川端茅舍
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川端 茅舎︵かわばた ぼうしゃ、1897年8月17日 - 1941年7月17日︶は、東京都日本橋蛎殻町出身の日本の俳人、画家。日本画家である川端龍子とは異母兄弟。本名は川端信一︵かわばた のぶかず︶。別号、遊牧の民・俵屋春光。
高浜虚子に師事し、虚子に﹃花鳥諷詠真骨頂漢﹄とまで言わしめたホトトギス・写生派の俳人。仏教用語を駆使したり、凛然とし朗々たる独特な句風は、茅舎の句を﹃茅舎浄土﹄と呼ばしめる。
略歴
東京市日本橋区蛎殻町で生まれ、腹違いの兄である龍子とともに育てられる。父信吉は紀州藩の下級武士、母は信吉の弟が経営する病院の看護婦。父は弟の病院で手伝いとして働いていたが、その後煙草の小売商を始める。父は﹁寿山堂﹂という雅号を自分で持つほど、俳句や日本画や写経を好むような風流人であったと、ホトトギスの中で茅舎は述べている。そのことから、茅舎と龍子の兄弟が進むべき道に大きく父親が影響したと考えられている。 6歳になった茅舎は、1903年私立有隣代用小学校へ入れられる。無事小学校を卒業した茅舎は、1909年、獨逸学協会学校︵のちの獨協中学校︶へ入学。叔父と母が病院に勤める関係者であったことから、周囲から︵特に父から︶将来は医者になることを期待されていた。その後、第一高等学校理乙を受験するも失敗。そのころには画家として独立していた兄・龍子の後を追うように、次第に茅舎自身も画家を志すようになる。藤島武二絵画研究所で絵画の勉強を始める。 また17歳頃から、自らの俳号を﹁茅舎﹂と名乗り始め、父とともに句作するようになる。俳句雑誌﹃キララ﹄︵後の﹃雲母﹄︶に度々投句する。︵武者小路実篤の﹁新しき村﹂の第二種会員になり、白樺派の思想に触れた茅舎は次第に西洋思想に感化されていく。それが契機で、絵画の分野で明確に西洋絵画を志すようになり、その後洋画家岸田劉生に画を師事する。京都の東福寺の正覚庵に籠もり、絵や句の制作に勤しみ、同時に仏道に参じる。自身が描いた静物画が春陽会に入選するほど絵画の腕を上げる。 しかし脊椎カリエスや結核といった肺患に身体が蝕まれていき、師と尊崇していた劉生も死去してしまったこともあり、俳諧の道へ本格的に専念するようになる。投句を続けていた﹃キララ﹄から﹃ホトトギス﹄に専念的に投句をし始め、雑詠の巻頭を飾るまでになる。その後、高浜虚子の愛弟子となり、俳句の実力が認められ、1934年に﹃ホトトギス﹄の同人となる。また後に﹁あをぎり句会﹂の選者となる 1941年、肺患の悪化により43歳の若さで死去。現在は、龍子や他の家族とともに伊豆の修善寺に埋葬されている。 西洋的な感性と東洋的な感性で紡ぎ出された写生的な句は、花鳥諷詠を唱えた虚子に﹁花鳥諷詠真骨頂漢﹂と評価されるほどであった。著書
- 『川端茅舎句集』 玉藻社、1934年
- 『華厳』 龍星閣、1939年
- 『春水光輪』(『現代俳句』(第2巻)(河出書房、1940年)[1]所収)
- 『白痴』 甲鳥書林、1941年