「島崎藤村」を編集中
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* [[1907年]](明治40年)『文藝倶楽部』6月に「並木」を発表。孤蝶や秋骨らとモデル問題を起こす。 |
* [[1907年]](明治40年)『文藝倶楽部』6月に「並木」を発表。孤蝶や秋骨らとモデル問題を起こす。 |
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* [[1908年]](明治41年)『[[春 (小説)|春]]』を発表。 |
* [[1908年]](明治41年)『[[春 (小説)|春]]』を発表。 |
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* [[1910年]]︵明治43年︶には |
* [[1910年]]︵明治43年︶には﹁家﹂を﹃[[読売新聞]]﹄に連載︵翌年﹃[[中央公論]]﹄に続編を連載︶、終了後の8月に妻・冬が四女を出産後死去した。このため次兄・広助の次女・[[島崎こま子|こま子]]が家事手伝いに来ていたが、[[1912年]]︵明治45年/[[大正]]元年︶半ば頃からこま子と事実上の愛人関係になり、やがて彼女は妊娠する。<!--翌年から留学という名目で3年間パリで過ごしたのち、帰国するもこま子との関係が再燃してしまう。-->
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* [[1913年]]([[大正]]2年)5月末、[[神戸]]港よりエルネスト・シモン号に乗船し、37日後にフランス[[マルセイユ]]着、[[有島生馬]]の紹介で[[パリ]]のポール・ロワイヤル通りに面した下宿で生活を始める。西洋美術史家の[[澤木四方吉]]と親交を深める。第一の「仏蘭西だより」を『[[朝日新聞]]』に連載、 |
* [[1913年]]([[大正]]2年)5月末、[[神戸]]港よりエルネスト・シモン号に乗船し、37日後にフランス[[マルセイユ]]着、[[有島生馬]]の紹介で[[パリ]]のポール・ロワイヤル通りに面した下宿で生活を始める。西洋美術史家の[[澤木四方吉]]と親交を深める。第一の「仏蘭西だより」を『[[朝日新聞]]』に連載、「桜の実の熟する時」の執筆を開始。下宿の世話した[[河上肇]]などと交流した。 |
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* [[第一次世界大戦]]の勃発により、[[1914年]](大正3年)7月から11月まで画家の[[正宗得三郎]]とともに[[リモージュ]]に[[疎開]]。第二の「仏蘭西だより」を『朝日新聞』に連載。 |
* [[第一次世界大戦]]の勃発により、[[1914年]](大正3年)7月から11月まで画家の[[正宗得三郎]]とともに[[リモージュ]]に[[疎開]]。第二の「仏蘭西だより」を『朝日新聞』に連載。 |
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* [[1916年]](大正5年)7月、熱田丸にて英国[[ロンドン]]を経て神戸港に到着した。 |
* [[1916年]](大正5年)7月、熱田丸にて英国[[ロンドン]]を経て神戸港に到着した。 |
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* [[1917年]](大正6年) [[慶應義塾大学|慶應義塾大学部]][[慶應義塾大学大学院文学研究科・文学部|文学科]]講師となる。 |
* [[1917年]](大正6年) [[慶應義塾大学|慶應義塾大学部]][[慶應義塾大学大学院文学研究科・文学部|文学科]]講師となる。 |
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* [[1918年]]︵大正7年︶ ﹃[[新生 (小説)|新生]]﹄を発表し、帰国後改めて持ち上がったこま子との関係を清算しようとした。このため、親類の差配により、こま子は[[台湾]]にいる伯父・秀雄︵藤村の長兄︶の元へ渡った︵こま子は後に日本に戻り、1978年6月に東京の病院で85歳で死去︶。なお、この頃の作品には﹃幼きものに﹄﹃ふるさと﹄﹃幸福﹄などの[[童話]]もある。
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* [[1918年]]︵大正7年︶ ﹃[[新生 (小説)|新生]]﹄を発表し、帰国後改めて持ち上がったこま子との関係を清算しようとした。このため、親類の差配により、こま子は[[台湾]]にいる伯父・秀雄︵藤村の長兄︶の元へ渡った︵こま子は後に日本に戻り、1978年6月に東京の病院で85歳で死去︶。なお、この頃の作品には﹃幼きものに﹄﹃ふるさと﹄﹃幸福﹄などの[[童話]]もある。
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* [[1927年]]([[昭和]]2年) 「[[嵐 (小説)|嵐]]」を発表。翌年より父正樹をモデルとした歴史小説『 |
* [[1927年]]([[昭和]]2年) 「[[嵐 (小説)|嵐]]」を発表。翌年より父正樹をモデルとした歴史小説『夜明け前』の執筆準備を始める。 |
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* 1928年11月3日 加藤静子と結婚する。 |
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* [[1929年]]︵昭和4年︶4月から[[1935年]]︵昭和10年︶10月まで |
* [[1929年]](昭和4年)4月から[[1935年]](昭和10年)10月まで 夜明け前が『中央公論』にて連載された。この終了を期に著作を整理、編集し、『藤村文庫』にまとめられた。また[[柳澤健]]の声掛けを受けて[[日本ペンクラブ]]の設立にも応じ、初代会長を務めた。 |
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* [[1940年]](昭和15年) [[帝国芸術院]]会員。 |
* [[1940年]](昭和15年) [[帝国芸術院]]会員。 |
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* [[1941年]]︵昭和16年︶1月8日 |
* [[1941年]]︵昭和16年︶1月8日 当時の[[陸軍大臣]]・[[東条英機]]が示達した<!--軍人としてとるべき行動規範を示した文書-->﹃[[戦陣訓]]﹄の文案作成にも参画した。︵[[戦陣訓]]の項参照︶<!--敵の捕虜となることを戒めるといわれる本訓其の二第八﹁名を惜しむ﹂の﹁生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ﹂の一節が有名だが、これは﹁降伏禁止﹂の意味ではなく︵降伏をしないこと自体は[[日露戦争]]以降に当然視する風潮が強くなった。︶﹁軍人として恥ずかしい行いをすれば捕虜になった時はもちろん、死んでからも罪禍の汚名を着ることになるから恥ずべき行い︵[[捕虜]]虐待、[[民間人]]虐殺、[[強姦]]等︶はやっていけない﹂という意味だったが、多くの現場において周知徹底されず曲解された。これが[[太平洋戦争]]中の日本兵の行動を強く支配し、捕虜になる事を拒否しての投降呼びかけ無視、[[沖縄戦]]での集団自決等を引き起こす原因となったとする意見もある。-->
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* [[1942年]](昭和17年) [[日本文学報国会]]名誉会員。 |
* [[1942年]](昭和17年) [[日本文学報国会]]名誉会員。 |
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* [[1943年]]︵昭和18年︶ |
* [[1943年]]︵昭和18年︶ ﹁東方の門﹂の連載を始めたが、同年8月22日、[[脳出血|脳溢血]]のため[[大磯]]の自宅で死去した。最期の言葉は﹁涼しい風だね﹂であった。
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== 親譲りの憂鬱 == |
== 親譲りの憂鬱 == |