「日本劇場」の版間の差分
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[[1933年]]︵[[昭和]]8年︶竣工。[[第二次世界大戦|戦時中]]の[[東京大空襲|空襲]]による被災や、終戦後の[[連合国軍最高司令官総司令部|占領軍]]による接収も免れ、半世紀近くにわたって日本[[興行]]界を代表する[[象徴]]のひとつとして存在した。
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[[1933年]]︵[[昭和]]8年︶竣工。[[第二次世界大戦|戦時中]]の[[東京大空襲|空襲]]による被災や、終戦後の[[連合国軍最高司令官総司令部|占領軍]]による接収も免れ、半世紀近くにわたって日本[[興行]]界を代表する[[象徴]]のひとつとして存在した。
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[[1981年]](昭和56年)再開発により隣接する[[朝日新聞東京本社]]の旧社屋と共に解体。 |
[[1981年]]︵昭和56年︶再開発により隣接する[[朝日新聞東京本社]]の旧社屋と共に解体。再開発後は[[有楽町センタービル|有楽町センタービル︵有楽町マリオン︶]]が建てられた。﹁日劇﹂の名称はマリオン内に設けられた映画館に引き継がれているが、2018年2月をもって営業終了の予定。
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{{main|TOHOシネマズ日劇}} |
{{main|TOHOシネマズ日劇}} |
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[[File:Nichigeki Nippon Theater 1964.jpg|thumb|200px|「夏のおどり」上演時の日劇(1964年撮影)]] |
[[File:Nichigeki Nippon Theater 1964.jpg|thumb|200px|「夏のおどり」上演時の日劇(1964年撮影)]] |
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当初は日本映画劇場株式会社 |
当初は日本映画劇場株式会社が経営していたが、経営不振となり一旦閉館。次いで[[日活]]が賃借して映画館となるが、これも経営に失敗。次いで[[東宝]]が賃借して直営、さらに会社そのものを吸収合併した。 |
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東宝経営後は基幹劇場の一つとして機能し、終戦後も占領軍へは[[東京宝塚劇場]]を提供することで接収を免れる。 |
東宝への経営移管後は、東宝系の基幹劇場(チェーンマスター)の一つとして機能し、終戦後も占領軍へは[[東京宝塚劇場]]を提供することで接収を免れる。 |
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戦後は東宝映画と実演の二本立て興行を行い、特に実演は[[日劇ダンシングチーム]] (NDT) の[[レヴュー]]と人気歌手のショーが注目を浴びた。とりわけ「日劇の舞台に出る事」が人気芸能人の[[登竜門]]となっていた時期があった。昭和30年代は[[ロカビリー]]旋風に乗り、「[[日劇ウエスタンカーニバル|ウエスタン・カーニバル]]」は大盛況となった。 |
戦後は東宝映画と実演の二本立て興行を行い、特に実演は[[日劇ダンシングチーム]] (NDT) の[[レヴュー]]と人気歌手のショーが注目を浴びた。とりわけ「日劇の舞台に出る事」が人気芸能人の[[登竜門]]となっていた時期があった。昭和30年代は[[ロカビリー]]旋風に乗り、「[[日劇ウエスタンカーニバル|ウエスタン・カーニバル]]」は大盛況となった。 |
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[[1953年]][[12月]]と[[1960年]]には、[[NHK紅白歌合戦]]も開催された。 |
[[1953年]][[12月]]と[[1960年]]には、[[NHK紅白歌合戦]]も開催された。 |
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娯楽の殿堂であった日劇も老朽化には勝てず、[[1981年]]2月15日をもって閉鎖。劇場としての歴史は現在の[[TOHOシネマズ日劇]]へと受け継がれている。 |
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== 日劇ダンシングチーム== |
== 日劇ダンシングチーム== |
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== 歌謡ショー == |
== 歌謡ショー == |
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*[[1960年代]]後半頃までは日劇の舞台に立つことが、一流芸能人の証となる憧れの地でもあった。 |
*[[1960年代]]後半頃までは、日劇の舞台に立つことが、一流芸能人の証となる憧れの地でもあった。 |
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*基本的には一日3回公演を数日~一週間程度行うというものであり、必ずと言っていいほどNDTのダンサーが出演し、それ以外のダンサーは出演を禁じられていた。 |
*基本的には一日3回公演を数日~一週間程度行うというものであり、必ずと言っていいほどNDTのダンサーが出演し、それ以外のダンサーは出演を禁じられていた。 |
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*しかし世間が騒ぐほど舞台の質は決して高くなく、あくまでもNDT公演の合間を埋めるための役割であったため、違う曲なのに同じ振り付けを使い廻ししたりと、ずさんな面が目立った。 |
*しかし世間が騒ぐほど舞台の質は決して高くなく、あくまでもNDT公演の合間を埋めるための役割であったため、違う曲なのに同じ振り付けを使い廻ししたりと、ずさんな面が目立った。 |
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*[[1980年]]3月 |
*[[1980年]]3月以降は歌謡ショーを打ち切り、[[映画]][[上映]]専門となった。 |
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== 沿革 == |
== 沿革 == |
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[[File:Hawai Mare oki kaisen poster 2.jpg|thumb|230px|[[東宝映画]]が製作し[[1942年]](昭和17年)[[12月3日]]に「[[映画配給社|紅系]]」で公開された『[[ハワイ・マレー沖海戦]]』(監督[[山本嘉次郎]])のポスター。館名リスト右端に「'''日本劇場'''」の文字列が確認できる。]] |
[[File:Hawai Mare oki kaisen poster 2.jpg|thumb|230px|[[東宝映画]]が製作し[[1942年]](昭和17年)[[12月3日]]に「[[映画配給社|紅系]]」で公開された『[[ハワイ・マレー沖海戦]]』(監督[[山本嘉次郎]])のポスター。館名リスト右端に「'''日本劇場'''」の文字列が確認できる。]] |
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[[File:Gojira 1954 Japanese poster.jpg|thumb|200px|[[1954年]](昭和29年)[[11月3日]]に公開された『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』(監督[[本多猪四郎]])のポスター。劇中、ゴジラが日劇を破壊するシーンがある。]] |
[[File:Gojira 1954 Japanese poster.jpg|thumb|200px|[[1954年]](昭和29年)[[11月3日]]に公開された『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』(監督[[本多猪四郎]])のポスター。劇中、ゴジラが日劇を破壊するシーンがある。]] |
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*1929年2月 - 日本映画劇場株式会社設立。直ちに着工するが途中資金不足のため工事停頓。 |
*1929年2月 - 日本映画劇場株式会社設立。直ちに着工するが、途中資金不足のため工事停頓。 |
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*1933年4月 - 会社創立委員長で大株主である[[大川平三郎]]の資金注入により工事再開。 |
*1933年4月 - 会社創立委員長で大株主である[[大川平三郎]]の資金注入により工事再開。 |
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*1933年12月24日 - 「日本劇場」として開場披露式。 |
*1933年12月24日 - 「日本劇場」として開場披露式。 |
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*1978年6月24日 - 映画『[[スター・ウォーズ]]』(後々「[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|エピソード4:新たなる希望]]」とされた)が封切。 |
*1978年6月24日 - 映画『[[スター・ウォーズ]]』(後々「[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|エピソード4:新たなる希望]]」とされた)が封切。 |
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*1981年2月15日 - 施設の老朽化と東京都の再開発事業により閉館。この日に合わせ、「サヨナラ日劇フェスティバル」が同年1月28日から開催される。 |
*1981年2月15日 - 施設の老朽化と東京都の再開発事業により閉館。この日に合わせ、「サヨナラ日劇フェスティバル」が同年1月28日から開催される。 |
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*1984年10月6日 - 有楽町センタービルオープン。<!-- |
*1984年10月6日 - 有楽町センタービル(有楽町マリオン)オープン。<!-- |
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(これ以後は[[有楽町センタービル]]を参照)--> |
(これ以後は[[有楽町センタービル]]を参照)--> |
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*客席は3階席まであり、1階1060席、2階540席、3階463席の計2063席。両壁際にはロイヤルボックスと呼ばれたボックス席が10個︵2階6個、3階4個︶あり、2階席前3列とともに日劇唯一の指定席となっていた。立ち見の客を最大限入れた状態で﹁4000人劇場﹂と呼んだ。
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*客席は3階席まであり、1階1060席、2階540席、3階463席の計2063席。両壁際にはロイヤルボックスと呼ばれたボックス席が10個︵2階6個、3階4個︶あり、2階席前3列とともに日劇唯一の指定席となっていた。立ち見の客を最大限入れた状態で﹁4000人劇場﹂と呼んだ。
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*もともと映画館として建設されたため、舞台の奥行きは狭く、[[回り舞台]]も無く、使用していた大階段もかなり急なものとなっていた。わずかな[[迫り]]と[[オーケストラピット]]があった。 |
*もともと映画館として建設されたため、舞台の奥行きは狭く、[[回り舞台]]も無く、使用していた大階段もかなり急なものとなっていた。わずかな[[迫り]]と[[オーケストラピット]]があった。 |
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*開場当時、劇場内外部は[[ステンドグラス]]、[[大理石]]、さまざまなデザインの[[レリーフ]]などで豪華絢爛に彩られて人々の目を驚かせたが、1960年︵昭和35年︶に大改装。しかし、解体時に長年の改装で覆われた[[ベニヤ板]]を剥がしたところ、正面ホールの壁から[[ギリシャ神話]]をモチーフとした陶器モザイクの壁画が現れた。これは[[川島理一郎]]による作品で﹁[[平和]]﹂﹁[[戦争]]﹂﹁[[舞踊]]﹂﹁[[音楽]]﹂の4テーマに分かれていた。この壁画がベニヤ板で覆われてしまったのは、1958年︵昭和33年︶のこと。理由はタイアップ商品をホールで販売する計画があり、背景としてはこの壁画はあまりにも芸術的過ぎて、そぐわないというものであった。こうして23年ぶりに発見され新聞などでも話題となった。記念として有楽町マリオンに残そうという話があったが、壁画は[[モルタル]]で固められているうえに、背後は上層階を支える大柱があったため難工事になると考えられた。そのため保存されることは叶わず、そのまま建物の廃材とともに廃棄 |
*開場当時、劇場内外部は[[ステンドグラス]]、[[大理石]]、さまざまなデザインの[[レリーフ]]などで豪華絢爛に彩られて人々の目を驚かせたが、1960年︵昭和35年︶に大改装。しかし、解体時に長年の改装で覆われた[[ベニヤ板]]を剥がしたところ、正面ホールの壁から[[ギリシャ神話]]をモチーフとした陶器モザイクの壁画が現れた。これは[[川島理一郎]]による作品で﹁[[平和]]﹂﹁[[戦争]]﹂﹁[[舞踊]]﹂﹁[[音楽]]﹂の4テーマに分かれていた。この壁画がベニヤ板で覆われてしまったのは、1958年︵昭和33年︶のこと。理由はタイアップ商品をホールで販売する計画があり、背景としてはこの壁画はあまりにも芸術的過ぎて、そぐわないというものであった。こうして23年ぶりに発見され新聞などでも話題となった。記念として有楽町マリオンに残そうという話があったが、壁画は[[モルタル]]で固められているうえに、背後は上層階を支える大柱があったため、難工事になると考えられた。そのため保存されることは叶わず、そのまま建物の廃材とともに廃棄されてしまった。
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*古い[[設備]]であったこと、あとから無理やり付け足した[[スピーカー]]であったため、[[音響]][[効果]]はあまりよくなかった。 |
*古い[[設備]]であったこと、あとから無理やり付け足した[[スピーカー]]であったため、[[音響]][[効果]]はあまりよくなかった。 |
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*また完成当初から最盛期は[[ファサード]]も華麗に[[ライトアップ |
*また完成当初から最盛期は[[ファサード]]も華麗に[[ライトアップ|発光]]されていたが、閉館間際になると取り止め、あちこちの壁に[[広告]]が掲げられ、完成当初の美しさは失われつつあった(前述の改装時には、前面最上部を取り囲むように[[東芝]]のネオンサインが取り付けられ、閉館時まで作り替えられながら存在した)。また赤字経営をなんとかやりくりするために、全館に[[ファーストキッチン]]や[[ディスカウントショップ]]、甘栗屋、雑貨、洋服屋、マージャン、ビリヤード店が入居するなど、一世を風靡した劇場にとって相応しくない猥雑さが目立つようになり、著しく[[雑居ビル]]化が進んでいた。 |
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== 出典 == |
== 出典 == |
2017年9月1日 (金) 01:08時点における版
日本劇場 Nihon Gekijo | |
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開業当時の日劇(昭和8年) | |
情報 | |
通称 | 日劇 |
正式名称 | 日本劇場 |
完成 | 1933年 |
開館 | 1933年12月24日 |
閉館 | 1981年2月15日 |
最終公演 | サヨナラ日劇フェスティバル |
収容人員 | 約4,000人 |
客席数 |
1階:1,060 2階:540 3階:463 |
用途 | ミュージカル、演劇、映画上映 |
運営 | 東宝株式会社 |
所在地 |
〒100 東京都千代田区有楽町二丁目5番1号 |