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=== 『文学界』と浪漫派詩人 === |
=== 『文学界』と浪漫派詩人 === |
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卒業後、﹃[[女学雑誌]]﹄に訳文を寄稿するようになり、1892年9月、20歳の時に[[明治女学校]]高等科英語科教師となる。翌年、交流を結んでいた[[北村透谷]]、[[星野天知]]の雑誌﹃[[文学界 (明治)|文学界]]﹄に参加し、同人として劇詩や随筆を発表した。一方で、教え子の佐藤輔子を愛し、教師として自責のためキリスト教を棄教し、辞職する。その後は関西に遊び、吉村家に戻る。[[1894年]]︵明治27年︶に女学校へ復職したが、透谷が自殺。さらに兄・秀雄が水道鉄管に関連する不正疑惑のため収監され、翌年には輔子が病没<ref>{{Cite web |
卒業後、﹃[[女学雑誌]]﹄に訳文を寄稿するようになり、1892年9月、20歳の時に[[明治女学校]]高等科英語科教師となる。翌年、交流を結んでいた[[北村透谷]]、[[星野天知]]の雑誌﹃[[文学界 (明治)|文学界]]﹄に参加し、同人として劇詩や随筆を発表した。一方で、教え子の佐藤輔子を愛し、教師として自責のためキリスト教を棄教し、辞職する。その後は関西に遊び、吉村家に戻る。[[1894年]]︵明治27年︶に女学校へ復職したが、透谷が自殺。さらに兄・秀雄が水道鉄管に関連する不正疑惑のため収監され、翌年には輔子が病没<ref>{{Cite web|title=横浜山手病院について 29. 閑話編‥布施家と星家 (3)|url=https://paperzz.com/doc/5646852/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E5%B1%B1%E6%89%8B%E7%97%85%E9%99%A2%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6-29.-%E9%96%91%E8%A9%B1%E7%B7%A8%EF%BC%9A%E5%B8%83%E6%96%BD%E5%AE%B6%E3%81%A8%E6%98%9F%E5%AE%B6--3-|website=paperzz.com|accessdate=2021-08-02|quote=佐藤スケ / 輔子︵1871年8月1日–1895年8月13日︶}}</ref>。この年再び女学校を辞職し、この頃のことは後に﹃[[春 (小説)|春]]﹄で描かれる。
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[[1896年]]︵明治29年︶[[9月8日]]、[[東北学院]]の教師となって[[宮城県]][[仙台市]]に1年間ほど赴任<ref name="Fuji">﹁若き日の藤村 -仙台時代を中心に-﹂︵藤一也 著、本の森 1998年11月23日 発行、ISBN 4-938965-11-9︶ pp.18-20、pp.263-264</ref>。同年[[10月25日]]に母の死に直面し、当時住んでいた[[広瀬川 (宮城県)|広瀬川]]を見下ろす崖上の[[支倉町]]の住居で詩作を始め、[[仙台駅]]近くの[[東北薬科大学病院#沿革|三浦屋]]に移って第一詩集﹃[[若菜集]]﹄を執筆、これを発表して文壇に登場した<ref name="Fuji"/><ref>﹁仙台雑詩﹂︵島崎藤村︶</ref>。﹃一葉舟﹄﹃夏草﹄﹃落梅集﹄の詩集で明治[[ロマン主義|浪漫主義]]の開花の先端となり、[[土井晩翠]]︵[[仙台県]]仙台出身︶と共に﹁藤晩時代﹂あるいは﹁晩藤時代﹂と並び称された。これら4冊の詩集を出した後、詩作から離れていく。
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[[1896年]]︵明治29年︶[[9月8日]]、[[東北学院]]の教師となって[[宮城県]][[仙台市]]に1年間ほど赴任<ref name="Fuji">﹁若き日の藤村 -仙台時代を中心に-﹂︵藤一也 著、本の森 1998年11月23日 発行、ISBN 4-938965-11-9︶ pp.18-20、pp.263-264</ref>。同年[[10月25日]]に母の死に直面し、当時住んでいた[[広瀬川 (宮城県)|広瀬川]]を見下ろす崖上の[[支倉町]]の住居で詩作を始め、[[仙台駅]]近くの[[東北薬科大学病院#沿革|三浦屋]]に移って第一詩集﹃[[若菜集]]﹄を執筆、これを発表して文壇に登場した<ref name="Fuji"/><ref>﹁仙台雑詩﹂︵島崎藤村︶</ref>。﹃一葉舟﹄﹃夏草﹄﹃落梅集﹄の詩集で明治[[ロマン主義|浪漫主義]]の開花の先端となり、[[土井晩翠]]︵[[仙台県]]仙台出身︶と共に﹁藤晩時代﹂あるいは﹁晩藤時代﹂と並び称された。これら4冊の詩集を出した後、詩作から離れていく。
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=== 小諸時代から小説へ === |
=== 小諸時代から小説へ === |
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[[ファイル:Komoro Gijuku Memorial Hall.jpg|thumb|[[小諸市立小諸義塾記念館]]]] |
[[ファイル:Komoro Gijuku Memorial Hall.jpg|thumb|[[小諸市立小諸義塾記念館]]]] |
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* [[1899年]]︵明治32年︶ [[小諸義塾]]の英語教師として長野県[[北佐久郡]][[小諸町]]に赴任し、以後6年過ごす︵小諸時代︶。[[北海道]]函館区︵現・[[函館市]]︶出身の秦冬子と結婚し<ref name="hakoshin">{{Cite news|title=島崎藤村の妻・冬の半生知って 函館奉仕会が27日に朗読会|newspaper=[[函館新聞]]|date=2017-07-22|author=[[半澤孝平]]|url=https://digital.hakoshin.jp/life/culture/23325|accessdate=2017-10-14}}</ref>、翌年には長女・みどりが生れた。この頃から現実問題に対する関心が高まったため、[[散文]]へと創作法を転回する。小諸を中心とした[[信濃川|千曲川]]一帯を見事に描写した写生文﹁[[千曲川のスケッチ]]﹂を書き、﹁情人と別るるがごとく﹂詩との決別を図った。﹃破戒﹄を執筆し始めたのもこの頃からであり<ref>{{Cite web |
* [[1899年]]︵明治32年︶ [[小諸義塾]]の英語教師として長野県[[北佐久郡]][[小諸町]]に赴任し、以後6年過ごす︵小諸時代︶。[[北海道]]函館区︵現・[[函館市]]︶出身の秦冬子と結婚し<ref name="hakoshin">{{Cite news|title=島崎藤村の妻・冬の半生知って 函館奉仕会が27日に朗読会|newspaper=[[函館新聞]]|date=2017-07-22|author=[[半澤孝平]]|url=https://digital.hakoshin.jp/life/culture/23325|accessdate=2017-10-14}}</ref>、翌年には長女・みどりが生れた。この頃から現実問題に対する関心が高まったため、[[散文]]へと創作法を転回する。小諸を中心とした[[信濃川|千曲川]]一帯を見事に描写した写生文﹁[[千曲川のスケッチ]]﹂を書き、﹁情人と別るるがごとく﹂詩との決別を図った。﹃破戒﹄を執筆し始めたのもこの頃からであり<ref>{{Cite web |url=http://www.city.komoro.lg.jp/doc/2014022400326/ |title=文豪 島崎藤村 |publisher=小諸市 |date=2013-08-29 |accessdate=2017-07-28 }}</ref>、同作の登場人物である市村代議士は、[[岩村田町]]︵現在の[[佐久市]][[岩村田]]︶の[[立川雲平]]をモデルにしたとされる<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E7%AB%8B%E5%B7%9D+%E9%9B%B2%E5%B9%B3-1648939 |title=コトバンク 立川 雲平とは︵20世紀日本人名事典︶ |accessdate=2017-07-28 }}</ref>。
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* [[1905年]](明治38年) 小諸義塾を辞し上京。 |
* [[1905年]](明治38年) 小諸義塾を辞し上京。 |
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* [[1906年]]︵明治39年︶ ﹁[[緑陰叢書]]﹂第1編として﹃破戒﹄を自費出版。すぐに売り切れ、文壇からは本格的な[[自然主義文学|自然主義]]小説として絶賛された。ただ、この頃、[[栄養失調]]により3人の娘が相次いで没し、後に﹃[[家 (島崎藤村)|家]]﹄で描かれることになる。
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* [[1906年]]︵明治39年︶ ﹁[[緑陰叢書]]﹂第1編として﹃破戒﹄を自費出版。すぐに売り切れ、文壇からは本格的な[[自然主義文学|自然主義]]小説として絶賛された。ただ、この頃、[[栄養失調]]により3人の娘が相次いで没し、後に﹃[[家 (島崎藤村)|家]]﹄で描かれることになる。
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