小泉節子
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小泉 節子︵こいずみ せつこ、1868年2月26日︵慶応4年2月4日[1]︶ - 1932年︵昭和7年︶2月18日[1]︶は、小泉八雲の妻。日本に関する八雲の著述を支えた。戸籍上の名前はセツだが、本人は節子の名を好んだ[2]。
概要
出雲松江藩の家臣小泉家に生まれ、22歳の時に松江の英語教師として赴任したラフカディオ・ハーン︵後の小泉八雲︶と結婚した。夫・八雲の日本語の理解を助けるとともに、幼少時から物語が好きだったこと[3]もあって日本に関する八雲の著述を支えた。八雲との間に三男一女をもうけた。八雲の死後に、八雲との思い出をつづった﹁思い出の記﹂を著した[4]。生い立ちから八雲との結婚まで
1868年︵慶応4年︶2月4日、松江に生まれセツと命名される。出雲松平家の番頭で家禄300石の小泉弥右衛門湊、母はチエ[5]。生後8日で、同藩で家禄100石の稲垣家の養女となる。明治維新で士族は家禄を失い困窮した。節子の稲垣家も没落したため、小学校を卒業した11歳から織子として働き家計を助けた[6]。節子が18歳の時に稲垣家は士族の前田為二を婿養子として迎えるが、為二は困窮に耐えられず一年足らずで出奔した[7]。1890年︵明治23年︶、22歳の初めに正式に婚姻関係を解消して小泉家に復帰した[8]。節子の話ではこの年の12月に松江に赴任してきたラフカディオ・ハーンに嫁いだ[9]。ハーンは二人の出会いについて全く語っていない[10]。結婚生活
1891年11月に八雲の転勤で夫婦は熊本に転居。節子は八雲との意思疎通のために英語を勉強するが結局ものにならなかった[11]。しかし八雲が語る片言の日本語の﹁ヘルンさん言葉﹂を節子は正確に理解し、夫婦はお互いの意思疎通ができた[12]。熊本では長男の一雄が生まれた。1894年夫婦は神戸に引っ越した。八雲が熊本時代に執筆した﹃知られぬ日本の面影﹄が好評となったのを受けて、著述に専念するようになった[13]。これ以後の八雲の主要作品に節子が素材を提供している[14]。1896年夫婦は東京へ転居する。東京でも節子は八雲に作品の素材を探して提供した。伝承だけでなく当時出版されていた書物を節子が読んで、その内容を﹁ヘルンさん言葉﹂で八雲に伝え、彼の執筆を支えた[15]。夫婦は東京で二男一女をもうけるが、1904年9月26日に八雲が亡くなった。脚注
参考文献
- 長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』 今井書店 2014年
- 小泉節子・小泉一雄「祖母のこと、父のこと」(『全訳小泉八雲全集第12巻』恒文社、1967年、p567-p580)