「山本権八」の版間の差分
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会津藩士・永岡家︵150石︶の生まれだが、[[文政]]9年︵[[1826年]]︶に同藩士であり[[鶴ヶ城]]下で近所に屋敷を持っていた[[山本良高]]の娘・[[山本佐久|佐久]]の婿となった。後に良高の跡を襲う。佐久との間には三男三女があったが、長じたのは長男・[[山本覚馬|覚馬]]、長女・窪田氏妻、三女・[[新島八重|八重]]、三男・[[山本三郎|三郎]]がいる。山本家は一説に[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武田氏]]の武将・[[山本勘助]]の後裔ともいうが、﹁日新館志﹂によれば[[安土桃山時代]]の茶人・[[山本道句]]の子孫である。権八の家はその分家であり、代々兵法指南を務めてきたが、先代・良高の代より砲術を修め、権八も高島流砲術の指南役として藩に仕えた。
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会津藩士・永岡家︵150石︶の生まれだが、[[文政]]9年︵[[1826年]]︶に同藩士であり[[鶴ヶ城]]下で近所に屋敷を持っていた[[山本良高]]の娘・[[山本佐久|佐久]]の婿となった。後に良高の跡を襲う。佐久との間には三男三女があったが、長じたのは長男・[[山本覚馬|覚馬]]、長女・窪田氏妻、三女・[[新島八重|八重]]、三男・[[山本三郎|三郎]]がいる。山本家は一説に[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武田氏]]の武将・[[山本勘助]]の後裔ともいうが、﹁日新館志﹂によれば[[安土桃山時代]]の茶人・[[山本道句]]の子孫である。権八の家はその分家であり、代々[[兵法]]指南を務めてきたが、先代・良高の代より砲術を修め、権八も[[高島秋帆|高島流砲術]]の指南役として藩に仕えた。
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上級藩士が屋敷を連ねる鶴ヶ城下の郭内米代四之丁に屋敷を持つ<ref>隣家には伊東家︵130石、[[白虎隊]]士・[[伊東悌次郎]]の生家︶と水島家︵150石、[[斗南藩]]庶務掛・[[水島弁治]]の生家︶が、裏手には高木家︵300石、[[斎藤一]]の後妻・[[高木時尾]]の生家︶や日向家︵400石、[[内藤兼備]]の妻・[[内藤ユキ|日向ユキ]]の生家︶などがあった。また権八の生家である永岡家も斜向かいにあった。</ref>。
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上級藩士が屋敷を連ねる鶴ヶ城下の郭内米代四之丁に屋敷を持つ<ref>隣家には伊東家︵130石、[[白虎隊]]士・[[伊東悌次郎]]の生家︶と水島家︵150石、[[斗南藩]]庶務掛・[[水島弁治]]の生家︶が、裏手には高木家︵300石、[[斎藤一]]の後妻・[[高木時尾]]の生家︶や日向家︵400石、[[内藤兼備]]の妻・[[内藤ユキ|日向ユキ]]の生家︶などがあった。また権八の生家である永岡家も斜向かいにあった。</ref>。藩主・[[松平容保]]が[[京都守護職]]として在京をもっぱらとすると、[[元治]]元年︵[[1864年]]︶に権八も上京し、その執務に参加した。同年7月に起きた[[禁門の変]]に際しては[[生駒直道]]の組下に配属され、御所内の凝華洞詰めとして出動する。主に弾丸の補填などに働き、戦後は褒賞として銀子15枚が下賜された。[[慶応]]4年︵[[1868年]]︶の[[会津戦争]]においては[[玄武隊|玄武士中隊]]に所属して新政府軍と交戦する。しかし改元後の明治元年9月17日に、一ノ堰の戦闘において討ち死にした。享年61。
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藩主・[[松平容保]]が[[京都守護職]]として在京を専らとすると、[[元治]]元年([[1864年]])に権八も上京しその執務に参加。同年7月に起きた[[禁門の変]]に際しては[[生駒直道]]の組下に配属され、御所内の凝華洞詰めとして出動。主に弾丸の補填などに働き、戦後は褒賞として銀子十五枚が下賜された。[[慶応]]4年([[1868年]])の[[会津戦争]]においては[[玄武隊|玄武士中隊]]に所属して新政府軍と交戦。しかし改元後の明治元年9月17日に、一ノ堰の戦闘において討ち死にした。享年61。 |
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墓所は[[福島県]][[会津若松市]]門田町の[[光明寺 (会津若松市)|光明寺]]にあるほか、後に三女・八重が嫁いだ[[新島襄]]の創始した[[学校法人同志社|同志社]]の墓地にも存在する。 |
墓所は[[福島県]][[会津若松市]]門田町の[[光明寺 (会津若松市)|光明寺]]にあるほか、後に三女・八重が嫁いだ[[新島襄]]の創始した[[学校法人同志社|同志社]]の墓地にも存在する。 |
2013年6月16日 (日) 11:54時点における版
山本 権八︵やまもと ごんぱち、文化6年︵1809年︶ - 明治元年9月17日︵1868年11月1日︶︶は、江戸時代末期の会津藩士。会津藩士山本家︵分家︶の6代目当主。権八の名は先代当主も名乗っており、自身の諱は未詳。初名・繁之助[1]。
系譜・家系
会津藩士・永岡家︵150石︶の生まれだが、文政9年︵1826年︶に同藩士であり鶴ヶ城下で近所に屋敷を持っていた山本良高の娘・佐久の婿となった。後に良高の跡を襲う。佐久との間には三男三女があったが、長じたのは長男・覚馬、長女・窪田氏妻、三女・八重、三男・三郎がいる。山本家は一説に戦国時代の武田氏の武将・山本勘助の後裔ともいうが、﹁日新館志﹂によれば安土桃山時代の茶人・山本道句の子孫である。権八の家はその分家であり、代々兵法指南を務めてきたが、先代・良高の代より砲術を修め、権八も高島流砲術の指南役として藩に仕えた。経歴
上級藩士が屋敷を連ねる鶴ヶ城下の郭内米代四之丁に屋敷を持つ[2]。藩主・松平容保が京都守護職として在京をもっぱらとすると、元治元年︵1864年︶に権八も上京し、その執務に参加した。同年7月に起きた禁門の変に際しては生駒直道の組下に配属され、御所内の凝華洞詰めとして出動する。主に弾丸の補填などに働き、戦後は褒賞として銀子15枚が下賜された。慶応4年︵1868年︶の会津戦争においては玄武士中隊に所属して新政府軍と交戦する。しかし改元後の明治元年9月17日に、一ノ堰の戦闘において討ち死にした。享年61。 墓所は福島県会津若松市門田町の光明寺にあるほか、後に三女・八重が嫁いだ新島襄の創始した同志社の墓地にも存在する。注釈
参考文献
- 古今堂書店古典部 編『会津藩士人名辞典』古今堂書店、1933年
- 芳賀幸雄『要略 会津藩諸士系譜』歴史春秋出版、2001年
- 好川之範『幕末のジャンヌ・ダルク 新島八重』新人物往来社、2012年