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[[1944年]](昭和19年)5月下旬、[[第33軍 (日本軍)|第33軍]]司令官[[本多政材]]中将から北[[ビルマ]]の要衝ミイトキーナに援軍として派遣を命じられる。30日、同地に到着。その後、[[辻政信]]に死守を命じられて2ヶ月以上に及ぶ米中連合軍との激戦を繰り広げるが、8月3日同地は陥落。水上は死守命令を伏せたまま部下に脱出を命じ、その責を負い自決した。死後、陸軍中将に進級し、個人[[感状]]を受けた。 |
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==家族親族== |
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*二男 水上澄([[陸軍大尉]]) |
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==文献== |
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*島田駒男『ビルマの義人水上源蔵』非売品、1983年(改訂増補改題『ビルマ戦場の義人水上源蔵閣下』、1985年)。 |
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2008年1月4日 (金) 17:17時点における版
水上 源蔵︵みなかみ げんぞう、1888年︵明治21年︶9月26日 - 1944年︵昭和19年︶8月4日は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
山梨県出身。水上長光の三男として生れる。日川中学校を経て陸軍士官学校に進み、1911年︵明治44年︶5月、同校︵第23期︶を卒業し、同年12月、陸軍少尉に任官し歩兵第66連隊付となる。陸軍戸山学校で学び、1919年︵大正8年︶3月から翌年10月までシベリア出兵に従軍。 その後、歩兵第66連隊中隊長、日川中学校配属将校、第1師団司令部付、歩兵第49連隊副官、歩兵第78連隊大隊長、第8国境守備隊第4地区隊長、歩兵第66連隊長、津連隊区司令官、歩兵110連隊長を経て、1941年︵昭和16年︶10月、陸軍少将に進級。留守第54師団兵務部長となり、1943年︵昭和18年︶6月、第56歩兵団長に補任される。 1944年︵昭和19年︶5月下旬、第33軍司令官本多政材中将から北ビルマの要衝ミイトキーナに援軍として派遣を命じられる。30日、同地に到着。その後、辻政信に死守を命じられて2ヶ月以上に及ぶ米中連合軍との激戦を繰り広げるが、8月3日同地は陥落。水上は死守命令を伏せたまま部下に脱出を命じ、その責を負い自決した。死後、陸軍中将に進級し、個人感状を受けた。家族親族
- 二男 水上澄(陸軍大尉)
文献
- 島田駒男『ビルマの義人水上源蔵』非売品、1983年(改訂増補改題『ビルマ戦場の義人水上源蔵閣下』、1985年)。