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1857年(安政4年)には[[掛川藩]]主・[[太田資功]]の許可を得て松崎から遠州川崎へ行く水運船の建造を計画し、1863年([[文久]]3年)に完成させる。 |
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1868年(慶応4年)の[[明治維新]]に際しては民間の草莽諸隊が勤王を唱え東国へ維新を伝え諸藩を恭順に導くが、一仙は館林藩士[[岡谷繁実]]とともに[[公家]]の[[高松保実]]の三男[[高松実村]]を隊長とする[[官軍鎮撫隊]](高松隊)を結成し、同年2月1日には雅楽助を名乗 |
1868年(慶応4年)の[[明治維新]]に際しては民間の草莽諸隊が勤王を唱え東国へ維新を伝え諸藩を恭順に導くが、一仙は館林藩士[[岡谷繁実]]とともに[[公家]]の[[高松保実]]の三男[[高松実村]]を隊長とする[[官軍鎮撫隊]](高松隊)を結成し、同年2月1日には雅楽助を名乗り信濃国から入甲する。一仙は台ケ原宿において条目10箇条を発表し、甲斐国を武田時代の旧制に戻し、武田浪人の仕官と年貢減免を約束した(望月直矢『峡中沿革史』)。 |
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高松隊は同年2月10日に勅命の得無いまま[[甲府城]]下に入り、[[江戸幕府]]に捕らえられ処刑された。 |
高松隊は同年2月10日に勅命の得無いまま[[甲府城]]下に入り、[[江戸幕府]]に捕らえられ処刑された。 |
2014年12月1日 (月) 07:21時点における版
小沢 一仙︵おざわ いっせん、天保元年︵1830年︶ - 慶応4年3月14日︵1868年4月6日︶︶は、江戸時代末期の尊皇攘夷派志士、造船技師、彫刻家。本姓は石田。初名を馬次郎。通称に雅楽助。父は石田半兵衛。伊豆国江奈︵現在の静岡県︶出身。
経歴
安政年間︵1855年-1860年︶に小沢一仙を名のり、甲斐国に滞在し八代郡上黒駒村︵笛吹市御坂町︶の檜峰神社拝殿などに彫刻作品を残している。 1857年︵安政4年︶には掛川藩主・太田資功の許可を得て松崎から遠州川崎へ行く水運船の建造を計画し、1863年︵文久3年︶に完成させる。 1868年︵慶応4年︶の明治維新に際しては民間の草莽諸隊が勤王を唱え東国へ維新を伝え諸藩を恭順に導くが、一仙は館林藩士岡谷繁実とともに公家の高松保実の三男高松実村を隊長とする官軍鎮撫隊︵高松隊︶を結成し、同年2月1日には雅楽助を名乗り信濃国から入甲する。一仙は台ケ原宿において条目10箇条を発表し、甲斐国を武田時代の旧制に戻し、武田浪人の仕官と年貢減免を約束した︵望月直矢﹃峡中沿革史﹄︶。 高松隊は同年2月10日に勅命の得無いまま甲府城下に入り、江戸幕府に捕らえられ処刑された。参考資料
- 藤野順「偽勅使事件」