甲府城

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甲府城
山梨県
稲荷櫓 (木造復元)
稲荷櫓 (木造復元)
別名 舞鶴城、一条小山城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 なし
築城主 徳川家康
豊臣秀勝
築城年 1583年(天正11年)
主な城主 浅野氏
徳川氏
柳沢氏
廃城年 1873年明治6年)
遺構 石垣
指定文化財 国の史跡
再建造物 土塀
位置 北緯35度39分55.04秒 東経138度34分16.82秒 / 北緯35.6652889度 東経138.5713389度 / 35.6652889; 138.5713389座標: 北緯35度39分55.04秒 東経138度34分16.82秒 / 北緯35.6652889度 東経138.5713389度 / 35.6652889; 138.5713389
地図
甲府城の位置(山梨県内)
甲府城

甲府城

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甲府城の位置(日本内)
甲府城
甲府城
甲府城の古絵図  『楽只堂年禄』第173巻
愛宕山より眺めた甲府城跡

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1873JR調


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173419 14001717422 

18662 

1868 退

18736 

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氏名 官位 前職 在職期間 後職
1 松平輝照
まつだいら てるあき
従五位下
右京亮
雁間席 慶応2年8月5日 - 慶応3年9月6日 奏者番 上野高崎藩8万2千石
2 大久保忠礼
おおくぼ ただのり
従五位下
加賀守
帝鑑間 慶応3年9月6日 - 慶応3年12月 辞任 相模小田原藩11万3千石
3 真田幸民
さなだ ゆきもと
従二位
信濃守
帝鑑間席 慶応4年1月19日 - 慶応4年1月25日 辞任、撤兵
新政府軍に恭順
信濃松代藩10万石
4 堀田正倫
ほった まさとも
従五位下
相模守
帝鑑間席 慶応4年2月5日 - 慶応4年2月18日 辞退(赴任せず)
新政府軍に恭順
下総佐倉藩11万石

近現代の甲府城[編集]

舞鶴城公園の入口(2014年5月8日撮影)

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調姿

201325

天守[編集]

天守台(2014年5月8日撮影)

そもそも天守が存在していたのか否かについて、議論や検証が続いている。市街地活性化の観点からも多方面から強く注目されており、整備事業においては復元も希望されている。特に文献史料においては宝永3年に甲斐国を訪れた荻生徂徠が『峡中紀行』において甲府城天守は存在しなかったとする証言を残しており、総合学術調査団などの見解では天守の存在に関しては否定的であったが、萩原三雄ら考古学方面では出土した金箔瓦や鯱瓦などは各地で天守を持つ城郭を築造している豊臣系大名特有のもので、近世甲斐の地勢的条件からも一時的ではあるが天守が存在していた可能性を指摘している。一方、文献史料においては現在に至るまで復元の手がかりとなる絵図古文書などは確認されておらず、民間に向けても懸賞金をかけており、資料の捜索が続けられている。

2008年には、文献史学・考古両面の調査委員会により発掘調査で鯱瓦などが出土したことや新出絵図類の検討から、新たな門の存在や松本城に匹敵する[15]天守の可能性のある近世初期の高層建築遺構の存在が指摘されている。一方で調査委員会の報告書においては天守の存否に関しては文献・考古両面からも確定的な判断を下せる資料を見いだせないことから復元・新造論に関しては否定的見解を示している。このように有識者の間でも見解は統一されていないが、「天守閣など甲府城復元・整備推進会議」は2014年の4月から9月まで天守再建などを推進する署名活動を行った[16]

2015年より外部有識者からなる「甲府城跡総合調査検討委員会」が発足し、後藤斎知事も選挙公約で復元について言及しているが、2017年3月27日に山梨県教育委員会が2年間かけて調査した結果でも「(天守閣の)存在を示す直接的な資料は見当たらない」となった[16]

山梨県庁舎防災新館の工事中に内堀の石垣が出土され、この石垣は同館地下1階で遺構を復元し展示されている。

甲府城下町[編集]

甲府城跡の建築物[編集]

機山館[編集]


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謝恩碑[編集]

展望[編集]

西2014311
2014311

現地情報[編集]

所在地

  • 山梨県甲府市丸の内1-5-4

交通

  • JR東日本中央本線・JR東海身延線「甲府駅」南口から徒歩約5分

脚注[編集]



(一)^ 3122620

(二)^ . (20181116). 202257

(三)^  1993, pp. 1113.

(四)^  1993, p. 18.

(五)^  1993, p. 19.

(六)^  1993, p. 14.

(七)^ abc 2011, p. 7.

(八)^ NET

(九)^ abcde  10532019322

(十)^ . . 201362202257

(11)^ . . 202257

(12)^  2011, pp. 155156.

(13)^ abc 2011, p. 156.

(14)^  調調 調502010

(15)^ 130130

(16)^ ab. (2014610). 2014119202257

参考文献[編集]

  • 平山優、1993、「甲府城の史的位置-甲斐国織豊期研究序説-」、『山梨県立考古博物館・山梨県埋蔵文化財センター 研究紀要9 10周年記念論文集』
  • 山梨県立博物館、2011、『柳沢吉保と甲府城』、山梨県立博物館

関連項目[編集]

外部リンク[編集]