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'''李 孝逸'''︵り こういつ、生没年不詳︶は、[[中国]]の[[唐]]の[[宗室]]。唐の高祖[[李淵]]の従弟、淮安靖王[[李神通]]の子。
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== 経歴 == |
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若いときから学問を好み、文章を得意とした。はじめ梁郡公に封ぜられた。[[高宗 (唐)|高宗]]のとき、給事中から[[益州]]大都督府長史に累進した。[[武則天]]が政権を握ると、左衛将軍となり |
若いときから学問を好み、文章を得意とした。はじめ梁郡公に封ぜられた。[[高宗 (唐)|高宗]]のとき、給事中から[[益州]]大都督府[[長史]]に累進した。[[武則天]]が政権を握ると、左衛将軍となり信任された。
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[[光宅]]元年︵[[684年]]︶、[[徐敬業]]が起兵すると |
[[光宅]]元年︵[[684年]]︶、[[徐敬業]]が起兵すると孝逸は左玉鈐衛大将軍・[[揚州 (古代)|揚州]]行軍大総管として、官軍を率いて徐敬業の討伐にあたった。官軍が[[淮水]]に進むと、徐敬業は[[潤州]]を攻めており、徐敬業の弟の[[徐敬猷]]は淮陰を守り、将軍の[[韋超]]は都梁山に拠って孝逸を阻もうとした。孝逸は険阻な山岳に拠る韋超を放置して揚州に進もうとしたが、支度使の薛克構が韋超は小敵ではあり、放置しては示しがつかないと孝逸に進言したため、孝逸はこれに従った。山を登って韋超を攻撃し、数百人を殺して韋超を敗走させた。さらに淮陰に進撃して徐敬猷を破った。徐敬業は軍をかえして下阿渓に至り孝逸と会戦したが、徐敬業は大敗し、続いて揚州も陥落した。
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孝逸は功績により鎮軍大将軍に進み、呉国公に封ぜられ、威名は |
孝逸は功績により鎮軍大将軍に進み、呉国公に封ぜられ、威名は轟いた。しかし[[垂拱]]2年︵[[686年]]︶、[[武承嗣]]らに憎まれ、讒言を受けて[[施州]][[刺史]]に左遷された。さらに[[儋州]]に流され、亡くなった。[[景雲 (唐)|景雲]]元年︵[[710年]]︶、[[金州 (陝西省)|金州]]大都督の位を追贈された。
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== 伝記資料 == |
== 伝記資料 == |
2024年6月11日 (火) 21:30時点における最新版
李 孝逸︵り こういつ、生没年不詳︶は、中国の唐の宗室。唐の高祖李淵の従弟、淮安靖王李神通の子。