「汗血馬」の版間の差分
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⚫ | '''汗血馬'''(かんけつば)は、[[中国の歴史]]上で名馬といわれた[[ウマ|馬]]の種類。「血のような汗を流して走る馬」という意味で「汗血馬」と呼ばれる。 |
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|出典の明記=2014年12月 |
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|独自研究=2014年12月 |
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[[ファイル:Gansu Museum 2007 257.jpg|thumb|right|200px|[[:en:Gansu Flying Horse|銅奔馬「馬踏飛燕」]]]] |
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⚫ | '''汗血馬'''(かんけつば)は、[[中国の歴史]]上で名馬といわれた[[ウマ|馬]]の種類。「[[血]]のような[[汗]]を流して走る馬」という意味で「汗血馬」と呼ばれる。 |
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== 概要 == |
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[[紀元前4世紀]]頃から[[中国]]は[[遊牧騎馬民族]]の侵入を受け続けた。動作が機敏で頑健な北方民族の騎兵に比べ[[漢民族]]の使う馬は痩せて非力な馬が多く、重装した兵士が跨って戦う事ができなかった。紀元前2世紀初めの[[匈奴]]との戦いでは漢民族側の騎兵は10万頭の馬を失い、強く健康な北方の馬を手に入れることが防衛の要と考えられるようになった<ref>ヴィクター・H・モア、アーリン・ホー著 忠平美幸訳﹃お茶の歴史﹄、河出書房新社、2010年、pp.79-80</ref>。
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武帝は汗血馬を得た喜びのあまり「西極天馬の歌」を作らせて「天馬」と汗血馬のことを褒め称えた。[[甘粛省]]武威市の雷祖廟雷台漢墓から出た有名な馬の銅像・「馬踏飛燕」(ばとうひえん)はこの馬を[[題材|モデル]]にしたと言われる。<!--写真が欲しい--> |
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小説『[[三国志演義]]』に登場する名馬・[[赤兎馬]]はこの汗血馬をイメージしたのではないかと思われる。 |
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汗血馬は1日に1千里︵約500km︶を走ると言われている。もちろんこれは誇張であろうが、現存する[[アハルテケ]]︵アカール・テケとも︶という品種は4152kmを84日間で走破したという記録が残っており、[[赤兎馬]]のモデルという説がある<ref>{{Cite web|和書|title=八戸の牧場に黄金の馬・アハルテケ 三国志登場の﹁赤兎馬﹂か、繁殖に取り組む |url=https://kahoku.news/articles/20220621khn000033.html |website=河北新報オンラインニュース |date=2022-06-22 |access-date=2022-06-25 |language=ja}}</ref>。
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寄生虫の寄生(皮膚表面での吸血)による滲んだ血液が「血を流す」ように見え、かつその寄生虫による皮膚の刺激(痛み・痒み)によって、あたかも狂ったかのように(通常の馬としての巡行走行速度や走行距離以上に)疾走したというのが汗血馬のいわれでは、という説もある。 |
寄生虫の寄生(皮膚表面での吸血)による滲んだ血液が「血を流す」ように見え、かつその寄生虫による皮膚の刺激(痛み・痒み)によって、あたかも狂ったかのように(通常の馬としての巡行走行速度や走行距離以上に)疾走したというのが汗血馬のいわれでは、という説もある。 |
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現在、[[中華人民共和国|中国]]では[[トルクメニスタン]]から輸入したアハルテケを「汗血馬」として200頭以上を飼育しているという<ref>「[http://mainichi.jp/shimen/news/20150818ddm007030117000c.html 中国:新疆「シルクロード・バブル」 推進「一帯一路」当て込む 1頭60億円、汗血馬テーマパークも]」毎日新聞、2015年08月18日。2015年08月24日閲覧。</ref>。 |
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面白い所では競走用に訓練された河馬ではないかという説もある。河馬は陸上では時速40km以上で走る能力を持ち、水中生活を主とする彼らの皮膚は乾燥や紫外線に弱く、それらから保護するために、俗に﹁血の汗﹂や﹁ピンクの汗﹂などと呼ばれる赤みを帯びた粘液を体表から分泌する。
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== 脚注 == |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[名馬一覧]] |
* [[名馬一覧]] |
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* [[赤兎馬]] |
* [[赤兎馬]] |
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* [[千里馬]] - [[朝鮮半島]]において本種の概念が土着化したもの。 |
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* [[伊達政宗]] |
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== 外部リンク == |
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* 「[http://www.peopleschina.com/maindoc/html/200304/museum.htm 飛燕を踏んで翔ぶ:銅製の「奔馬」]」人民中国 - 汗血馬をモデルにしたと言われる「馬踏飛燕」像 |
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[[Category:馬の品種]] |
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[[Category:中央ユーラシア史]] |
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[[Category:漢朝]] |
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/25/Gansu_Museum_2007_257.jpg/200px-Gansu_Museum_2007_257.jpg)
概要[編集]
紀元前4世紀頃から中国は遊牧騎馬民族の侵入を受け続けた。動作が機敏で頑健な北方民族の騎兵に比べ漢民族の使う馬は痩せて非力な馬が多く、重装した兵士が跨って戦う事ができなかった。紀元前2世紀初めの匈奴との戦いでは漢民族側の騎兵は10万頭の馬を失い、強く健康な北方の馬を手に入れることが防衛の要と考えられるようになった[1]。 前漢の武帝時代に、西域への大旅行をした張騫の報告により、大宛︵フェルガナ︶にこの名馬が産することを知り、外交交渉でこれを手に入れようとしたが決裂したので2度の遠征軍を送り、多数の名馬と約3000頭の繁殖用の馬を得た。その後、漢代末までに中国北部では30万頭の馬が飼育されたと言われる。 武帝は汗血馬を得た喜びのあまり﹁西極天馬の歌﹂を作らせて﹁天馬﹂と汗血馬のことを褒め称えた。甘粛省武威市の雷祖廟雷台漢墓から出た有名な馬の銅像・﹁馬踏飛燕﹂︵ばとうひえん︶はこの馬をモデルにしたと言われる。 汗血馬は1日に1千里︵約500km︶を走ると言われている。もちろんこれは誇張であろうが、現存するアハルテケ︵アカール・テケとも︶という品種は4152kmを84日間で走破したという記録が残っており、赤兎馬のモデルという説がある[2]。 汗血馬という名前に関して言うと、実際に血を流していた、或いはそういう風に見えたという説も多い。馬の毛色によっては汗を流した時に血のように見えることがあるようだ。また寄生虫に寄生されている馬は実際に血の汗を流すことがある。この寄生虫による馬の能力低下はあまり無い。 寄生虫の寄生︵皮膚表面での吸血︶による滲んだ血液が﹁血を流す﹂ように見え、かつその寄生虫による皮膚の刺激︵痛み・痒み︶によって、あたかも狂ったかのように︵通常の馬としての巡行走行速度や走行距離以上に︶疾走したというのが汗血馬のいわれでは、という説もある。 現在、中国ではトルクメニスタンから輸入したアハルテケを﹁汗血馬﹂として200頭以上を飼育しているという[3]。脚注[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 「飛燕を踏んで翔ぶ:銅製の「奔馬」」人民中国 - 汗血馬をモデルにしたと言われる「馬踏飛燕」像