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'''日夏 英太郎'''(ひなつ えいたろう、[[1908年]][[9月21日]] - [[1952年]][[9月9日]])は、[[朝鮮]]出身の日本の映画監督、脚本家。[[日本]]・朝鮮・[[インドネシア]]で活動した。本名は'''許泳'''(ホ ヨン)。

'''日夏 英太郎'''(ひなつ えいたろう、[[1908年]][[9月21日]] - [[1952年]][[9月9日]])は、[[朝鮮]]出身の日本の[[映画監督]][[脚本家]]。[[日本]]・朝鮮・[[インドネシア]]で活動した。本名は'''許泳'''(ホ ヨン)。



== 人物 ==

太平洋戦争前夜の1941年に製作した朝鮮民族の志願兵を描いた国策映画『君と僕』を監督したことで知られる。

[[太平洋戦争]]前夜の1941年に製作した朝鮮民族の志願兵を描いた国策映画『君と僕』を監督したことで知られる。

また1951年にインドネシアで製作・監督した『天と地の間に』は、オランダ人の父とインドネシア人の母の間に生まれたフリエダが、オランダからのインドネシア独立をめぐり、新生インドネシア人として生きる心の葛藤を、恋愛とスパイ、銃撃戦などを交えて描いた良質な娯楽作品である。

また1951年にインドネシアで製作・監督した『天と地の間に』は、オランダ人の父とインドネシア人の母の間に生まれたフリエダが、オランダからのインドネシア独立をめぐり、新生インドネシア人として生きる心の葛藤を、恋愛とスパイ、銃撃戦などを交えて描いた良質な娯楽作品である。



マキノ映画、松竹映画下加茂時代に『映画評論』に寄稿した中で「日本映画論」(1931)、「千惠蔵映画のある見方」(1933)、「伊藤大輔論」(1934)、「時代映画と音楽」(1936)などは、優れた評論として評価が高い。

[[マキノ映画]][[松竹映画下加茂]]時代に『[[映画評論]]』に寄稿した中で「日本映画論」(1931)、「千惠蔵映画のある見方」(1933)、「伊藤大輔論」(1934)、「時代映画と音楽」(1936)などは、優れた評論として評価が高い。



また、1931年から1933年まで、松竹映画雑誌『下加茂』の編集に携わり、日夏英太郎とペンネーム「湯浅みか」の名で、スターのトピックや、撮影風景などを楽しく描いた。

また、1931年から1933年まで、松竹映画雑誌『下加茂』の編集に携わり、日夏英太郎とペンネーム「湯浅みか」の名で、スターのトピックや、撮影風景などを楽しく描いた。



== 来歴・人物 ==

== 来歴 ==

[[満州]]生まれとされ<ref>墓碑による。本籍は朝鮮[[咸鏡南道]]</ref>、1922年頃に日本にやってきたとみられる。

[[満州]]生まれとされ<ref>墓碑による。本籍は朝鮮[[咸鏡南道]]</ref>、1922年頃に日本にやってきたとみられる。

1929年から[[マキノ映画製作所|マキノ映画]]に助監督、脚本家として籍をおき、脚本の『処女爪占師』(吉川英治原作)、『紅蝙蝠』(長谷川伸原作)が映画化された。

1929年から[[マキノ映画製作所|マキノ映画]]に助監督、脚本家として籍をおき、脚本の『処女爪占師』([[吉川英治]]原作)、『紅蝙蝠』([[長谷川伸]]原作)が映画化された。



また、旧作ダイジェスト『マキノ大行進』の編集を山本九一郎と手がけた。

また、旧作ダイジェスト『マキノ大行進』の編集を[[山本九一郎]]と手がけた。



1931年6月頃に二川文太郎監督と共にマキノ映画から、松竹映画下加茂に移籍して脚本家・助監督として映画制作にたずさわる。

1931年6月頃に[[二川文太郎]]監督と共にマキノ映画から、松竹映画下加茂に移籍して脚本家・[[助監督]]として映画制作にたずさわる。



1937年には助監督を務めた「大阪夏の陣」([[衣笠貞之助]]監督)のロケ撮影中に、爆破ミスから国宝の[[姫路城]]の石垣を破損させ死傷者を出した事故の当事者となってしまい、翌1938年には責任者として執行猶予付の有罪判決を受ける。

1937年には助監督を務めた「大阪夏の陣」([[衣笠貞之助]]監督)のロケ撮影中に、爆破ミスから国宝の[[姫路城]]の石垣を破損させ死傷者を出した事故の当事者となってしまい、翌1938年には責任者として執行猶予付の有罪判決を受ける。



1941年に「内鮮一体化」 をテーマに朝鮮人志願兵を主人公とした国策映画『君と僕』で監督デビューする。

1941年に「[[内鮮一体]]化」 をテーマに[[朝鮮人志願兵]]を主人公とした国策映画『君と僕』で監督デビューする。



1942年には陸軍の報道班員として従軍し、[[ジャワ]](現在のインドネシア)で『[[濠州への呼声]]』(''Calling Australia'')を監督する。

1942年には陸軍の報道班員として従軍し、[[ジャワ]](現在のインドネシア)で『[[濠州への呼声]]』(''Calling Australia'')を監督する。

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== 日夏英太郎を扱った書籍 ==

== 日夏英太郎を扱った書籍 ==

* シネアスト許泳の「昭和」([[内海愛子]]・[[村井吉敬]]著、[[凱風社]] 1987年) ISBN 978-4773611052

* シネアスト許泳の「昭和」([[内海愛子]]・[[村井吉敬]]著、[[凱風社]] 1987年) ISBN 978-4773611052

*越境の映画監督 日夏英太郎 (日夏もえ子著、文芸社2011年) ISBN 978-4-286-10635-9

*越境の映画監督 日夏英太郎 ([[日夏もえ子著]][[文芸社]]2011年) ISBN 978-4-286-10635-9



== 脚注 ==

== 脚注 ==

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== 参考文献 ==

== 参考文献 ==

*[http://www.k5.dion.ne.jp/~moeko/ 越境の映画監督 日夏英太郎【許泳 フユン(Dr.Huyung) 】] - 実の娘である日夏もえ子によるホームページ

*{{Wayback|url=http://www.k5.dion.ne.jp/~moeko/ |title=越境の映画監督 日夏英太郎【許泳 フユン(Dr.Huyung) 】 |date=20070103232705}} - 実の娘である日夏もえ子によるホームページ



== 外部リンク ==

== 外部リンク ==

* [http://www.jmdb.ne.jp/person/p0318250.htm 日本映画データベース 日夏英太郎]

* [http://www.jmdb.ne.jp/person/p0318250.htm 日本映画データベース 日夏英太郎]

* [http://www11.ocn.ne.jp/~moeko/ 日夏英太郎記念館 キノ・ドラマ・アトリエ]

* {{Wayback|url=http://www11.ocn.ne.jp/~moeko/ |title=日夏英太郎記念館 キノ・ドラマ・アトリエ |date=20030410222221}}



{{Normdaten}}

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[[Category:日本の映画監督]]

[[Category:日本の映画監督]]

[[Category:日本の映画の脚本家]]

[[Category:日本の映画の脚本家]]

[[Category:朝鮮出身の人物]]

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[[Category:1908年生]]

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[[Category:1952年没]]

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監督作品[編集]

  • 君と僕(1941年、製作:朝鮮軍報道部) - 2009年にネガフィルムの一部が見つかり戦後初めて上映された[2][3]
  • 豪州への呼び声(1942年、製作:第16軍特別諜報部別班) - 日本軍の捕虜虐待を否定するためにドキュメンタリーを偽って撮られたプロパガンダ映画。
  • 天と地の間に(1951年)- 1997年にネガが発見され、同年の山形国際ドキュメンタリー映画祭釜山国際映画祭、『アジアフィルムフェスティバル'97(東京)』で上映。
  • 『君と僕』+『天と地の間に』が2009年10月の第22回東京国際映画祭で上映された。[4]
  • レストランの花(1951年)
  • 時の想い出(1952年)

日夏英太郎を扱った書籍[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]