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「李敏」の版間の差分

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'''李 敏'''(り びん、[[1936年]] - )は、[[中華人民共和国]]の政治家。[[毛沢東]]と[[賀子珍]]の間に生まれた子供のうち、成長した唯一の娘。

'''李 敏'''(り びん、[[1936年]] - )は、[[中華人民共和国]]の政治家。[[毛沢東]]と[[賀子珍]]の間に生まれた子供のうち、成長した唯一の娘。[[延安市|延安]]生まれ



== 人物・略歴 ==

[[1940年]]から7年間、母と共に[[ソビエト連邦|ソ連]]・[[モスクワ]]東部の[[イヴァノヴォ]]にある[[インタードーム]]で生活した。 <ref> 「李樹華の戦時ソ連生活回顧」&「イヴァノヴォ学校の子供たち」[新京報 2015.05.08.] (中国語) </ref> [[1947年]]に帰国後、[[中南海]]の毛沢東邸に移り住んだ。

[[1938年]]、毛沢東に賀子珍はソビエト連邦に渡り、[[東方勤労者共産大学]]に留学した。この間、長征の際に体内に残った砲弾の破片の摘出を受けようとしたが、ソ連の医師は、破片の摘出が不可能性であると認めた。彼女は卒業後もソ連にとどまり、国際児童院の東洋部に勤務した。賀子珍はモスクワで毛とのあいだにできた第六子を出産したが、生まれたばかりの息子は[[肺炎]]にかかり、ろくな治療も受けさせてもらえず、1歳にならないうちに亡くなり、[[モスクワ]]の共同墓地に葬った<ref name="jing33">[[#京|京(1999)pp.33-38]]</ref>。賀子珍は[[1939年]]以降、延安の中共中央に手紙や電報で帰国を願い出るようになったが、かなわなかった<ref name="jing33" />。毛沢東は、延安の農村で育ててもらっている3歳の嬌嬌をモスクワに送った<ref name="jing33" />。彼女がのちの李敏である。中共は賀子珍を毛沢東夫人と認めなかったので、ソ連では彼女らを普通の母子として扱った<ref name="jing33" />。ある年の冬、[[保育所|託児所]]で病気になった嬌嬌を、まだ生きているにもかかわらず医師が死体安置所に入れてしまう事故があった<ref name="jing33" />。賀子珍は娘を探し出して救出し、託児所の所長と口論になったが、当時[[コミンテルン]]の東洋部長だった[[王明]]は、賀子珍を「狂人」に仕立て精神病院に強制入院させるよう指示した<ref name="jing33" />。彼女は結局、6年ものあいだ、精神病院に閉じ込められた<ref name="jing33" />。[[1940年]]から7年間、彼女は母とともにモスクワ東部の[[イヴァノヴォ]]にある[[インタードーム]]で生活した<ref>「李樹華の戦時ソ連生活回顧」&「イヴァノヴォ学校の子供たち」[新京報 2015.05.08.] (中国語) </ref>。 [[1947年]]に帰国後、。



[[1947年]]、モスクワ訪問中のかつての中共コミンテルン代表の{{仮リンク|王稼祥|zh|王稼祥}}と妻の朱仲麗は偶然、賀子珍の消息を聞いて彼女に同情し、強い義侠心を発揮して[[羅栄桓]]とともにコミンテルンと交渉、賀子珍は解放されて中国に戻った<ref name="jing33" />。賀子珍は和解の気持ちで娘を毛沢東に送り届けたが、江青と結婚していた毛沢東は娘を手元に置いて賀子珍に逢わせず、[[中南海]]の毛沢東邸で、第4夫人の[[江青]]に育てさせた<ref name="jing33" />。「李敏」の名は、紅青の本名から「李」姓を継いだものである。

[[北京師範大学]]卒業後、[[1959年]]に孔令華と結婚、一男一女をもうけ。[[1976年]]に[[中国人民政治協商会議]]委員に選出された。[[2008年]]の[[四川大地震]]の際には異母妹の[[李訥]]と連名で、被災地に10万元を義援金として送った。



李敏は、[[北京師範大学]]卒業後、[[1959年]]に孔令華と結婚、一男一女をもうけ。[[1976年]]に[[中国人民政治協商会議]]委員に選出された。[[2008年]]の[[四川大地震]]の際には異母妹の[[李訥]]と連名で、被災地に10万元を義援金として送った。

==脚注==

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== 脚注 ==

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== 参考文献 ==

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2023年1月2日 (月) 09:42時点における版

李敏
毛沢東と李敏
プロフィール
出生: 1936年
出身地: 中華人民共和国陝西省延安県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 李敏
簡体字 李敏
拼音 Lĭ Mĭn
和名表記: り びん
発音転記: リー ミン
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  1936 - 

人物・略歴


19381[1]1939[1]3[1][1][1][1]6[1]19407[2] 1947

1947[1]4[1]

19591976200810

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 京(1999)pp.33-38
  2. ^ 「李樹華の戦時ソ連生活回顧」&「イヴァノヴォ学校の子供たち」[新京報 2015.05.08.] (中国語)

参考文献

  • 京夫子 著、船山秀夫 訳『毛沢東 最後の女』中央公論新社〈中公文庫〉、1999年11月。ISBN 978-4122035386