論争では一貫して大石派として行動し、神文血判書も提出して大石良雄の盟約に加わった。赤穂城開城後は京都に住み、同じく大石の親族の進藤俊式とともに山科の良雄を支えて、浅野家再興運動に協力した。 ところが、元禄15年︵1702年︶7月、長矩の弟・浅野長広が広島藩お預かりが決まり、浅野家再興が絶望的になると、大石は仇討ち一本の路線に転換し、命を惜しむ者に脱盟の機会を与えるため﹁神文返し﹂を行うが、小山は閏8月10日をもって脱盟した。また進藤もこの頃に脱盟しており、大石も2人に再考を求めたが、閏8月25日付の書状で再度脱盟を告げた。赤穂事件ののち、討ち入り阻止に動いた広島藩や兄・小山良速を憚り[1]剃髪し、山城八幡に住んで鳥居休澤と号した。 正徳5年︵1715年︶9月4日に死去。享年68。京都の紫野瑞光院に葬られた。法名は廣徳院雲叟休澤。脚注[編集]
- ^ 『江赤見聞記』