シベリア出兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シベリア干渉戦争

1918年、ウラジオストクでパレードを行う各国の干渉軍
戦争ロシア内戦対ソ干渉戦争
年月日1918年8月 – 1922年10月
場所シベリア東部
結果:連合軍の撤退
交戦勢力
ロシアの旗 ロシア国
大日本帝国の旗 大日本帝国
チェコの旗 チェコスロバキア
イギリスの旗 イギリス
フランスの旗 フランス
ポーランド
イタリア王国の旗 イタリア
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カナダの旗 カナダ
中華民国の旗 中華民国
モンゴル
ロシアSFSR
極東共和国
モンゴル人民党
指導者・指揮官
ロシアの旗 アレクサンドル・コルチャーク 処刑
ロシアの旗 グリゴリー・セミョーノフ
ロシアの旗 ミハイル・ディテリフス
ロシアの旗 イワン・カルミコフ英語版
ロシアの旗 ロマン・ウンゲルン 処刑
ロシアの旗 パベル・イワノフ-リノウロシア語版
ロシアの旗 ゲオルギー・ロマノフスキーロシア語版
ロシアの旗 ドミトリー・ホルワットロシア語版
大日本帝国の旗 大谷喜久蔵
大日本帝国の旗 由比光衛
大日本帝国の旗 四王天延孝
イギリスの旗 アルフレッド・ノックス英語版
アメリカ合衆国の旗 ウィリアム・グレーヴス英語版
アメリカ合衆国の旗 ロバート・アイケルバーガー
カナダの旗 ジェームズ・H・エルムズリー英語版
中華民国の旗 宋煥章
中華民国の旗 林建章
イタリア王国の旗 バルディセロ・ヴィットリオ・フィリッピ
ボグド・ハーン
レフ・トロツキー
イオアキム・ヴァツェチス
セルゲイ・カーメネフ
ミハイル・トゥハチェフスキー
ミハイル・フルンゼ
ヴァシーリー・ブリュヘル
ヤーコフ・トリャピーツィン 処刑
アレクサンドル・サモイロ
セルゲイ・ラゾ英語版 処刑
イワン・コーネフ
アレクサンドル・クラスノシチョーコフ
ダムディン・スフバートル
戦力
白軍400,000人
日本軍73,000人
アメリカ7,950人
イタリア2,400人
イギリス1,500人
カナダ4,192人
フランス800人
中国2,000人 

計492562人

600,000人
損害
200,000人 400,000人

: Siberian Intervention19181922[1]



191881172,000[2][1] 191919201退[1]192210350010[1]

19205,000[3]

86[4]

[]






191722111918



西

西

2







 (Leonard Humphreys) 
当時の日本側の事情として、領土獲得への野心、日露戦争後に失った利権の奪還、地政学的な理由(日本はロシアと地理的に近く、さらに日本の利権が絡んだ満州、日本統治下の朝鮮半島は直接ロシアと国境を接していた)等のみならず、政治的・イデオロギー的な理由もあった。すなわち、日本の政体国体)である天皇制と革命政権のイデオロギーは相容れない以上、共産主義が日本を含めた同地域に波及することをなんとしても阻止する必要があったのである[5]



[6]

[]


19188000



西37

HMS[7]

1918111920

沿沿西

退

日本[編集]

パルチザン(ゲリラ)戦争[編集]

1919年1月から、労働者農民などで組織されたパルチザンによる遊撃戦に苦戦。次第に交通の要所を確保するのが精一杯の状態に陥った。日本軍はパルチザンが潜む可能性が有る村落への懲罰攻撃を行った。

1919年2月中旬、歩兵第十二旅団長山田四郎少将は「師団長の指令に基き」次のような通告を発している。

第一、日本軍及び露人に敵対する過激派軍は付近各所に散在せるが日本軍にては彼等が時には我が兵を傷け時には良民を装い変幻常なきを以て其実質を判別するに由なきに依り今後村落中の人民にして猥りに日露軍兵に敵対するものあるときは日露軍は容赦なく該村人民の過激派軍に加担するものと認め其村落を焼棄すべし

またウラジオストク派遣軍政務部長松平恒雄内田外相宛の電報「別電一五九号」には次のように記されている。

最近州内各地に於いて過激派赤衛団は現政府及日本軍に対し州民を煽動し向背常なく我軍隊にして其何れが過激派にして何れが非過激派なるかの識別に苦ましめ秩序回復を不可能ならしめつつあるが斯くの如き状態は到底之を容すべからざるものと認め全黒竜州人に対し左の通り通告す一、各村落に於て過激派赤衛団を発見したる時は広狭と人口の多寡に拘らず之を焼打して殲滅すべし

同年1月アムール州「マザノヴォ」という村で日本軍「現地守備隊」の掃討作戦に耐えかねたパルチザンが蜂起し、近隣の村落も巻き込んで大規模な戦闘が始まった。

日本軍は零下42℃という過酷な気象条件のため撤兵、村は一時赤軍パルチザンにより解放された。しかし守備隊長マエダ大尉(前田多仲大尉)の率いる討伐隊が再度来襲し、道すがら手当たりしだい村々を焼き、農民を虐殺し、蜂起民が逃げ散った「マサノヴォ」を再占領。さらに「ソハチノ」という近隣の村に到着するや、逃げ遅れた村民全てを銃殺し、村を徹底的に焼き払った[8]

この内、日本軍の『出兵史』に

同地には我が守備隊よりの掠奪品を隠匿しありしを以て懲膺の為過激派に関係せし同村の民家を焼夷せり

とあり、掠奪、ゲリラ作戦への懲膺を理由として村の全民家を焼夷したと記されている。

同年2月13日インノケンチェフスカヤ村における掃討作戦で、「同日第12師団第3大隊第8中隊は同村を早暁襲撃し、パルチザンが逃亡したのち、無抵抗の村民をパルチザンのシンパとみなして手当たり次第に100名以上刺殺・銃殺し、他方で将校や下士官は日本刀による据え者切りなどを行った。その後、物品略奪・食料徴発・家屋放火などの蛮行を行った」とし、「組織的な虐殺・略奪はパルチザンに対する報復措置であると同時に、敵愾心にももとづく」とする意見がある[9]

ユフタの闘い[編集]

同年2月25日にはアムール州のユフタにおいて日本軍310人がパルチザンと戦ってほぼ全滅した闘いである。

日本軍「パルチザン討伐部隊」は1919年2月25日に襲撃を再開したが、地形を熟知したパルチザン部隊によって追い詰められ、田中勝輔少佐率いる歩兵第72連隊第三大隊は同月26日「最後の一兵に至るまで全員悉く戦死」したとされる[9]

イワノフカ事件[編集]


322



1212



調
本村が日本軍に包囲されたのは三月二十二日午前十時である。

其日村民は平和に家業を仕て居た。初め西北方に銃声が聞へ次で砲弾が村へ落ち始めた。凡そ二時間程の間に約二百発の砲弾が飛来して五、六軒の農家が焼けた。村民は驚き恐れて四方に逃亡するものあり地下室に隠るるもあった。

間もなく日本兵と『コサック』兵とが現れ枯草を軒下に積み石油を注ぎ放火し始めた。女子供は恐れ戦き泣き叫んだ。彼等の或る者は一時気絶し発狂した。男子は多く殺され或は捕へられ或者等は一列に並べられて一斉射撃の下に斃れた。絶命せざるもの等は一々銃剣で刺し殺された。

最も惨酷なるは十五名の村民が一棟の物置小屋に押し込められ外から火を放たれて生きながら焼け死んだことである。

殺された者が当村に籍ある者のみで二百十六名、籍の無い者も多数殺された。焼けた家が百三十戸、穀物農具家財の焼失無数である。此の損害総計七百五十万留(ルーブル)に達して居る。孤児が約五百名老人のみ生き残って扶養者の無い者が八戸其他現在生活に窮して居る家族は多数である。[10]

とある。

翌年2月、同州にソビエト権力が復活すると同村において州都ブラゴヴェシチェンスクの某新聞社が再度調査を行なった。

この結果、死者総数は291名(内中国人6名を含む)で、その中には1歳半の乳飲み子から96歳の老人まで含まれていたとされる(『赤いゴルゴタ』)。

こうした作戦が招いた惨禍の中、1919年秋連合国が後押しをしていた反革命派のアレクサンドル・コルチャーク政権は赤軍との戦闘において敗北が決定的となり、1920年に崩壊。日本政府内にも白軍凋落を期に撤退機運が強まった。

ボグダットの戦い[編集]

尼港事件[編集]

焼け落ちたニコライエフスク日本領事館

19209354,00014237006,000

1925()

[]


191882[11]西4西

1918822





西

1919[12]

[]


調
一般ニ士気発揚シアラサルカ如シ 即チ戦争ノ目的ヲ了解シアラサルノミナラス官費満州旅行位ノ心得ニテ出征シアルモノ大部ヲ占ムルノ有様ナリ

—朝鮮軍司令官兵站業務実施報告


沿[13]

[14]1920[15] 

 

8



[16] [17]



調 使721 [18] 

1920鹿鹿[19]

[20]

[]


1920728
日本下級軍人が、所謂殊勲の恩賞に預からんがために、而して他の実際討伐に従軍せる者を羨みて、敵無き所に事を起こし、無害の良民を惨殺する等の挙に出ること。而して「我部下は事無き故可哀相なり、何かやらせん」と豪語する中隊長あり[21]

また、別の駅では以下の話を耳にする。

目下過激派の俘虜百名あり、漸次に解放したる残りにて、最も首謀と認めたるものは殺しつつあり、之を「ニコラエフスク行き」と唱えつつありといふ。[22]

さらに、

各駅は日本兵によりて守備せらる。(中略)視察に来られる某少佐に対してシマコーフカ駅の一少尉が種々説明しつつありしところを傍聴すれば、目下も列車には常に過激派の密偵あり、列車着すれば第一に降り来たり注意する動作にて直ちに判明する故、常に捕らえて斬首その他の方法にて殺しつつあり、而して死骸は常に機関車内にて火葬す。半殺しにして無理に押し込みたることもあり。或時は両駅間を夜間機関車を幾回となく往復せしめて焼きたることあり。随分首切りたりなど、大得意に声高に物語るを聞く。而して報告は、単に抵抗せし故銃殺せりとする也という。浦塩にて聞きたることの偽ならぬをも確かめ得て、また言の出るところを知らず。[23]

ポーランド孤児の救済[編集]


191811

[24]192097119221182800[25]19209[26] 511925

[]


1921192262310沿

[27]

脚注[編集]



(一)^ abcd  

(二)^ .  RUSIA BEYOND (2022117). 20231013

(三)^ 191719221989 572

(四)^ 

(五)^ Humphreys, Leonard A.:The Way of the Heavenly Sword: The Japanese Army in the 1920's. Stanford University Press. 1996. ISBN 0-8047-2375-3.

(六)^  1917~1922  1989  ISBN 978-4480854865 p. 177-178

(七)^ 西    1920

(八)^  1917~1922  1989  ISBN 978-4480854865 p. 470-471

(九)^ ab (PDF) 2004

(十)^ 

(11)^ 782

(12)^ 19171922 415419

(13)^ 19171922 420

(14)^ 西19193

(15)^ 1967 122·124

(16)^ 19171922 422

(17)^ 19181229

(18)^ 19171922 426

(19)^  146

(20)^  3(11) p.11  191811 [1]

(21)^  122

(22)^  144

(23)^  131132

(24)^ 使

(25)^   

(26)^   (1868-1926)p338  20031130 :20522067

(27)^ 

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]