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'''永倉 江村人'''︵ながくら こうそんじん、[[1881年]]︵明治14年︶ - [[1951年]]︵昭和26年︶︶は、日本の[[画家]]。[[京都帝国大学]]福岡医科大学︵後の[[九州帝国大学]][[医学部]]、現在の[[九州大学]][[医学部]]︶解剖教室標本描画嘱託。本名は'''永倉茂'''。初号は'''江村人'''。
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1881年(明治14年1月14日)[[千葉県]][[印旛郡]]臼井町(現在の[[佐倉市]]臼井)に旧[[佐倉藩]]士の永倉良輔の長男として生まれる。旧制佐倉尋常中学(現在の[[千葉県立佐倉高等学校]])を経て、明治 |
1881年(明治14年1月14日)[[千葉県]][[印旛郡]]臼井町(現在の[[佐倉市]]臼井)に旧[[佐倉藩]]士の永倉良輔の長男として生まれる。旧制佐倉尋常中学(現在の[[千葉県立佐倉高等学校]])を経て、1898(明治31)年東京美術学校(現在の[[東京芸術大学]])日本画科本科に入学、当時日本画助教授『横山大観』に師事、日本画を習う、 |
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学生時代、[[考古学]]研究における先駆者として、﹁東京人類学会︵現[[日本人類学会]]︶﹂に寄稿したという。明治 |
学生時代、[[考古学]]研究における先駆者として、﹁東京人類学会︵現[[日本人類学会]]︶﹂に寄稿したという。1903︵明治36︶年同科を卒業、同校研究科︵現在の[[東京芸術大学]][[大学院]]︶に進むがその後退学し、同年に旧制福岡県立中学修猷館︵現在の[[福岡県立修猷館高等学校]]︶図画教師に赴任<ref>﹃修猷館同窓会名簿 修猷館225年記念﹄︵修猷館同窓会、2010年︶全日制旧職員17頁</ref>。翌年同校教師を免じられ、一年志願兵として軍役に服務。明治38年からは[[京都帝国大学]]福岡医科大学︵現在の[[九州大学]][[医学部]]︶に標本描画嘱託として解剖教室に勤務、人体解剖図を専門に写実した。一時兵役のため休職ののち、1913︵大正2︶年まで勤務。ついで[[九州日報]]社︵現在の[[西日本新聞社]]︶社友となり昭和の初めまで画筆をとる。その後西新町の自宅で[[画家]]、[[俳人]]、[[表具師]]などの文化人グループを結成。1951︵昭和26︶年1月25日、没。[[享年]]71歳
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*『下総印旛沼の南方に存する貝塚と古墳』東京人類学会報告・第十六巻183号(1901年) |
*『下総印旛沼の南方に存する貝塚と古墳』東京人類学会報告・第十六巻183号(1901年) |
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*[[日本画]] 現在「東京藝術大学 大学美術館」「福岡県立美術館」「福岡県立図書館」「福岡県立修猷館高等学校」「九州大学」他、{掛け軸、屏風、挿絵}等を所蔵している。 |
*[[日本画]] 現在「東京藝術大学 大学美術館」「福岡県立美術館」「福岡県立図書館」「福岡県立修猷館高等学校」「九州大学」 「千葉県佐倉市立美術館」 他、{掛け軸、屏風、挿絵}等を所蔵している。 |
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略歴[編集]
1881年︵明治14年1月14日︶千葉県印旛郡臼井町︵現在の佐倉市臼井︶に旧佐倉藩士の永倉良輔の長男として生まれる。旧制佐倉尋常中学︵現在の千葉県立佐倉高等学校︶を経て、1898︵明治31︶年東京美術学校︵現在の東京芸術大学︶日本画科本科に入学、当時日本画助教授﹃横山大観﹄に師事、日本画を習う、 学生時代、考古学研究における先駆者として、﹁東京人類学会︵現日本人類学会︶﹂に寄稿したという。1903︵明治36︶年同科を卒業、同校研究科︵現在の東京芸術大学大学院︶に進むがその後退学し、同年に旧制福岡県立中学修猷館︵現在の福岡県立修猷館高等学校︶図画教師に赴任[1]。翌年同校教師を免じられ、一年志願兵として軍役に服務。明治38年からは京都帝国大学福岡医科大学︵現在の九州大学医学部︶に標本描画嘱託として解剖教室に勤務、人体解剖図を専門に写実した。一時兵役のため休職ののち、1913︵大正2︶年まで勤務。ついで九州日報社︵現在の西日本新聞社︶社友となり昭和の初めまで画筆をとる。その後西新町の自宅で画家、俳人、表具師などの文化人グループを結成。1951︵昭和26︶年1月25日、没。享年71歳主な著書[編集]
●﹃下総印旛沼の南方に存する貝塚と古墳﹄東京人類学会報告・第十六巻183号︵1901年︶ Pinterestピンタレスト﹇arice&ryu﹈又は﹇永倉江村人﹈で検索、直孫﹁永倉竜助﹂の作品も含め 関連した写真、作品が見れる。関連項目[編集]
- 日本画 現在「東京藝術大学 大学美術館」「福岡県立美術館」「福岡県立図書館」「福岡県立修猷館高等学校」「九州大学」 「千葉県佐倉市立美術館」 他、{掛け軸、屏風、挿絵}等を所蔵している。
- 標本描画
- 解剖学
脚注[編集]
- ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館225年記念』(修猷館同窓会、2010年)全日制旧職員17頁