「小高城」の版間の差分
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城の北東からのびる比高10mほどの丘陵の頸部を堀切で切る形で城を作り、城の南を流れる小高川を外堀としている。城の西から北にかけては水田が巡っており、堀であったと想定される。現在は城の東に弁天池と呼ばれる堀跡が残っている。[[大手]]は東側で、現在作られている南側の参道は遺構とは無関係である。城の一部に[[土塁]]跡が残り、特に神社裏・北面の保存状況が良い。
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城の北東からのびる比高10mほどの丘陵の頸部を堀切で切る形で城を作り、城の南を流れる小高川を外堀としている。城の西から北にかけては水田が巡っており、堀であったと想定される。現在は城の東に弁天池と呼ばれる堀跡が残っている。[[大手]]は東側で、現在作られている南側の参道は遺構とは無関係である。城の一部に[[土塁]]跡が残り、特に神社裏・北面の保存状況が良い。
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城の規模は小さく、主郭以外の曲輪は小さく未発達であるため、実戦向きとは言いがたい。防御力の低さを補うために付近の丘陵に複数の[[出城]]があったといわれている。相馬氏が長年の根拠地であった小高を離れ牛越(南相馬市[[原町区]]牛越)や[[相馬中村城|相馬中村]]に築城したのも、北の[[伊達氏]]に備えるということ以上に、この城地の狭さゆえであると思われる。
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城の規模は小さく、主郭以外の曲輪は小さく未発達であるため、実戦向きとは言いがたい。防御力の低さを補うために付近の丘陵に複数の[[出城]]があったといわれている。相馬氏が長年の根拠地であった小高を離れ牛越(南相馬市[[原町市|原町区]]牛越)や[[相馬中村城|相馬中村]]に築城したのも、北の[[伊達氏]]に備えるということ以上に、この城地の狭さゆえであると思われる。
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この城は、三面を水域と湿地で囲まれていた城であるため、浮船城と呼ばれていたという。現在は[[本丸]]跡の平場に小高神社が建っている。南北朝の争乱のとき[[北畠顕家]]の軍勢に対応するため築城され、[[1336年]]にこれに攻められ一度落城している。翌年に城を奪還してからは十六代[[相馬義胤 (十六代当主)|相馬義胤]]が本城を[[牛越城]]に移転するまで約260年間[[相馬氏]]の居城となっていた。
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この城は、三面を水域と湿地で囲まれていた城であるため、浮船城と呼ばれていたという。現在は[[本丸]]跡の平場に小高神社が建っている。南北朝の争乱のとき[[北畠顕家]]の軍勢に対応するため築城され、[[1336年]]にこれに攻められ一度落城している。翌年に城を奪還してからは十六代[[相馬義胤 (十六代当主)|相馬義胤]]が本城を[[牛越城]]に移転するまで約260年間[[相馬氏]]の居城となっていた。
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2010年2月4日 (木) 16:54時点における版
小高城(おだかじょう)は福島県南相馬市小高区に在する平山城。別名「紅梅山浮船城」。
概要
城の北東からのびる比高10mほどの丘陵の頸部を堀切で切る形で城を作り、城の南を流れる小高川を外堀としている。城の西から北にかけては水田が巡っており、堀であったと想定される。現在は城の東に弁天池と呼ばれる堀跡が残っている。大手は東側で、現在作られている南側の参道は遺構とは無関係である。城の一部に土塁跡が残り、特に神社裏・北面の保存状況が良い。
城の規模は小さく、主郭以外の曲輪は小さく未発達であるため、実戦向きとは言いがたい。防御力の低さを補うために付近の丘陵に複数の出城があったといわれている。相馬氏が長年の根拠地であった小高を離れ牛越(南相馬市原町区牛越)や相馬中村に築城したのも、北の伊達氏に備えるということ以上に、この城地の狭さゆえであると思われる。
この城は、三面を水域と湿地で囲まれていた城であるため、浮船城と呼ばれていたという。現在は本丸跡の平場に小高神社が建っている。南北朝の争乱のとき北畠顕家の軍勢に対応するため築城され、1336年にこれに攻められ一度落城している。翌年に城を奪還してからは十六代相馬義胤が本城を牛越城に移転するまで約260年間相馬氏の居城となっていた。
現在は妙見神を祭る小高神社となっており、相馬野馬追祭りの時に、裸馬を素手で取り押さえ神社に奉納する﹁野馬懸け﹂の場所として知られている。
また、茨城県行方市麻生︵旧行方郡麻生町︶に同名の城跡が存在し、こちらは行方宗幹の子太郎定幹が築城した。
関連項目