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●1835年︵天保6年︶、山形城内に生れる。
●1847年︵弘化4年︶、家督を継ぐ。
●1854年︵安政元年︶、﹃名将言行録﹄起稿
●1860年︵万延元年︶、藩の許しなく上京、朝廷に攘夷を建言し、勅使の東下を請願する。
●1861年︵文久元年︶、無断上京の罪により降格処分を受ける。
●1863年︵文久3年︶2月、世子秋元礼朝の侍講となる。12月、中老役になり、雄略天皇山陵修復を行う。
●1864年︵元治元年︶2月、征長回避を周旋する。4月、藩命により長州に赴くが、そのため幕府の嫌疑を蒙り、10月に藩から禄を奪われ蟄居を命ぜられ、武州深谷に居を移す。
●1868年︵明治元年︶、大坂遷都に反対し、蝦夷地経営に適する江戸への遷都を建白した︵同年7月、東京奠都の形で実現する︶。高松保実に仕え高松家の家老となる。小沢一仙とともに草莽義軍の高松隊を結成、参謀となり、甲府へ先着するも無許可出兵であったため帰還を命ぜられる。
●1869年︵明治2年︶、岩代国巡察使に随行して会津へ赴任、8月、若松県大参事に転ずる、9月、会津松平家再興を建言、10月、知人の罪への関与を疑われ広島藩預かりとなる、11月、知人に連座して免官、この頃、﹃名将言行録﹄初版刊行、その後も増補改訂を続ける。
●1874年︵明治6年︶、水沢県七等出仕として復官。
●1878年︵明治11年︶、内務省出仕を経て修史館御用掛に転ずる。
●1886年︵明治19年︶、退職。
●1892年︵明治25年︶、史談会幹事となる。
●1900年︵明治33年︶、﹃皇朝編年史﹄刊行。
●1911年︵明治44年︶、続巻を含む﹃名将言行録﹄増補版刊行。
●1920年︵大正9年︶12月9日、病没。