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{{Infobox 人物 |
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⚫ | '''岩村 透'''(いわむら とおる、[[明治]]3年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]] |
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|氏名=岩村 透 |
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|ふりがな=いわむら とおる |
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|生年月日=1870年2月25日(明治3年1月25日) |
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|生誕地=東京都小石川区金富町 |
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|没年月日=1917年8月17日(48歳没) |
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|死没地=神奈川県三浦市三崎 |
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|国籍={{JPN}} |
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|出身校=慶應義塾幼稚舎卒業、東京英和学校中退。ワイオミング・セミナリー卒(アメリカ・ペンシルベニア州キングストン) |
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|配偶者= ヱソ([[岩村通俊]]次女) |
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|子供= [[岩村博]] |
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|親= [[岩村高俊]] |
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|家族= [[竹腰健造]](弟) |
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|別名=観堂、観堂学人、鑑泉、芋洗︵生︶、欧斎など。
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|団体=国民美術協会 |
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|著名な実績=美術批評、西洋美術史、美術ジャーナリズム、美術行政 |
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== 経歴 == |
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東京[[小石川区]]生まれ。岩村家は[[土佐藩]]家老︵宿毛領主︶伊賀家の家臣で、父・[[岩村高俊]]は後に[[佐賀県知事一覧|佐賀県令]]、[[愛媛県知事一覧|愛媛県令]]、[[福岡県知事一覧|福岡県知事]]、[[貴族院 |
東京[[小石川区]]生まれ。岩村家は[[土佐藩]]家老︵宿毛領主︶伊賀家の家臣で、父・[[岩村高俊]]は後に[[佐賀県知事一覧|佐賀県令]]、[[愛媛県知事一覧|愛媛県令]]、[[福岡県知事一覧|福岡県知事]]、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員などを務め、[[男爵]]となった。母・音瀬。
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透は[[慶應義塾幼稚舎]]、[[同人社]]︵[[中村正直]]の塾︶、[[東京英和学校]]︵後の[[青山学院]]︶と進むが中途退学。[[1888年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に渡り、[[キングストン (ペンシルベニア州)|キングストン]]の{{仮リンク|ワイオミング・セミナリー|en|Wyoming Seminary}}および[[ニューヨーク]]の[[ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン]]で、絵画と美術批評を学んだ。この頃アメリカに[[本多庸一]]もいてお互いに親交を深めた。ラスキンやハマトンの影響を受け、美術批評家を志す。[[1891年]]に[[ロンドン]]、[[パリ]]と移り、アカデミー・ジュリアンで学ぶ。パリ滞在中に[[黒田清輝]]らと交友を持った。[[1892年]]に[[イタリア]]各地の美術を見て回った後、帰国。
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[[1899年]]、[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]の講師となり西洋美術史を担当︵小倉に赴任した[[森鷗外]]の後任︶、[[1903年]]教授に就任。この間、[[1900年]]の[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万博]]を見学、﹁巴里の美術学生﹂︵[[1901年]]、新聞﹃二六新報﹄連載、1902年刊︶がベストセラーとなり、自由闊達な講義や活動で、美校に清新な気風をもたらした。[[1904年]]の[[セントルイス万国博覧会|セントルイス万博]]では美術部審査官を務め、彫刻や工芸にも批評の幅を広げる。アメリカからヨーロッパ諸国を訪問。1906年に父が亡くなると男爵位を襲爵した。1910年以降、森鴎外の勧めにより[[慶應義塾]]で西洋美術史を講義した。
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1909年から編集者・[[坂井犀水]]と共に雑誌﹃美術新報﹄の誌面を刷新する。多くの評論を執筆し、世界各地の印象派の動向を伝え、日本国内の新しい装飾芸術運動を支持した。さらに[[1913年]]、雑誌﹃美術週報﹄を自ら創刊、美術行政に関する様々な提言を行う。工芸や建築にまで及ぶ多ジャンルの制作家たちの共働をめざし、1913年には[[国民美術協会]]︵初代会頭は建築家・[[中條精一郎]]︶の設立に尽力した。1914年、美術学校を休職し、私費でヨーロッパに4回目の外遊。このとき[[オーギュスト・ロダン|ロダン]]と会見した。また、[[ロンドン]]で[[ルイージ・ルッソロ]]の[[未来派]]音楽の演奏を聴いてレポートを残している[https://otomojamjam.hatenadiary.org/entries/2005/06/08]。この外遊では英・仏の美術界の要人たちと面会し、見識を深めた。
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⚫ | 透は[[慶應義塾幼稚舎]]、同人社([[中村正直]]の塾)、東京英和学校(後の[[青山学院]])と進むが中途退学。[[1888年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に渡り、[[ニューヨーク]]で絵画を学んだ。[[1891年]]に[[ロンドン]]、[[パリ]]と移り、パリ滞在中に[[黒田清輝]]らと交友を持った。[[1892年]]に[[イタリア]]各地の美術を見て回った後、帰国。 |
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[[第一次世界大戦]]が勃発したため予定を早めて帰国した後、美術学校への復職が認められなかった。理由については不明だが、自由主義的な思想が危険視されたためと考えられている。まもなく﹁美術学校改革運動﹂が起こると、[[正木直彦]]校長を厳しく批判した。この間、持病の[[糖尿病]]が悪化して療養生活に入り、[[1917年]]に逝去。岩村の墓は、神奈川県三浦市三崎の本瑞寺にあり、同寺に1930年に県立された銅像は、[[朝倉文夫]]の作である<ref>本瑞寺に存する岩村透の墓の設計者は不明である。</ref>。没後、その先駆者の早すぎる死を惜しみ、多くの追悼行事が行われた<ref name=":0" />。
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== 主な著書・翻訳 == |
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* 芋洗生記﹃巴里之美術学生、他に美術談二﹄画報社、1903年1月。<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849691 国立国会図書館デジタルコレクション] 2022年3月25日閲覧。</ref>。
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*{{Cite book |和書 |title=芸苑雑稿 |date=1906-05 |publisher=画報社 |id={{全国書誌番号|40069579}}}} |
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*A・フロシンガム著、岩村透訳編[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I083931895-00 『西洋美術史要 第五編 伊太利建築之部』]画報社、1911年2月。 |
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* {{Cite book |和書 |title=美術と社会 |date=1915-12 |publisher=趣味叢書発行所・趣味之友社 |series=趣味叢書 第12篇 |id={{全国書誌番号|43016913}}}}<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948794 NDLデジタルコレクション] 2022年3月25日閲覧。</ref>
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* {{Cite book |和書 |editor=宮川寅雄|editor-link=宮川寅雄 |title=芸苑雑稿 他 |date=1971-03 |publisher=[[平凡社]] |series=[[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]] 182 |id={{全国書誌番号|75041113}}}} |
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**{{Cite book |和書 |others=宮川寅雄解説 |title=芸苑雑稿 他 |date=2003-09 |publisher=ワイド版平凡社東洋文庫 |id={{全国書誌番号|22870914}}}} |
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::収録:巴里の美術学生、芸苑雑稿(初集)、芸苑雑稿(2集)、美術と社会 |
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== 主要文献 == |
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白馬会解散後、[[1913年]]には[[国民美術協会]]︵初代会頭は建築家・[[中條精一郎]]︶の設立に尽力した。1914年、美術学校を休職し、私費でヨーロッパに4回目の外遊。このとき[[オーギュスト・ロダン|ロダン]]と会見した。
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* {{Cite book |和書 |author=田辺徹|authorlink=田辺徹 (美術史家) |title=美術批評の先駆者、岩村透 ラスキンからモリスまで |date=2008-12 |publisher=[[藤原書店]] |isbn=9784894346666}} |
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* [[今橋映子]]『近代日本の美術思想:美術批評家・岩村透とその時代』[[白水社]](上下)、2021年<ref>[https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I031407228-00 NDL 上] 2022年3月25日閲覧。</ref><ref>[https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I031407229-00 NDL 下] 2022年3月25日閲覧。</ref> |
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== 関係コレクション == |
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帰国後、美術学校への復職が認められなかった。理由は不明だが、講義中に社会主義に言及したことが一因だとも言われる。まもなく﹁美術学校改革運動﹂が起こると、[[正木直彦]]校長を激しく批判した。政治家になることも考えたが、持病の[[糖尿病]]が悪化して療養生活に入り、[[1917年]]に逝去した。
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* 台東区立朝倉彫塑館岩村文庫‥岩村の弟子で彫刻家の朝倉文夫が、岩村没後にその蔵書であった洋書約1700冊を買い取って保管している文庫<ref>[https://www.culture.city.taito.lg.jp/bunkatanbou/culture/asakura/japanese/guide_03.html 朝倉彫塑館を歩く|文化探訪] 2022年3月25日閲覧。</ref><ref>[https://www.taitocity.net/zaidan/asakura/ 朝倉彫塑館] 2022年3月25日閲覧。</ref><ref>今橋. 上 pp94-111</ref>。
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* 東京藝術大学図書館所蔵 岩村関係資料<ref>今橋. 上 pp164-168</ref> |
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* [[本瑞寺 (三浦市)|本瑞寺]]所蔵岩村文庫:神奈川県三浦半島三崎にある岩村の墓地のある寺院に、[[坂井犀水]]により創設された文庫。岩村の著書や関係者の美術作品を所蔵している<ref>今橋. 下 pp479-498</ref>。 |
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== 註 == |
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毒舌家として有名だったが、豊富な海外体験からヨーロッパの美術事情に詳しく、その講義は学生に人気があった。﹃[[美術新報]]﹄などの美術雑誌に健筆をふるい、明治後半から大正期の美術界をリードした。﹁巴里の美術学生﹂は若い世代に大きな影響を与え、パリの芸術家の[[ボヘミアン]]生活への憧れをかき立てた、と言われる。<!----文学史上有名な龍土会も、元は岩村が主宰していた美術家の集まり︵パリの[[サロン]]を範としたもの︶に[[柳田國男]]、[[国木田独歩]]ら文学者らが合流したものだという。 ←これは言い過ぎか。---->
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== 外部リンク == |
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* {{Kotobank|岩村透}} |
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*芸苑雑稿(東洋文庫) 「巴里の美術学生」など代表的な評論を収めたもの |
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* {{Kotobank|岩村 透}} |
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* {{青空文庫著作者|1353|岩村 透}} |
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* [https://www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/j/man-detail.cgi?id=9 港区ゆかりの人物データベースサイト・人物詳細ページ (岩村 透)] |
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* [https://www.city.sukumo.kochi.jp/docs-26/p0108040709.html 岩村 透 - 宿毛市] |
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==外部リンク== |
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*[http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1353.html 岩村 透:作家別作品リスト]([[青空文庫]]) |
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| title = 男爵 |
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| years = 岩村(高俊)家第2代<br />1906年 - 1917年 |
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| before = 叙爵 |
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| after = [[岩村博]] |
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{{Normdaten}} |
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[[Category:日本の美術史家]] |
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[[Category:東京芸術大学の教員]] |
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[[Category:慶應義塾大学の教員]] |
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[[Category:日本の男爵]] |
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[[Category:慶應義塾の塾生]] |
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[[Category:東京英和学校出身の人物]] |
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[[Category:慶應義塾幼稚舎出身の人物]] |
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2023年7月14日 (金) 01:47時点における最新版
いわむら とおる 岩村 透 | |
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生誕 |
1870年2月25日(明治3年1月25日) 東京都小石川区金富町 |
死没 |
1917年8月17日(48歳没) 神奈川県三浦市三崎 |
国籍 | 日本 |
別名 | 観堂、観堂学人、鑑泉、芋洗(生)、欧斎など。 |
出身校 | 慶應義塾幼稚舎卒業、東京英和学校中退。ワイオミング・セミナリー卒(アメリカ・ペンシルベニア州キングストン) |
団体 | 国民美術協会 |
著名な実績 | 美術批評、西洋美術史、美術ジャーナリズム、美術行政 |
配偶者 | ヱソ(岩村通俊次女) |
子供 | 岩村博 |
親 | 岩村高俊 |
家族 | 竹腰健造(弟) |
経歴[編集]
東京小石川区生まれ。岩村家は土佐藩家老︵宿毛領主︶伊賀家の家臣で、父・岩村高俊は後に佐賀県令、愛媛県令、福岡県知事、貴族院議員などを務め、男爵となった。母・音瀬。 透は慶應義塾幼稚舎、同人社︵中村正直の塾︶、東京英和学校︵後の青山学院︶と進むが中途退学。1888年にアメリカに渡り、キングストンのワイオミング・セミナリーおよびニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインで、絵画と美術批評を学んだ。この頃アメリカに本多庸一もいてお互いに親交を深めた。ラスキンやハマトンの影響を受け、美術批評家を志す。1891年にロンドン、パリと移り、アカデミー・ジュリアンで学ぶ。パリ滞在中に黒田清輝らと交友を持った。1892年にイタリア各地の美術を見て回った後、帰国。 1893年、母校・東京英和学校の図画・英語教師となり、この頃から本格的な美術批評を開始。1894年、明治美術学校で西洋美術史を講義。1896年黒田清輝が創立した白馬会に参加した。 1899年、東京美術学校の講師となり西洋美術史を担当︵小倉に赴任した森鷗外の後任︶、1903年教授に就任。この間、1900年のパリ万博を見学、﹁巴里の美術学生﹂︵1901年、新聞﹃二六新報﹄連載、1902年刊︶がベストセラーとなり、自由闊達な講義や活動で、美校に清新な気風をもたらした。1904年のセントルイス万博では美術部審査官を務め、彫刻や工芸にも批評の幅を広げる。アメリカからヨーロッパ諸国を訪問。1906年に父が亡くなると男爵位を襲爵した。1910年以降、森鴎外の勧めにより慶應義塾で西洋美術史を講義した。 1909年から編集者・坂井犀水と共に雑誌﹃美術新報﹄の誌面を刷新する。多くの評論を執筆し、世界各地の印象派の動向を伝え、日本国内の新しい装飾芸術運動を支持した。さらに1913年、雑誌﹃美術週報﹄を自ら創刊、美術行政に関する様々な提言を行う。工芸や建築にまで及ぶ多ジャンルの制作家たちの共働をめざし、1913年には国民美術協会︵初代会頭は建築家・中條精一郎︶の設立に尽力した。1914年、美術学校を休職し、私費でヨーロッパに4回目の外遊。このときロダンと会見した。また、ロンドンでルイージ・ルッソロの未来派音楽の演奏を聴いてレポートを残している[1]。この外遊では英・仏の美術界の要人たちと面会し、見識を深めた。 第一次世界大戦が勃発したため予定を早めて帰国した後、美術学校への復職が認められなかった。理由については不明だが、自由主義的な思想が危険視されたためと考えられている。まもなく﹁美術学校改革運動﹂が起こると、正木直彦校長を厳しく批判した。この間、持病の糖尿病が悪化して療養生活に入り、1917年に逝去。岩村の墓は、神奈川県三浦市三崎の本瑞寺にあり、同寺に1930年に県立された銅像は、朝倉文夫の作である[2]。没後、その先駆者の早すぎる死を惜しみ、多くの追悼行事が行われた[1]。主な著書・翻訳[編集]
●芋洗生記﹃巴里之美術学生、他に美術談二﹄画報社、1903年1月。[3]。 ●﹃芸苑雑稿﹄画報社、1906年5月。全国書誌番号:40069579。 ●A・フロシンガム著、岩村透訳編﹃西洋美術史要 第五編 伊太利建築之部﹄画報社、1911年2月。 ●﹃美術と社会﹄趣味叢書発行所・趣味之友社︿趣味叢書 第12篇﹀、1915年12月。全国書誌番号:43016913。[4] ●宮川寅雄 編﹃芸苑雑稿 他﹄平凡社︿東洋文庫 182﹀、1971年3月。全国書誌番号:75041113。 ●﹃芸苑雑稿 他﹄宮川寅雄解説、ワイド版平凡社東洋文庫、2003年9月。全国書誌番号:22870914。 収録‥巴里の美術学生、芸苑雑稿︵初集︶、芸苑雑稿︵2集︶、美術と社会主要文献[編集]
●田辺徹﹃美術批評の先駆者、岩村透 ラスキンからモリスまで﹄藤原書店、2008年12月。ISBN 9784894346666。 ●今橋映子﹃近代日本の美術思想‥美術批評家・岩村透とその時代﹄白水社︵上下︶、2021年[5][6]関係コレクション[編集]
●台東区立朝倉彫塑館岩村文庫‥岩村の弟子で彫刻家の朝倉文夫が、岩村没後にその蔵書であった洋書約1700冊を買い取って保管している文庫[7][8][9]。 ●東京藝術大学図書館所蔵 岩村関係資料[10] ●本瑞寺所蔵岩村文庫‥神奈川県三浦半島三崎にある岩村の墓地のある寺院に、坂井犀水により創設された文庫。岩村の著書や関係者の美術作品を所蔵している[11]。註[編集]
外部リンク[編集]
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 岩村(高俊)家第2代 1906年 - 1917年 |
次代 岩村博 |