「江戸時代」を編集中
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'''江戸時代'''︵えどじだい、{{旧字体|'''江戶時代'''}}︶は、[[日本の歴史]]の内'''[[江戸幕府]]'''︵'''徳川幕府'''︶の[[統治]]時代を指す時代区分である。他の呼称として'''徳川時代'''、'''徳川日本'''<ref>{{Cite book|和書|title=文明としての徳川日本|year=2017|publisher=筑摩書房|author=芳賀徹}}</ref>、'''旧幕時代'''、'''藩政時代'''︵藩領のみ︶などがある。江戸時代という名は、'''[[江戸]]'''に[[将軍]]が[[常駐]]していたためである。
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'''江戸時代'''︵えどじだい、{{旧字体|'''江戶時代'''}}︶は、[[日本の歴史]]の内'''[[江戸幕府]]'''︵'''徳川幕府'''︶の[[統治]]時代を指す時代区分である。他の呼称として'''徳川時代'''、'''徳川日本'''<ref>{{Cite book|和書|title=文明としての徳川日本|year=2017|publisher=筑摩書房|author=芳賀徹}}</ref>、'''旧幕時代'''、'''藩政時代'''︵藩領のみ︶などがある。江戸時代という名は、'''[[江戸]]'''に[[将軍]]が[[常駐]]していたためである。
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==概要== |
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{{wide image|Edo Panorama old Tokyo color photochrom.jpg|1200px|[[1865年]]([[慶応]]元年)または[[1866年]](慶応2年)に[[フェリーチェ・ベアト]]が[[愛宕山 (港区)|愛宕山]]より撮影した江戸のパノラマ。人工着色した5枚の写真をつなげて制作された。}} |
{{wide image|Edo Panorama old Tokyo color photochrom.jpg|1200px|[[1865年]]([[慶応]]元年)または[[1866年]](慶応2年)に[[フェリーチェ・ベアト]]が[[愛宕山 (港区)|愛宕山]]より撮影した江戸のパノラマ。人工着色した5枚の写真をつなげて制作された。}} |
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=== 時代区分 === |
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日本史上の[[時代区分]]としては、[[安土桃山時代]](または[[豊臣政権]]時代)と合わせて「'''[[日本近世史|近世]]'''」とされる。 |
日本史上の[[時代区分]]としては、[[安土桃山時代]](または[[豊臣政権]]時代)と合わせて「'''[[日本近世史|近世]]'''」とされる。 |
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== 沿革 == |
== 沿革 == |
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=== 初期・前期(1603年 - 1690年ごろ) === |
=== 初期・前期(1603年 - 1690年ごろ) === |
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[[ファイル:Tokugawa Ieyasu2 full.JPG|220px|right|thumb|[[徳川家康]]]] |
[[ファイル:Tokugawa Ieyasu2 full.JPG|220px|right|thumb|[[徳川家康]]]] |
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[[徳川家康]]は[[征夷大将軍]]に就くと、領地である江戸に幕府を開き、ここに[[江戸幕府]]︵徳川幕府︶が誕生する。[[豊臣秀吉]]死後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、[[大坂の陣]]︵大坂の役︶により[[豊臣氏]]勢力を一掃。その後の[[島原の乱]]も鎮圧することで、[[平安時代]]以降、700年近く続いた政局不安は終焉を迎えた。以後200年以上続く長期安定政権の基盤を確立し、﹁[[元和偃武]]﹂とよばれる平和状態が日本にもたらされた |
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設立当初の幕府の運営体制は﹁庄屋仕立て﹂と評される、徳川家の家政を踏襲したものとなったが、[[寛永]]10年ごろに﹁[[老中]]﹂﹁[[若年寄]]﹂などの末期まで続く制度が確立した<ref>{{Cite journal|和書|author=大石慎三郎|authorlink=大石慎三郎|url=http://www.gakushuin.ac.jp/univ/eco/gakkai/pdf_files/keizai_ronsyuu/contents/1001/1001-17oishi.pdf|title=江戸幕府の行政機構|journal=学習院大学経済論集|volume=10巻|issue=1号|year=1973}}</ref>。かつて徳川家康と豊臣政権の同僚だった大名は、[[外様大名]]として扱われ、広大な領土を持つ者もいたが、関東や近畿地方などの要地からは遠ざけられ、従前の武家政権のように幕政に関与することはなくなった。徳川氏一門の[[親藩|親藩大名]]は大領を持ったが幕政には関与せず、[[関ヶ原の戦い]]以前から徳川家に仕えていた[[譜代大名]]・[[旗本]]によって幕政は運営された。[[武家諸法度]]によって大名は厳しく統制され、大大名も[[改易]]処分となり大領を失うことがしばしば発生した。[[京都]]・[[大坂]]・[[長崎市|長崎]]といった全国の要所は直轄領︵[[天領]]︶として大名を置かず、 幕府の役人が統治を行った。[[朝廷 (日本)|朝廷]]に対しては[[禁中並公家諸法度]]や[[京都所司代]]による統制が行われ、自立した対外行動をとることはできなくなった。
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設立当初の幕府の運営体制は﹁庄屋仕立て﹂と評される、徳川家の家政を踏襲したものとなったが、[[寛永]]10年ごろに﹁[[老中]]﹂﹁[[若年寄]]﹂などの末期まで続く制度が確立した<ref>{{Cite journal|和書|author=大石慎三郎|authorlink=大石慎三郎|url=http://www.gakushuin.ac.jp/univ/eco/gakkai/pdf_files/keizai_ronsyuu/contents/1001/1001-17oishi.pdf|title=江戸幕府の行政機構|journal=学習院大学経済論集|volume=10巻|issue=1号|year=1973}}</ref>。かつて徳川家康と豊臣政権の同僚だった大名は、[[外様大名]]として扱われ、広大な領土を持つ者もいたが、関東や近畿地方などの要地からは遠ざけられ、従前の武家政権のように幕政に関与することはなくなった。徳川氏一門の[[親藩|親藩大名]]は大領を持ったが幕政には関与せず、[[関ヶ原の戦い]]以前から徳川家に仕えていた[[譜代大名]]・[[旗本]]によって幕政は運営された。[[武家諸法度]]によって大名は厳しく統制され、大大名も[[改易]]処分となり大領を失うことがしばしば発生した。[[京都]]・[[大坂]]・[[長崎市|長崎]]といった全国の要所は直轄領︵[[天領]]︶として大名を置かず、 幕府の役人が統治を行った。[[朝廷 (日本)|朝廷]]に対しては[[禁中並公家諸法度]]や[[京都所司代]]による統制が行われ、自立した対外行動をとることはできなくなった。
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[[ファイル:Dutch-Japanese trading pass 1609.jpg|250px|right|thumb|[[徳川家康]]の名で発行されたオランダとの通商許可証([[慶長]]14年[[旧暦7月25日|7月25日]]([[1609年]][[8月24日]])付)]] |
[[ファイル:Dutch-Japanese trading pass 1609.jpg|250px|right|thumb|[[徳川家康]]の名で発行されたオランダとの通商許可証([[慶長]]14年[[旧暦7月25日|7月25日]]([[1609年]][[8月24日]])付)]] |
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また江戸時代には、対外的には長崎[[出島]]での[[中国]]︵[[明]]・[[清]]︶・[[オランダ]]との交流と[[対馬藩]]を介しての[[李氏朝鮮]]との交流以外は外国との交流を禁止する[[鎖国]]政策を採った︵ただし、実際には薩摩に支配された[[琉球王国]]による対中国交易や[[渡島半島]]の[[蠣崎氏|松前氏]]による北方交易が存在した︶。[[バテレン追放令]]は、すでに豊臣秀吉が発令していたが、鎖国の直接的契機となったのは[[島原の乱]]で、[[キリスト教]]と[[一揆]]︵中世の[[国人一揆]]と近世の[[百姓一揆]]の中間的な性格を持つもの︶が結びついたことにより、その鎮圧が困難であったため、キリスト教の危険性が強く認識されたからであると言われる。またこの間、オランダが日本貿易を独占するため、[[スペイン]]などの[[カトリック教会|カトリック]]国に日本[[植民地化]]の意図があり、危険であると幕府に助言したことも影響している。中国では同様の政策を[[海禁政策]]と呼ぶが、中国の場合は主として沿海地域の[[倭寇]]をも含む海賊からの防衛および海上での密貿易を禁止することが目的とされており、日本の鎖国と事情が異なる面もあった。しかし、日本の鎖国も中国の海禁と同じとして、鎖国より海禁とする方が適当とする見解もある。鎖国政策が実施される以前には、日本人の海外進出は著しく、[[東南アジア]]に多くの[[日本町]]が形成された。また[[タイ王国|タイ]]に渡った[[山田長政]]のように、その国で重用される例も見られた。 |
また江戸時代には、対外的には長崎[[出島]]での[[中国]]︵[[明]]・[[清]]︶・[[オランダ]]との交流と[[対馬藩]]を介しての[[李氏朝鮮]]との交流以外は外国との交流を禁止する[[鎖国]]政策を採った︵ただし、実際には薩摩に支配された[[琉球王国]]による対中国交易や[[渡島半島]]の[[蠣崎氏|松前氏]]による北方交易が存在した︶。[[バテレン追放令]]は、すでに豊臣秀吉が発令していたが、鎖国の直接的契機となったのは[[島原の乱]]で、[[キリスト教]]と[[一揆]]︵中世の[[国人一揆]]と近世の[[百姓一揆]]の中間的な性格を持つもの︶が結びついたことにより、その鎮圧が困難であったため、キリスト教の危険性が強く認識されたからであると言われる。またこの間、オランダが日本貿易を独占するため、[[スペイン]]などの[[カトリック教会|カトリック]]国に日本[[植民地化]]の意図があり、危険であると幕府に助言したことも影響している。中国では同様の政策を[[海禁政策]]と呼ぶが、中国の場合は主として沿海地域の[[倭寇]]をも含む海賊からの防衛および海上での密貿易を禁止することが目的とされており、日本の鎖国と事情が異なる面もあった。しかし、日本の鎖国も中国の海禁と同じとして、鎖国より海禁とする方が適当とする見解もある。鎖国政策が実施される以前には、日本人の海外進出は著しく、[[東南アジア]]に多くの[[日本町]]が形成された。また[[タイ王国|タイ]]に渡った[[山田長政]]のように、その国で重用される例も見られた。
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しかし鎖国後は、もっぱら国内重視の政策がとられ、基本的に国内自給経済が形成された。そのため[[三都]]を中軸とする全国経済と各地の[[城下町]]を中心とする[[藩]]経済との複合的な経済システムが形成され、各地の特産物がおもに大坂に集中し︵[[天下の台所]]と呼ばれた︶ |
しかし鎖国後は、もっぱら国内重視の政策がとられ、基本的に国内自給経済が形成された。そのため[[三都]]を中軸とする全国経済と各地の[[城下町]]を中心とする[[藩]]経済との複合的な経済システムが形成され、各地の特産物がおもに大坂に集中し︵[[天下の台所]]と呼ばれた︶、そこから全国に拡散した。農業生産力の発展を基盤として、経済的な繁栄が見られたのが[[元禄]]時代であり、この時代には文学や絵画の面でも、[[井原西鶴]]の[[浮世草子]]、[[松尾芭蕉]]の[[俳諧]]、[[近松門左衛門]]の[[浄瑠璃]]、[[菱川師宣]]の[[浮世絵]]などが誕生していく。これらの文化は京、大坂をはじめとする関西地域から生まれた。また、この元禄期に花開いた文化は[[元禄文化]]と呼ばれる。
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=== 中期(1690年ごろ - 1780年ごろ) === |
=== 中期(1690年ごろ - 1780年ごろ) === |
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[[ファイル:えちご屋広告チラシ.JPG|thumb|right|130px|ゑちご屋チラシ]] |
[[ファイル:えちご屋広告チラシ.JPG|thumb|right|130px|ゑちご屋チラシ]] |
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==== 元禄期 |
==== 元禄期~正徳期 ==== |
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{{main|正徳の治}} |
{{main|正徳の治}} |
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元禄時代の経済の急成長により、[[貨幣経済]]が農村にも浸透し、四木︵[[クワ|桑]]・[[漆]]・[[ヒノキ|檜]]・[[コウゾ|楮]]︶・三草︵[[ベニバナ|紅花]]・[[アイ (植物)|藍]]・[[アサ|麻]]または[[木綿]]︶など'''[[商品作物]]'''の栽培が進み、漁業では上方漁法が全国に広まり、[[瀬戸内海]]の沿岸では[[入浜式塩田]]が拓かれて[[塩]]の量産体制が整い各地に流通した。[[手工業]]では[[綿織物]]が発達し、伝統的な[[絹織物]]では高級品の[[西陣織]]が作られ、また、[[灘五郷]]や[[伊丹市|伊丹]]の[[酒造業]]、[[有田町|有田]]や[[瀬戸市|瀬戸]]の[[窯業]]も発展した。やがて、[[18世紀]]には農村工業として[[問屋制家内工業]]が各地に勃興した。
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元禄時代の経済の急成長により、[[貨幣経済]]が農村にも浸透し、四木︵[[クワ|桑]]・[[漆]]・[[ヒノキ|檜]]・[[コウゾ|楮]]︶・三草︵[[ベニバナ|紅花]]・[[アイ (植物)|藍]]・[[アサ|麻]]または[[木綿]]︶など'''[[商品作物]]'''の栽培が進み、漁業では上方漁法が全国に広まり、[[瀬戸内海]]の沿岸では[[入浜式塩田]]が拓かれて[[塩]]の量産体制が整い各地に流通した。[[手工業]]では[[綿織物]]が発達し、伝統的な[[絹織物]]では高級品の[[西陣織]]が作られ、また、[[灘五郷]]や[[伊丹市|伊丹]]の[[酒造業]]、[[有田町|有田]]や[[瀬戸市|瀬戸]]の[[窯業]]も発展した。やがて、[[18世紀]]には農村工業として[[問屋制家内工業]]が各地に勃興した。
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[[ファイル:Hiroshige le pont Nihonbashi à l'aube.jpg|250px|left|thumb|[[歌川広重]]『[[東海道五十三次]]』より「[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]」]] |
[[ファイル:Hiroshige le pont Nihonbashi à l'aube.jpg|250px|left|thumb|[[歌川広重]]『[[東海道五十三次]]』より「[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]」]] |
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このような経済の発展は、[[院内銀山]]などの鉱山開発が進んで[[金]]・[[銀]]・[[銅]]が大量に生産され、それと引き替えに日本国外の物資が大量に日本に入り込んだためでもあったが、18世紀に入ると減産、枯渇の傾向が見られるようになった。それに対応したのが、[[新井白石]]の[[海舶互市新例]]︵長崎新令︶であった。彼は、幕府開設から元禄までの間、[[長崎貿易]]の決済のために、[[金貨]]国内通貨量のうちの4分の1、[[銀貨]]は4分の3が失われたとし、[[長崎奉行]][[大岡清相]]からの意見書を参考にして、この法令を出した。その骨子は輸入規制と商品の国産化推進であり、長崎に入る異国船の数と貿易額に制限を加えるものであった。清国船は年間30艘、交易額は銀6,000貫にまで、オランダ船は年間2隻、貿易額は3,000貫に制限され、従来は輸入品であった綿布、[[絹|生糸]]、[[砂糖]]、[[皮革|鹿皮]]、絹織物などの国産化を奨励した |
このような経済の発展は、[[院内銀山]]などの鉱山開発が進んで[[金]]・[[銀]]・[[銅]]が大量に生産され、それと引き替えに日本国外の物資が大量に日本に入り込んだためでもあったが、18世紀に入ると減産、枯渇の傾向が見られるようになった。それに対応したのが、[[新井白石]]の[[海舶互市新例]]︵長崎新令︶であった。彼は、幕府開設から元禄までの間、[[長崎貿易]]の決済のために、[[金貨]]国内通貨量のうちの4分の1、[[銀貨]]は4分の3が失われたとし、[[長崎奉行]][[大岡清相]]からの意見書を参考にして、この法令を出した。その骨子は輸入規制と商品の国産化推進であり、長崎に入る異国船の数と貿易額に制限を加えるものであった。清国船は年間30艘、交易額は銀6,000貫にまで、オランダ船は年間2隻、貿易額は3,000貫に制限され、従来は輸入品であった綿布、[[絹|生糸]]、[[砂糖]]、[[皮革|鹿皮]]、絹織物などの国産化を奨励した。
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==== 徳川吉宗の幕政(享保の改革) ==== |
==== 徳川吉宗の幕政(享保の改革) ==== |
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{{main|享保の改革}} |
{{main|享保の改革}} |
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[[ファイル:Tokugawa Yoshimune.jpg|250px|right|thumb|[[徳川吉宗]]]] |
[[ファイル:Tokugawa Yoshimune.jpg|250px|right|thumb|[[徳川吉宗]]]] |
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8代将軍となった[[徳川吉宗]]は、[[紀州徳川家]]の出身であり、それまで幕政を主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく大胆に、農本主義に立脚した政治改革を行った︵[[享保の改革]]︶。吉宗がもっとも心を砕いたのは米価の安定であった。貨幣経済の進展にともない、諸物価の基準であった米価は下落を続け︵米価安の諸色高︶、それを俸禄の単位としていた[[旗本]]・[[御家人]]の困窮が顕著なものとなったからである。そのため彼は[[倹約令]]で消費を抑える一方、[[新田]]開発による米の増産、[[定免法]]採用による収入の安定、[[上米令]]、[[堂島米会所]]の公認などを行った |
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8代将軍となった[[徳川吉宗]]は、[[紀州徳川家]]の出身であり、それまで幕政を主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく大胆に、農本主義に立脚した政治改革を行った︵[[享保の改革]]︶。吉宗がもっとも心を砕いたのは米価の安定であった。貨幣経済の進展にともない、諸物価の基準であった米価は下落を続け︵米価安の諸色高︶、それを俸禄の単位としていた[[旗本]]・[[御家人]]の困窮が顕著なものとなったからである。そのため彼は[[倹約令]]で消費を抑える一方、[[新田]]開発による米の増産、[[定免法]]採用による収入の安定、[[上米令]]、[[堂島米会所]]の公認などを行った。﹁米将軍﹂と称された所以である。それ以外にも、財政支出を抑えながら有為な人材を登用する[[足高の制]]、漢訳洋書禁輸の緩和や[[サツマイモ|甘藷]]栽培の奨励、[[目安箱]]の設置などの改革を行った。幕府財政は一部で健全化し、[[1744年]]︵延享元年︶には江戸時代を通じて最高の税収となったが、年貢税率の固定化や貢租の重課や厳重な取り立てとなり、また、行きすぎた倹約により百姓・町民からの不満を招き、折からの[[享保の大飢饉]]︵享保6年︵信州浅間山噴火︶、同7年、同17年︶もあって、[[百姓一揆]]や[[打ちこわし]]が頻発した。それらに対し、享保6年︵1721年︶6月、﹁村民須知﹂、享保19年︵1734年︶8月、代官への御触書などによる法令で取り締まった。宝暦︵1704 - 1710年︶から享保︵1716 - 1735年︶までの間に40回ほどに及んだ︵実際はもっと多い。平均して1年に約2回︶<ref>丸山真男﹃丸山真男講義録 第一冊 日本政治思想史 1948 ﹄ 東京大学出版会、 1998年、 151ページ</ref>。このように、土地資本を基盤とする反面、土地所有者ではない支配者層という独自な立場に立たされた武士の生活の安定と、安定成長政策とは必ずしも上手く融合できずに、金融引き締め的な経済圧迫政策が打ち出されて不況が慢性化した。
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なお、﹁[[朱子学]]は憶測にもとづく虚妄の説にすぎない﹂と朱子学批判を行った[[荻生徂徠]]が[[1726年]]︵享保11年︶ごろに吉宗に提出した政治改革論﹃政談﹄には、徂徠の政治思想が具体的に示されており、これは日本思想史の中で政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち[[経世論]]が本格化する。一方、[[1724年]]︵享保9年︶には大坂の豪商が朱子学を中心に[[儒学]]を学ぶ[[懐徳堂]]を設立して、のちに幕府官許の[[学問所]]として[[明治]]初年まで続いている。[[1730年]]︵享保15年︶、[[石田梅岩]]は日本独自の道徳哲学[[石門心学|心学]]︵石門心学︶を唱えた。[[享保]]年間は、このように、学問・思想の上でも新しい展開の見られた時代でもあった |
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なお、﹁[[朱子学]]は憶測にもとづく虚妄の説にすぎない﹂と朱子学批判を行った[[荻生徂徠]]が[[1726年]]︵享保11年︶ごろに吉宗に提出した政治改革論﹃政談﹄には、徂徠の政治思想が具体的に示されており、これは日本思想史の中で政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち[[経世論]]が本格化する。一方、[[1724年]]︵享保9年︶には大坂の豪商が朱子学を中心に[[儒学]]を学ぶ[[懐徳堂]]を設立して、のちに幕府官許の[[学問所]]として[[明治]]初年まで続いている。[[1730年]]︵享保15年︶、[[石田梅岩]]は日本独自の道徳哲学[[石門心学|心学]]︵石門心学︶を唱えた。[[享保]]年間は、このように、学問・思想の上でも新しい展開の見られた時代でもあった。
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その一方で、超長期の政権安定、特に前半の百数十年は成長経済基調のもと、町人層が発展し、学問・文化・芸術・経済などさまざまな分野の活動が活発化し、現代にまで続く伝統を確立している。
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その一方で、超長期の政権安定、特に前半の百数十年は成長経済基調のもと、町人層が発展し、学問・文化・芸術・経済などさまざまな分野の活動が活発化し、現代にまで続く伝統を確立している。
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幕府財政は、享保の改革での[[年貢]]増徴策によって年貢収入は増加したが、[[宝暦]]年間([[1751年]] - [[1763年]])には頭打ちとなり、再び行き詰まりを見せた。農村では厳しい年貢収奪に苦しみ村で食っていけなくなった貧農は遊民化し江戸などの大都市に流れ込んで無宿者と化した。さらに拍車をかけたのが田沼時代を通して繰り返し引き起こされた天災飢餓の続出だった。 |
幕府財政は、享保の改革での[[年貢]]増徴策によって年貢収入は増加したが、[[宝暦]]年間([[1751年]] - [[1763年]])には頭打ちとなり、再び行き詰まりを見せた。農村では厳しい年貢収奪に苦しみ村で食っていけなくなった貧農は遊民化し江戸などの大都市に流れ込んで無宿者と化した。さらに拍車をかけたのが田沼時代を通して繰り返し引き起こされた天災飢餓の続出だった。 |
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これらに対応すべく田沼意次らの田沼時代の幕臣達は倹約令や経費削減、大奥の縮小、拝借金の制限などの緊縮政策で財政赤字に対処しつつ、発展してきた商品生産・流通に新たな財源を見出し米以外からの税収の確立を試みた。商品生産・流通を掌握し、物価を引き下げるため手工業者の仲間組織を[[株仲間]]として公認・奨励して、そこに[[運上]]・[[冥加]]などを課税した。[[専売制]]実施の足がかりとして、[[座]]と呼ばれる組織を複数設置し、各分野ごとの販売独占権を[[真鍮座]]などの座に与えた |
これらに対応すべく田沼意次らの田沼時代の幕臣達は倹約令や経費削減、大奥の縮小、拝借金の制限などの緊縮政策で財政赤字に対処しつつ、発展してきた商品生産・流通に新たな財源を見出し米以外からの税収の確立を試みた。商品生産・流通を掌握し、物価を引き下げるため手工業者の仲間組織を[[株仲間]]として公認・奨励して、そこに[[運上]]・[[冥加]]などを課税した。[[専売制]]実施の足がかりとして、[[座]]と呼ばれる組織を複数設置し、各分野ごとの販売独占権を[[真鍮座]]などの座に与えた。
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田沼意次の政策は幕府財政を第一に置いたものであったが、それは権力と商人資本の密着度を強め町人と幕府役人との癒着につながった。一方で一般民衆の生活基盤は弱まった。田沼時代の収入増加策の立案、運用は実のところ場当たり的なものも多く、利益よりも弊害の方が目立つようになって撤回に追い込まれるケースも多々あったのである。そして幕府に[[運上金]]、[[冥加金]]の上納を餌に自らの利益をもくろんで献策を行う町人が増え、結果的に幕府も庶民も得にならなかった政策を採用することもあった。そのような町人の献策を幕府内での出世を目当てに採用していく幕府役人が現れた。町人と幕府役人との癒着も目立つようになった。このような風潮は﹁山師、運上﹂という言葉で語られ、利益追求型で場当たり的な面が多く、腐敗も目立ってきた田沼意次の政策に対する批判が強まっていた<ref name=":0">{{Cite book|title=日本近世の歴史4 田沼時代|date=2012/5/1|year=2012|publisher=吉川弘文館|last=|author=藤田覚}}</ref>。
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田沼意次の政策は幕府財政を第一に置いたものであったが、それは権力と商人資本の密着度を強め町人と幕府役人との癒着につながった。一方で一般民衆の生活基盤は弱まった。田沼時代の収入増加策の立案、運用は実のところ場当たり的なものも多く、利益よりも弊害の方が目立つようになって撤回に追い込まれるケースも多々あったのである。そして幕府に[[運上金]]、[[冥加金]]の上納を餌に自らの利益をもくろんで献策を行う町人が増え、結果的に幕府も庶民も得にならなかった政策を採用することもあった。そのような町人の献策を幕府内での出世を目当てに採用していく幕府役人が現れた。町人と幕府役人との癒着も目立つようになった。このような風潮は﹁山師、運上﹂という言葉で語られ、利益追求型で場当たり的な面が多く、腐敗も目立ってきた田沼意次の政策に対する批判が強まっていた<ref name=":0">{{Cite book|title=日本近世の歴史4 田沼時代|date=2012/5/1|year=2012|publisher=吉川弘文館|last=|author=藤田覚}}</ref>。
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大規模な開発策や大胆な金融政策など、開明的で革新的な経済政策と呼ばれる意次の政策は、いわば大山師的な政策だった。この時代、利益追求の場を求め民間から様々な献策が盛んに行われ、民間の利益追求と幕府の御益追求政治とが結びつき、かなり大胆な発想と構想の政策が立案・執行された。同時に田沼時代の代名詞である賄賂の横行や幕府と諸藩との利益の衝突、負担を押し付けられた民衆との間に深刻な矛盾も生じさせた<ref>{{Cite book|和書|title=田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし|date=2007/7/10|publisher=ミネルヴァ書房|pages=253-254|author=藤田 覚}}</ref>。
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大規模な開発策や大胆な金融政策など、開明的で革新的な経済政策と呼ばれる意次の政策は、いわば大山師的な政策だった。この時代、利益追求の場を求め民間から様々な献策が盛んに行われ、民間の利益追求と幕府の御益追求政治とが結びつき、かなり大胆な発想と構想の政策が立案・執行された。同時に田沼時代の代名詞である賄賂の横行や幕府と諸藩との利益の衝突、負担を押し付けられた民衆との間に深刻な矛盾も生じさせた<ref>{{Cite book|和書|title=田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし|date=2007/7/10|publisher=ミネルヴァ書房|pages=253-254|author=藤田 覚}}</ref>。
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最終的に[[天明の大飢饉]]による[[百姓一揆]]や[[打ちこわし]]と田沼を重用した10代[[徳川家治|家治]]の死を契機とした御三家、門閥譜代大名層らによる反田沼活動により田沼は失脚し田沼時代は終了する |
最終的に[[天明の大飢饉]]による[[百姓一揆]]や[[打ちこわし]]と田沼を重用した10代[[徳川家治|家治]]の死を契機とした御三家、門閥譜代大名層らによる反田沼活動により田沼は失脚し田沼時代は終了する。 |
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=== 後期(1780年ごろ - 1850年ごろ) === |
=== 後期(1780年ごろ - 1850年ごろ) === |
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当時、現在のような税を取る対価として行政サービスを施すという考えはなかった。しかし、農村への救済策が不十分な田沼の政策により荒廃の一途を辿っていた農村と、天明の大飢饉の致命的な打撃を受け、このころから不完全ながらも世を経綸し、人民を救うという﹁経世済民﹂の思想にもとづいた行政がうまれようとしていた<ref name=":3">{{Cite book|和書|title=NHKさかのぼり日本史(6) 江戸“天下泰平"の礎|date=2012/1/26|publisher=NHK出版|author=磯田 道史}}</ref>{{rp|page=44}}。
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当時、現在のような税を取る対価として行政サービスを施すという考えはなかった。しかし、農村への救済策が不十分な田沼の政策により荒廃の一途を辿っていた農村と、天明の大飢饉の致命的な打撃を受け、このころから不完全ながらも世を経綸し、人民を救うという﹁経世済民﹂の思想にもとづいた行政がうまれようとしていた<ref name=":3">{{Cite book|和書|title=NHKさかのぼり日本史(6) 江戸“天下泰平"の礎|date=2012/1/26|publisher=NHK出版|author=磯田 道史}}</ref>{{rp|page=44}}。
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[[天明の大飢饉]]直後の時期である﹁寛政の改革﹂は年貢増徴をおこなえる状況ではなく、﹁小農経営を中核とする村の維持と再建﹂に力を注くこととなり、農民の負担を軽減する目的でさまざまな減税・復興政策をおこなった。寛政の改革ではこれまでの収奪一辺倒だった政策を改め、民を救うための政治へと断行した。定信は飢餓対策に取り組み、都市・農村問わず凶作や自然災害に備え米や金銭を貯える備荒貯蓄政策を推進した。そのような増税が厳しい状況であった為、定信は即効性のある厳しい緊縮政策を実行し財政再建に努めることとなる。最終的に6年たった定信失脚の |
[[天明の大飢饉]]直後の時期である﹁寛政の改革﹂は年貢増徴をおこなえる状況ではなく、﹁小農経営を中核とする村の維持と再建﹂に力を注くこととなり、農民の負担を軽減する目的でさまざまな減税・復興政策をおこなった。寛政の改革ではこれまでの収奪一辺倒だった政策を改め、民を救うための政治へと断行した。定信は飢餓対策に取り組み、都市・農村問わず凶作や自然災害に備え米や金銭を貯える備荒貯蓄政策を推進した。そのような増税が厳しい状況であった為、定信は即効性のある厳しい緊縮政策を実行し財政再建に努めることとなる。最終的に6年たった定信失脚の頃には備蓄金も20万両程に貯蓄することができており、幕府の赤字財政は黒字となっていた。しかし、倹約令や風俗統制令を頻発したために江戸が不景気になり、市民から強い反発を受けたため、各種の法令を乱発することになった<ref name=":62">{{Cite book|和書|title=﹃松平定信﹄︿人物叢書﹀|date=2012/9/1|publisher=吉川弘文館|author=高澤憲治|editor=日本歴史学会}}</ref>{{rp|page=102}}。
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通説では松平定信は田沼意次の経済政策をことごとく覆したとされるが、近年ではむしろ寛政の改革には田沼政権との連続面があったと指摘される<ref name=":02">{{Cite book|title=通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで|date=2016|year=|publisher=中公新書|last=高木 久史}}</ref>。幕府が改革において講じた経済政策は田沼時代のものをほぼ全て継承しており、株仲間や冥加金、南鐐二朱判、公金貸付など、実は田沼政権のそれを継承したものが多かった<ref name=":6">{{Cite book|和書|title=﹃松平定信﹄︿人物叢書﹀|date=2012/9/1|publisher=吉川弘文館|author=高澤憲治|editor=日本歴史学会}}</ref>{{rp|page=90}}。
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通説では松平定信は田沼意次の経済政策をことごとく覆したとされるが、近年ではむしろ寛政の改革には田沼政権との連続面があったと指摘される<ref name=":02">{{Cite book|title=通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで|date=2016|year=|publisher=中公新書|last=高木 久史}}</ref>。幕府が改革において講じた経済政策は田沼時代のものをほぼ全て継承しており、株仲間や冥加金、南鐐二朱判、公金貸付など、実は田沼政権のそれを継承したものが多かった<ref name=":6">{{Cite book|和書|title=﹃松平定信﹄︿人物叢書﹀|date=2012/9/1|publisher=吉川弘文館|author=高澤憲治|editor=日本歴史学会}}</ref>{{rp|page=90}}。
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松平定信の辞任後{{Efn|幕府の反対により典仁親王の尊号宣下を見合わせた﹁[[尊号一件]]﹂で寛政5年︵1793年︶に辞職する。}}、[[文化 (元号)|文化]]・[[文政]]時代から[[天保]]年間にかけての約50年間、政治の実権は11代将軍[[徳川家斉]]が握った。家斉は将軍職を子の[[徳川家慶|家慶]]に譲ったあとも実権を握り続けたため、この政治は﹁[[大御所 (江戸時代)|大御所]]政治﹂と呼ばれている。家斉の治世は、当初は質素倹約の政策が引き継がれたが、貨幣悪鋳による[[出目]]の収益で幕府財政がいったん潤うと、[[大奥]]での華美な生活に流れ、幕政は放漫経営に陥った。上述の異国船打払令も家斉時代に発布されたものである。一方で、商人の経済活動が活発化し、都市を中心に庶民文化︵[[化政文化]]︶が栄えた。しかし、農村では貧富の差が拡大して各地で百姓一揆や村方騒動が頻発し、治安も悪化した。[[1805年]]︵文化2年︶には[[関東取締出役]]が置かれた。水野忠邦はこれまでの世の中になかった変化の兆しを感じていた。各地の農民や町人による一揆、打ちこわし、強訴は例年起こっていた。文政6年︵1823年︶には摂津・河内・和泉1,307か村による国訴は、綿の自由売りさばき、菜種の自由売りさばきを要求して、空前の規模の訴えとなり、これまでの経済の有り様を変えるものであった<ref>藤沢周平﹃藤沢周平全集 第17巻﹄文藝春秋、 1993年、420ページ</ref>。
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松平定信の辞任後{{Efn|幕府の反対により典仁親王の尊号宣下を見合わせた﹁[[尊号一件]]﹂で寛政5年︵1793年︶に辞職する。}}、[[文化 (元号)|文化]]・[[文政]]時代から[[天保]]年間にかけての約50年間、政治の実権は11代将軍[[徳川家斉]]が握った。家斉は将軍職を子の[[徳川家慶|家慶]]に譲ったあとも実権を握り続けたため、この政治は﹁[[大御所 (江戸時代)|大御所]]政治﹂と呼ばれている。家斉の治世は、当初は質素倹約の政策が引き継がれたが、貨幣悪鋳による[[出目]]の収益で幕府財政がいったん潤うと、[[大奥]]での華美な生活に流れ、幕政は放漫経営に陥った。上述の異国船打払令も家斉時代に発布されたものである。一方で、商人の経済活動が活発化し、都市を中心に庶民文化︵[[化政文化]]︶が栄えた。しかし、農村では貧富の差が拡大して各地で百姓一揆や村方騒動が頻発し、治安も悪化した。[[1805年]]︵文化2年︶には[[関東取締出役]]が置かれた。水野忠邦はこれまでの世の中になかった変化の兆しを感じていた。各地の農民や町人による一揆、打ちこわし、強訴は例年起こっていた。文政6年︵1823年︶には摂津・河内・和泉1,307か村による国訴は、綿の自由売りさばき、菜種の自由売りさばきを要求して、空前の規模の訴えとなり、これまでの経済の有り様を変えるものであった<ref>藤沢周平﹃藤沢周平全集 第17巻﹄文藝春秋、 1993年、420ページ</ref>。
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発展し続ける経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府︵各藩︶との構造的な軋轢を内包しつつも、﹁泰平の世﹂を謳歌していた江戸時代も[[19世紀]]を迎えると、急速に[[制度疲労]]による硬直化が目立ち始める。また、このころより昭和の前半までは国内が |
発展し続ける経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府︵各藩︶との構造的な軋轢を内包しつつも、﹁泰平の世﹂を謳歌していた江戸時代も[[19世紀]]を迎えると、急速に[[制度疲労]]による硬直化が目立ち始める。また、このころより昭和の前半までは国内が小氷河期に入り、[[1822年]]︵[[文政]]5年︶には[[隅田川]]が凍結している。
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それに加えて、18世紀後半の[[産業革命]]によって[[欧米]]諸国は急速に[[近代化]]しており、それぞれの政治経済的事情から[[大航海時代]]の単なる﹁冒険﹂ではなく、自らの産業のために[[資源]]と[[市場]]を求めて世界各地に[[植民地]]獲得のための進出を始めた。[[極東]]地域、日本近海にも欧米の船が出没する回数が多くなった。たとえば、明和8年︵1771年︶にペニュフスキー、泡・奄美大島に漂流、安永7年︵1778年︶ロシア船、蝦夷地厚岸に来航して松前藩に通商を求める、寛政4年︵1792年︶ロシア使節ラクスマン、伊勢の漂流民大黒屋光太夫等を護送して根室に来航し、通商を求めるが、幕府は日本との外交ルートを模索する外国使節や外国船の接触に対し、[[1825年]]︵文政8年︶には[[異国船打払令]]を実行するなど、鎖国政策の継続を行った。文政2年︵1819年︶、幕府は、浦賀奉行を2名に増員した |
それに加えて、18世紀後半の[[産業革命]]によって[[欧米]]諸国は急速に[[近代化]]しており、それぞれの政治経済的事情から[[大航海時代]]の単なる﹁冒険﹂ではなく、自らの産業のために[[資源]]と[[市場]]を求めて世界各地に[[植民地]]獲得のための進出を始めた。[[極東]]地域、日本近海にも欧米の船が出没する回数が多くなった。たとえば、明和8年︵1771年︶にペニュフスキー、泡・奄美大島に漂流、安永7年︵1778年︶ロシア船、蝦夷地厚岸に来航して松前藩に通商を求める、寛政4年︵1792年︶ロシア使節ラクスマン、伊勢の漂流民大黒屋光太夫等を護送して根室に来航し、通商を求めるが、幕府は日本との外交ルートを模索する外国使節や外国船の接触に対し、[[1825年]]︵文政8年︶には[[異国船打払令]]を実行するなど、鎖国政策の継続を行った。文政2年︵1819年︶、幕府は、浦賀奉行を2名に増員した。
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==== 動乱の天保期 ==== |
==== 動乱の天保期 ==== |
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{{Wikisource|浮世の有様}} |
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{{関連記事|天保の大飢饉|天保の改革}} |
{{関連記事|天保の大飢饉|天保の改革}} |
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[[ファイル:Mizuno Tadakuni.jpg|left|thumb|250px|[[水野忠邦]]]] |
[[ファイル:Mizuno Tadakuni.jpg|left|thumb|250px|[[水野忠邦]]]] |
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[[ファイル:Haiguotuzhi.jpg|thumb|right|120px|『海国図志』]] |
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中国は、アヘン戦争の敗北により、1843年︵天保14年︶には、広州・厦門・上海・寧波・福州の5港を開港し、翌1844年︵天保15年︶7月には清米修好通商協定︵[[望厦条約]]︶締結、10月には清仏通商協定︵[[黄埔条約]]︶を締結している。一方、米国は通商を拡大するため、日本・朝鮮との国交を樹立することを目的に使節を派遣することを決めた。1846年︵弘化3年︶閏5月27日、東インド艦隊司令長官[[ジェームズ・ビドル|ビッドル]]は2隻の軍艦を率いて江戸湾に入った。浦賀奉行の下役との交渉で、日本政府︵幕府︶は貿易のため開港する用意がないことを確かめて6月7日に退去した |
中国は、アヘン戦争の敗北により、1843年︵天保14年︶には、広州・厦門・上海・寧波・福州の5港を開港し、翌1844年︵天保15年︶7月には清米修好通商協定︵[[望厦条約]]︶締結、10月には清仏通商協定︵[[黄埔条約]]︶を締結している。一方、米国は通商を拡大するため、日本・朝鮮との国交を樹立することを目的に使節を派遣することを決めた。1846年︵弘化3年︶閏5月27日、東インド艦隊司令長官[[ジェームズ・ビドル|ビッドル]]は2隻の軍艦を率いて江戸湾に入った。浦賀奉行の下役との交渉で、日本政府︵幕府︶は貿易のため開港する用意がないことを確かめて6月7日に退去した。
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こうしたなか、[[薩摩藩]]や[[長州藩]]など「[[雄藩]]」と呼ばれる有力藩では財政改革に成功し、幕末期の政局で強い発言力を持つことになった。 |
こうしたなか、[[薩摩藩]]や[[長州藩]]など「[[雄藩]]」と呼ばれる有力藩では財政改革に成功し、幕末期の政局で強い発言力を持つことになった。 |
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==== 開国・日米和親条約 ==== |
==== 開国・日米和親条約 ==== |
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[[ファイル:Commodore Matthew Calbraith Perry.jpg|180px|left|thumb|[[マシュー・ペリー|ペリー]]]] |
[[ファイル:Commodore Matthew Calbraith Perry.jpg|180px|left|thumb|[[マシュー・ペリー|ペリー]]]] |
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[[1853年]]︵嘉永6年︶、長崎の出島への折衝のみを前提としてきた幕府のこれまでの方針に反して、江戸湾の目と鼻の先である浦賀に[[黒船]]で強行上陸した[[アメリカ合衆国]]の[[マシュー・ペリー]]と交渉した幕府は、翌年の来航時には江戸湾への強行突入の構えを見せたペリー艦隊の威力に屈し、[[日米和親条約]]を締結、その後、米国の例に倣って高圧的に接触してきた西欧諸国ともうやむやのうちに同様の条約を締結、事実上﹁[[開国#日本の開国|開国]]﹂しなければならないこととなった。同年6月22日、12代将軍・ |
[[1853年]]︵嘉永6年︶、長崎の出島への折衝のみを前提としてきた幕府のこれまでの方針に反して、江戸湾の目と鼻の先である浦賀に[[黒船]]で強行上陸した[[アメリカ合衆国]]の[[マシュー・ペリー]]と交渉した幕府は、翌年の来航時には江戸湾への強行突入の構えを見せたペリー艦隊の威力に屈し、[[日米和親条約]]を締結、その後、米国の例に倣って高圧的に接触してきた西欧諸国ともうやむやのうちに同様の条約を締結、事実上﹁[[開国#日本の開国|開国]]﹂しなければならないこととなった。同年6月22日、12代将軍・家慶が﹁今後の政治は徳川斉昭と阿部正弘に委ねる﹂と言い残して61歳で亡くなった。同年7月1日、幕府、国書を諸大名に示し意見を問い、3日にはお目見え以上の幕吏にも意見を問うた。260年間﹁知らしむべからず、由らしむべし﹂を大法則としてきた幕府にとっては大方向転換であった<ref>半藤一利﹃ 幕末史 ﹄新潮社、 2008年、 50-51ページ</ref>。
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開国後は日本のどの沿岸・海岸に外国船が来航するかも知れない事態となり、1853年︵嘉永6年︶8月から江戸湾のお台場建設を始めた。そして、同年9月15日、幕府は、大型船建造を許可することになった{{Efn|8年後の1861年、幕府は庶民の大船建造・外国船購入を許可する。}}。さらにオランダに軍艦・鉄砲・兵書などを注文した。
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開国後は日本のどの沿岸・海岸に外国船が来航するかも知れない事態となり、1853年︵嘉永6年︶8月から江戸湾のお台場建設を始めた。そして、同年9月15日、幕府は、大型船建造を許可することになった{{Efn|8年後の1861年、幕府は庶民の大船建造・外国船購入を許可する。}}。さらにオランダに軍艦・鉄砲・兵書などを注文した。
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[[ファイル:Ii_Naosuke_Portrait_by_Ii_Naoyasu.jpg|200px|right|thumb|[[井伊直弼]]]] |
[[ファイル:Ii_Naosuke_Portrait_by_Ii_Naoyasu.jpg|200px|right|thumb|[[井伊直弼]]]] |
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その後、さらに1858年︵安政5年︶4月、[[井伊直弼]]が大老に就任する。米・蘭・露・英・仏の5か国と修好通商条約と貿易章程、いわゆる[[安政五カ国条約]]︵[[不平等条約]]︶を締結し、日本の経済は大打撃を受けた。8月、 |
その後、さらに1858年︵安政5年︶4月、[[井伊直弼]]が大老に就任する。米・蘭・露・英・仏の5か国と修好通商条約と貿易章程、いわゆる[[安政五カ国条約]]︵[[不平等条約]]︶を締結し、日本の経済は大打撃を受けた。8月、外国奉行を設置する。同月孝明天皇条約締結に不満の勅諚︵戊午の密勅︶を水戸藩などに下す。また、幕府にも下す。この年の7月に13代・家定が没し、10月25日に14代・家茂が征夷大将軍・内大臣に任ぜられる。翌年6月から横浜・長崎・箱館の3港で露・仏・英・蘭・米5か国との自由貿易が始まった。取引は、日本内地での活動が条約で禁止されていたため、外国人が居住・営業を認められていた居留地で行われた。輸出の中心は生糸・茶であった{{Efn|第1位の生糸が輸出額の50~80%、第2位の茶が5~17%を占めていた。}}。輸出の増大は国内の物資の不足を招き、価格を高騰させた。他方、機械性の大工業で生産された安価な欧米の綿織物や毛織物などが流入してきた。横浜港で輸出が94.5パーセント、輸出が86.8パーセント行われ、相手国では英が88.2パーセント、仏が9.6パーセント、ついで米、蘭への輸出であり、輸入では英が88.7パーセントを占め次いで蘭、仏、米、プロシア、露へであり、輸出入とも英との取引が主であった。また、国内の銀価格に対する金価格が欧米より低かったため、おびただしい量の金貨が海外へ流失した。こうして開港による経済的変動は下層の農民や都市民の没落に拍車をかけていった<ref>宮地正人監修、大日方純夫・山田朗・山田敬男・吉田裕﹃日本近現代史を読む﹄新日本出版社、 2010年、17ページ</ref>。
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下級武士や[[知識人]]階級を中心に、「鎖国は日本開闢以来の祖法」であるという説<!--誰の説?-->に反したとされ、その外交政策に猛烈に反発する世論が沸き起こり、「[[攘夷]]」運動として朝野を圧した。[[世論]]が沸き起こること自体、[[幕藩体制]]が堅牢なころには起こり得ないことであったが、この「世論」の精神的支柱として、[[京都]]の[[天皇]]=帝(みかど)の存在がクローズアップされる。このため永い間、幕府の方針もあり、政治的には静かな都として過ごしてきた京都がにわかに騒然となっていき、有名な「[[幕末]]の騒乱」が巻き起こる。 |
下級武士や[[知識人]]階級を中心に、「鎖国は日本開闢以来の祖法」であるという説<!--誰の説?-->に反したとされ、その外交政策に猛烈に反発する世論が沸き起こり、「[[攘夷]]」運動として朝野を圧した。[[世論]]が沸き起こること自体、[[幕藩体制]]が堅牢なころには起こり得ないことであったが、この「世論」の精神的支柱として、[[京都]]の[[天皇]]=帝(みかど)の存在がクローズアップされる。このため永い間、幕府の方針もあり、政治的には静かな都として過ごしてきた京都がにわかに騒然となっていき、有名な「[[幕末]]の騒乱」が巻き起こる。 |
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==== 文久の国内政治 ==== |
==== 文久の国内政治 ==== |
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[[ファイル:Tokugawa Iemochi by Kawamura Kiyoo (Tokugawa Memorial Foundation).jpg|180px|left|thumb|[[徳川家茂]]]]一時は大老・[[井伊直弼]]の強行弾圧路線︵[[安政の大獄]]︶もあり、不満﹁世論﹂も沈静化するかに思われたが、1860年︵安政7年︶3月3日の[[桜田門外の変]]後、 |
[[ファイル:Tokugawa Iemochi by Kawamura Kiyoo (Tokugawa Memorial Foundation).jpg|180px|left|thumb|[[徳川家茂]]]] |
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一時は大老・[[井伊直弼]]の強行弾圧路線([[安政の大獄]])もあり、不満「世論」も沈静化するかに思われたが、1860年(安政7年)3月3日の[[桜田門外の変]]後、将軍後継問題で幕府が揺れる間に事態は急速に変化する。 |
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これより先に1860年︵安政7年︶1月には[[勝海舟]]らが[[咸臨丸]]で米国に向かっている。1862年︵文久2年︶1月15日、老中・[[安藤信正]]が水戸浪士ら6人に襲われ負傷する[[坂下門外の変]]が起こっている。同年2月11日、将軍・家茂と |
これより先に1860年︵安政7年︶1月には[[勝海舟]]らが[[咸臨丸]]で米国に向かっている。1862年︵文久2年︶1月15日、老中・[[安藤信正]]が水戸浪士ら6人に襲われ負傷する[[坂下門外の変]]が起こっている。同年2月11日、将軍・家茂と和宮との婚儀が江戸城で盛大に挙行される。同年7月6日、幕府は徳川慶喜を将軍後見職とし、同月9日に松平慶永を政事総裁職、閏8月1日に[[松平容保]]を[[京都守護職]]に就ける。先の7月には諸藩の艦船購入を許している。一方、開国で開市・開港が続くなかで、浪士などにより1861年︵文久元年︶と翌年に、第1次・2次の[[東禅寺事件]]が起こっている。[[薩摩藩]]では、[[島津斉彬]]が没したあと、後を継いだ藩主[[島津忠義]]の父である[[島津久光]]が[[長州藩]]を牽制すべく[[公武合体運動]]を展開し、同年4月藩内の攘夷派を粛清︵[[寺田屋事件|寺田屋騒動]]︶し、幕府に改革を要求した︵[[文久の改革]]︶。1862年︵文久2年︶、島津久光は江戸から薩摩への帰路、[[生麦事件]]を引き起こし{{Efn|1863年︵文久3年︶11月、薩摩藩は英公使に10万ドルを交付して[[生麦事件]]を解決している。}}、翌年[[薩英戦争]]で攘夷の無謀さを悟ることになる。
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1862年︵文久2年︶閏8月、幕府 |
1862年︵文久2年︶閏8月、幕府参勤交代制度を緩和し、3年目ごとに1回、100日限りの在府とし、自国警衛を強化させることを目的とした{{Efn|嫡子の在国が許された。大名の妻子に対しての帰国が許可された。}}。同年9月7日、明年2月をもって将軍上洛する旨が公布された。[[公武合体]]の強化策である。同年12月、幕府は兵制度を制定した{{Efn|旗本に対し、3000石に付き10人、1000石に付き3人、500石に付き1人の人提出を、500石以下は金納にし、この人数で歩兵組を編成した{{Sfn|宮地|2012|p=321}}。}}。
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尊皇攘夷派と公武合体派が藩政の主導権を争っていた長州藩では、尊王攘夷派が主導権を握るようになり、京都公家と結託し幕府に攘夷の実行を迫った{{Efn|長州が公家たちを懐柔し、天皇の詔勅であるといってつぎつぎにいろいろな命令を出すと、天皇には覚えがないと言った「偽詔勅事件」が次々に起こってくる。これを「下より出る叡慮」ともいう<ref>半藤一利『 幕末史』新潮社、 2008年、 157ページ</ref>。}}。その結果、幕府は[[1863年]](文久3年)5月10日を'''攘夷実行の日'''とすることを約束した{{Efn|全大名に命じたが、実行した藩はほとんどなかった。}}。長州藩では下関海峡を通る外国船を砲撃した{{Efn|[[馬関海峡]]を航行中の外国船(米船ペムブローク号、300トン)を自藩製の大砲で攻撃して「攘夷」を決行した。[[庚申丸]]から砲撃し、たまたま馬関に向かっていた[[癸亥丸]]も砲撃に加わった。しかし、米船は全速力で逃げ、両船は速力の差が明白すぎて、追跡できなかった。意気の上がった長州側は、5月23日仏軍艦キンシャン号を、26日には蘭艦メジュサ号を砲撃した{{Sfn|田中|2007|p=46}}。}}。ところが長州藩では、外国船砲撃の翌日、 |
尊皇攘夷派と公武合体派が藩政の主導権を争っていた長州藩では、尊王攘夷派が主導権を握るようになり、京都公家と結託し幕府に攘夷の実行を迫った{{Efn|長州が公家たちを懐柔し、天皇の詔勅であるといってつぎつぎにいろいろな命令を出すと、天皇には覚えがないと言った「偽詔勅事件」が次々に起こってくる。これを「下より出る叡慮」ともいう<ref>半藤一利『 幕末史』新潮社、 2008年、 157ページ</ref>。}}。その結果、幕府は[[1863年]](文久3年)5月10日を'''攘夷実行の日'''とすることを約束した{{Efn|全大名に命じたが、実行した藩はほとんどなかった。}}。長州藩では下関海峡を通る外国船を砲撃した{{Efn|[[馬関海峡]]を航行中の外国船(米船ペムブローク号、300トン)を自藩製の大砲で攻撃して「攘夷」を決行した。[[庚申丸]]から砲撃し、たまたま馬関に向かっていた[[癸亥丸]]も砲撃に加わった。しかし、米船は全速力で逃げ、両船は速力の差が明白すぎて、追跡できなかった。意気の上がった長州側は、5月23日仏軍艦キンシャン号を、26日には蘭艦メジュサ号を砲撃した{{Sfn|田中|2007|p=46}}。}}。ところが長州藩では、外国船砲撃の翌日、井上聞多・野村弥吉・遠藤謹助・伊藤俊輔・山尾庸三らを英艦キロセッキ号で、12日に横浜からイギリスに向けて出港させている。この計画の指導者は[[周布政之助]]で、攘夷のあとには各国との交流・交易の日が必然的にやってくることを見越し、西洋事情に通じておかねば日本の一大不利益と考えて、彼らを渡航させたのである{{Sfn|田中|2007|pp=46-47}}{{Efn|3年後の1866年(慶応2年)4月7日には、幕府、学術・商業のための海外渡航を許可している。}}。 |
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これらの攘夷実行に対して、京都では会津・薩摩藩らの勢力によって[[1863年]]︵文久3年︶8月18日、尊王攘夷派の公卿を京都から排除した。[[八月十八日の政変]]である。翌日、[[三条実美]]らの[[七卿落ち]]。長州藩主・ |
これらの攘夷実行に対して、京都では会津・薩摩藩らの勢力によって[[1863年]](文久3年)8月18日、尊王攘夷派の公卿を京都から排除した。[[八月十八日の政変]]である。翌日、[[三条実美]]らの[[七卿落ち]]。長州藩主・毛利慶親の世子・定弘が都落ちした三条実美たちを擁して上京してくると言う風評が京都では広まっていた。その目的は中川宮・五摂家筆頭の近衛家・会津藩・薩摩藩などの排除であった。[[1864年]](元治元年)6月5日、[[新撰組]]が[[池田屋事件|池田屋]]を襲撃した。6月24日、久坂玄瑞が藩兵を率いて[[天王山]]に陣取り、27日には来島又兵衛率いる藩兵が[[天龍寺]]に入った。7月19日、長州藩は京都諸門で幕軍(薩摩藩・[[会津藩]]・[[桑名藩]])と交戦する([[禁門の変]])。同年11月、長州藩は禁門の変責任者3家老に自刃を命令する。 |
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==== 第一次・第二次長州征伐、兵庫開港問題 ==== |
==== 第一次・第二次長州征伐、兵庫開港問題 ==== |
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[[1865年]]︵元治2年︶[[5月16日]]、将軍江戸を出立し、閏5月22日に入京・参内、同25日大坂城に入城した。同年9月15日、将軍は大阪を発ち同月16日入京し、長州追討の勅許を奏請した。
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[[1865年]]︵元治2年︶[[5月16日]]、将軍江戸を出立し、閏5月22日に入京・参内、同25日大坂城に入城した。同年9月15日、将軍は大阪を発ち同月16日入京し、長州追討の勅許を奏請した。
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このような情勢下、[[1866年]]︵慶応2年︶1月21日、薩摩、長州ら政争を繰り返していた西国雄藩は[[坂本龍馬]]、[[中岡慎太郎]]の周旋により、西郷と桂との間で口頭の抗幕同盟が密約︵[[薩長同盟]]︶された。1866年︵慶応2年︶6月7日、幕府は[[第二次長州征伐]]を決行するが、 |
このような情勢下、[[1866年]]︵慶応2年︶1月21日、薩摩、長州ら政争を繰り返していた西国雄藩は[[坂本龍馬]]、[[中岡慎太郎]]の周旋により、西郷と桂との間で口頭の抗幕同盟が密約︵[[薩長同盟]]︶された。1866年︵慶応2年︶6月7日、幕府は[[第二次長州征伐]]を決行するが、高杉晋作の組織した[[奇兵隊]]などの士庶民混成軍の活躍に阻まれ、また、総指揮者である将軍・[[徳川家茂]]が7月20日に[[大坂城]]で病没するなどもあり、8月21日、将軍死去のため征長停止の沙汰書が出され、9月2日に幕長休戦を協定する。12月25日、天皇が疱瘡のため36歳で没する。[[諡]]︵おくりな︶を孝明天皇と定められた。
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[[ファイル:Tokugawa yoshinobu.jpg|190px|left|thumb|[[徳川慶喜]]]] |
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==== 大政奉還 、王政復古 ==== |
==== 大政奉還 、王政復古 ==== |
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{{see also|王政復古 (日本)|戊辰戦争|明治維新}} |
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[[1867年]]︵慶応3年︶1月9日、[[明治天皇]]が[[践祚]]した。親長州派・[[中山忠能]]の外祖父である中山忠能は、禁門の変後に出仕・他人面会を禁じられた。この関係だけで否処罰公家たちの復権が行われたわけではない。1867年︵慶応3年︶1月15日に有栖川幟仁親王と元関白九条尚忠、同月25日に有栖川熾仁︵たるひと︶親王と中山忠能が宥免された{{Sfn|宮地|2012|p=40}}。5月21日、薩摩の西郷と長州の桂との間で、﹁倒幕﹂の密約が交わされた{{Efn|6ヶ条にわたる密約、協定は主として、第二次征長について、薩摩が長州藩のために政治的に援助することを決めたものだった。5条には、幕府が、朝廷を擁し正義をこばみ、周旋尽力の道を遮るときは、さつまはばくふと﹁遂に決戦に及び候ほかこれ無きこと﹂という文句を入れた。中味は防衛的な同盟であったが、この中では場合によっては倒幕もあり得ることを初めて示した<ref>藤沢周平﹃藤沢周平全集 第7巻﹄文藝春秋、 1993年、77ページ</ref>。}}。6月、坂本龍馬が、今後の政体構想の基本となる案を考え出した。これは、のちに[[船中八策]]と言われるものである。
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[[ファイル:Taisehokan.jpg|210px|right|thumb|「[[大政奉還]]図」 [[邨田丹陵]] 筆]] |
[[ファイル:Taisehokan.jpg|210px|right|thumb|「[[大政奉還]]図」 [[邨田丹陵]] 筆]] |
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同年8月、東海地方に伊勢神宮のお札が降ったことから喜んだ民衆は仮装して[[ええじゃないか]]と謳いながら乱舞した。これは、夏から秋にかけて、近畿・四国から関東に及ぶ広範囲な地域に波及した。このさなかの[[1867年]][[11月9日]]︵慶応3年10月14日︶に、15代将軍・[[徳川慶喜]]は起死回生の策として[[大政奉還]]を上奏し、15日、勅許の沙汰書を得る。そして24日、将軍職を辞した。武力によって完全に江戸幕府を倒そうとしていた倒幕勢力は攻撃の名目を一時的に失ったため、先手を取られた形となったが、薩長をはじめとする倒幕派は大政奉還の同日に[[倒幕の密勅]]を獲得するなど、あくまで幕府を滅亡させる姿勢を崩さなかった。[[1868年]][[1月3日]]︵慶応3年12月9日︶には |
同年8月、東海地方に伊勢神宮のお札が降ったことから喜んだ民衆は仮装して[[ええじゃないか]]と謳いながら乱舞した。これは、夏から秋にかけて、近畿・四国から関東に及ぶ広範囲な地域に波及した。このさなかの[[1867年]][[11月9日]](慶応3年10月14日)に、15代将軍・[[徳川慶喜]]は起死回生の策として[[大政奉還]]を上奏し、15日、勅許の沙汰書を得る。そして24日、将軍職を辞した。武力によって完全に江戸幕府を倒そうとしていた倒幕勢力は攻撃の名目を一時的に失ったため、先手を取られた形となったが、薩長をはじめとする倒幕派は大政奉還の同日に[[倒幕の密勅]]を獲得するなど、あくまで幕府を滅亡させる姿勢を崩さなかった。[[1868年]][[1月3日]](慶応3年12月9日)には岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通と結んで[[王政復古の大号令]]が発せられ、摂関・将軍を廃し三職が設置される[[太政官#明治の太政官制|太政官]]制度が発足した。この日の[[小御所会議]]で慶喜に対して内大臣の辞職と領土の一部献上が命令され、新政府と旧幕府の対立は明らかとなり、この号令のもとに、徳川幕府討伐が進んでいった。 |
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慶応4年1月3、4日の[[鳥羽・伏見の戦い]]を機に[[戊辰戦争]]が勃発。そして、[[1868年]][[5月3日]]︵慶応4年/明治元年4月11日︶、[[勝海舟]]と[[西郷隆盛]]の交渉の結果、[[江戸開城|江戸城が新政府軍に明け渡され]]、慶喜は水戸に蟄居したことにより、江戸幕府は名実ともに消滅した。慶応4年1月15日、[[政体書|3職7科の制]]を定める。3月14日、[[五箇条の御誓文|五か条の誓文]]、﹁ |
慶応4年1月3、4日の[[鳥羽・伏見の戦い]]を機に[[戊辰戦争]]が勃発。そして、[[1868年]][[5月3日]]︵慶応4年/明治元年4月11日︶、[[勝海舟]]と[[西郷隆盛]]の交渉の結果、[[江戸開城|江戸城が新政府軍に明け渡され]]、慶喜は水戸に蟄居したことにより、江戸幕府は名実ともに消滅した。慶応4年1月15日、[[政体書|3職7科の制]]を定める。3月14日、[[五箇条の御誓文|五か条の誓文]]、﹁宸翰﹂{{Efn|1868年︵慶応4年︶3月14日、明治天皇は、京都御所の紫宸殿に於いて、神前で五つのことを誓った。このとき御誓文とともに、明治天皇自らの信念の発表があった。これは﹁宸翰﹂︵しんかん︶と呼ばれた。︵天皇このとき数えで16歳、満で15歳︶書いたのは木戸孝允と言われている。
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「宸翰 |
「宸翰 |
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:往昔列祖万機を親(みずか)らし不臣(ふしん)のものあればみずから将としてこれを征したまい、朝廷の政すべて簡易にしてかくのごとく尊重ならざるゆえ、君臣相したしみて上下相愛し徳沢(とくたく)天下にあまねく国威海外に耀きしなり。 |
:往昔列祖万機を親(みずか)らし不臣(ふしん)のものあればみずから将としてこれを征したまい、朝廷の政すべて簡易にしてかくのごとく尊重ならざるゆえ、君臣相したしみて上下相愛し徳沢(とくたく)天下にあまねく国威海外に耀きしなり。 |
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:しかるに近来宇内大いに開け各国四方に相雄飛するの時にあたり、ひとり我国のみ世界の形勢にうとく、旧習を固守し、一新の効を計らず、朕いたずらに九重中に安居し、一日の安きをぬすみ、百年の憂いを忘るるときはついに各国の凌侮を受け、上に列祖をはずかしめ奉り、下は億兆を苦しめんことをおそる。ゆえに朕ここに百巻諸侯と広く相誓い列祖の御偉業を継述し、一身の艱難辛苦を問わず、みずから四方を経営し汝億兆を安撫し、ついには万里の波濤を開拓し、国威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置かんことを欲す。汝億兆旧来の陋習になれ、尊重のみを朝廷のこととなし、神州の危急を知らず。朕一たび足を挙げれば非常に驚き、種々の疑惑を生じ、万口紛紜として朕が志をなさざらしむる時は、これ朕をして君たる道を失わしむるのみならず、従って列祖の天下を失わしむるなり。 |
:しかるに近来宇内大いに開け各国四方に相雄飛するの時にあたり、ひとり我国のみ世界の形勢にうとく、旧習を固守し、一新の効を計らず、朕いたずらに九重中に安居し、一日の安きをぬすみ、百年の憂いを忘るるときはついに各国の凌侮を受け、上に列祖をはずかしめ奉り、下は億兆を苦しめんことをおそる。ゆえに朕ここに百巻諸侯と広く相誓い列祖の御偉業を継述し、一身の艱難辛苦を問わず、みずから四方を経営し汝億兆を安撫し、ついには万里の波濤を開拓し、国威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置かんことを欲す。汝億兆旧来の陋習になれ、尊重のみを朝廷のこととなし、神州の危急を知らず。朕一たび足を挙げれば非常に驚き、種々の疑惑を生じ、万口紛紜として朕が志をなさざらしむる時は、これ朕をして君たる道を失わしむるのみならず、従って列祖の天下を失わしむるなり。 |
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:汝億兆よくよく朕が志を体認し、相率いて私見を去り、公議をとり、朕が業を助けて神州を保全し、列祖の神霊を慰し奉らしめば生前の幸甚ならん。﹂{{SquoteF}}<ref>鶴見俊輔﹃ 御一新の嵐 ﹄ <鶴見俊輔集・続-2> 筑摩書房、 2001年、 152-153ページ</ref>}}、同15日、[[五榜の掲示|五榜の提示]]など新政府の施策が次々に実施されていった。1868年︵明治元年︶9月8日、[[一世一元の制]]を定められたうえで、 |
:汝億兆よくよく朕が志を体認し、相率いて私見を去り、公議をとり、朕が業を助けて神州を保全し、列祖の神霊を慰し奉らしめば生前の幸甚ならん。」{{SquoteF}}<ref>鶴見俊輔『 御一新の嵐 』 <鶴見俊輔集・続-2> 筑摩書房、 2001年、 152-153ページ</ref>}}、同15日、[[五榜の掲示|五榜の提示]]など新政府の施策が次々に実施されていった。1868年(明治元年)9月8日、[[一世一元の制]]を定められたうえで、明治と改元された。以降は[[明治時代]]と呼ばれる。 |
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江戸幕府が崩壊したあとも、一部の幕府残存兵や親幕府大名が[[関東地方]]および[[東北地方]]︵5月3日[[奥羽越列藩同盟]]成立︶などで抵抗したが、[[1869年]][[5月17日]]の[[五稜郭]]の陥落により︵[[箱館戦争]]︶、 |
江戸幕府が崩壊したあとも、一部の幕府残存兵や親幕府大名が[[関東地方]]および[[東北地方]]︵5月3日[[奥羽越列藩同盟]]成立︶などで抵抗したが、[[1869年]][[5月17日]]の[[五稜郭]]の陥落により︵[[箱館戦争]]︶、戊辰戦争は終結。これによって7世紀以上にわたって続いた武士の時代が名実ともに終了した。武士は[[華族]]や[[士族]]といった称号を獲得したものの、特権や禄を失い、[[士族反乱|反乱もすべて失敗したことにより]]、一般の国民に吸収されていった。
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== 政治制度 == |
== 政治制度 == |
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幕府は江戸、[[大坂]]、[[京都]]に[[町奉行]]・[[所司代]]を置き重視したが、そのほか[[伊豆国|伊豆]]・[[日田市|日田]]・[[長崎市|長崎]]・[[新潟県|新潟]]・[[飛騨国|飛騨]]や重要な[[鉱山]]に[[代官]]を配置し支配した。これらの支配力は単に一都市に限らず、[[京都所司代]]は[[山城国|山城]]・[[丹波国|丹波]]・[[近江国|近江]]など、[[大坂町奉行]]は[[西日本]]諸国の[[天領]]の[[采配]]がそれぞれ許されるなど、[[管轄]]地の諸大名を監察する役目もあった︵[[京都所司代]]は[[朝廷 (日本)|朝廷]]も監視していた︶。ただし、彼らの用いる兵力はほとんどなく、18世紀初頭の[[長崎奉行]]は10数人、幕末の五条代官所でも30人しかいなかった。
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幕府は江戸、[[大坂]]、[[京都]]に[[町奉行]]・[[所司代]]を置き重視したが、そのほか[[伊豆国|伊豆]]・[[日田市|日田]]・[[長崎市|長崎]]・[[新潟県|新潟]]・[[飛騨国|飛騨]]や重要な[[鉱山]]に[[代官]]を配置し支配した。これらの支配力は単に一都市に限らず、[[京都所司代]]は[[山城国|山城]]・[[丹波国|丹波]]・[[近江国|近江]]など、[[大坂町奉行]]は[[西日本]]諸国の[[天領]]の[[采配]]がそれぞれ許されるなど、[[管轄]]地の諸大名を監察する役目もあった︵[[京都所司代]]は[[朝廷 (日本)|朝廷]]も監視していた︶。ただし、彼らの用いる兵力はほとんどなく、18世紀初頭の[[長崎奉行]]は10数人、幕末の五条代官所でも30人しかいなかった。
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幕府は政治力と経済力を分け隔てている。幕閣となりうる譜代大名には、そのほとんどが5万石から10万石程度の低い石高しか充てられなかったのに対し、幕政に関与することを決して許さなかった外様大名の多くには数十万石の大封と[[国持大名]]の格式が与えられた。しかもその幕閣ですら、[[大老]]の特例を除き、定員4 - 5名の[[老中]]が重要案件は合議で、日常案件は月番制で決裁を行うという権力の分散が比較的早い時期に図られている。これは室町幕府において[[三管領]]の一家であり、かつ複数の大国の[[守護]]を兼ねた[[細川氏]]が、やがては管領職を独占するほどの世襲権力となって足利将軍家をも圧倒するようになったことに対する反省である |
幕府は政治力と経済力を分け隔てている。幕閣となりうる譜代大名には、そのほとんどが5万石から10万石程度の低い石高しか充てられなかったのに対し、幕政に関与することを決して許さなかった外様大名の多くには数十万石の大封と[[国持大名]]の格式が与えられた。しかもその幕閣ですら、[[大老]]の特例を除き、定員4 - 5名の[[老中]]が重要案件は合議で、日常案件は月番制で決裁を行うという権力の分散が比較的早い時期に図られている。これは室町幕府において[[三管領]]の一家であり、かつ複数の大国の[[守護]]を兼ねた[[細川氏]]が、やがては管領職を独占するほどの世襲権力となって足利将軍家をも圧倒するようになったことに対する反省である。
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=== 藩 === |
=== 藩 === |
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江戸幕府より統治の許可を得た諸大名が、原則的には一代に限り土地統治を認められた[[封建制|封建体制]]である。領土の支配体制は各大名の規模によってかなり異なるが、ほぼ幕府の支配機構体制に準ずる形をとった。身分制についても同様である。ただ、大名は支配土地を自由自在に支配できたわけではなく、幕府からは[[大目付]]が発する監察使にその行政を監視規制されていた。このため[[武家諸法度]]違反で相当数の大名が[[改易]]・[[減封]]処分を受けたが、この処罰は親藩・譜代・外様の別なく行われた |
江戸幕府より統治の許可を得た諸大名が、原則的には一代に限り土地統治を認められた[[封建制|封建体制]]である。領土の支配体制は各大名の規模によってかなり異なるが、ほぼ幕府の支配機構体制に準ずる形をとった。身分制についても同様である。ただ、大名は支配土地を自由自在に支配できたわけではなく、幕府からは[[大目付]]が発する監察使にその行政を監視規制されていた。このため[[武家諸法度]]違反で相当数の大名が[[改易]]・[[減封]]処分を受けたが、この処罰は親藩・譜代・外様の別なく行われた。
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大名には幕府によりその格式に定められた[[参勤交代]]と御手伝いの義務が課せられた。これが大名貧困化の大きな原因となった。これを打開するために[[藩政改革]]が18 - 19世紀にかけて各藩で実施される︵早いところでは土佐藩が[[17世紀]]半ばに行った︶。初期は倹約と[[藩札]]発布が主であったが、18世紀中盤になると塩・陶器などの土地産物の[[専売制]]がかなりの藩で実施される。変わったところでは、[[紀州藩]]の﹁[[熊野三山寄付貸付]]﹂があり、大名自らが金融業者になり利子を取るということまでしている。また、[[仙台藩]]が大坂の升屋の[[番頭]]である[[山片蟠桃]]に藩財政を総覧させたように、財政を商人に任せるような藩も出てきた |
大名には幕府によりその格式に定められた[[参勤交代]]と御手伝いの義務が課せられた。これが大名貧困化の大きな原因となった。これを打開するために[[藩政改革]]が18 - 19世紀にかけて各藩で実施される︵早いところでは土佐藩が[[17世紀]]半ばに行った︶。初期は倹約と[[藩札]]発布が主であったが、18世紀中盤になると塩・陶器などの土地産物の[[専売制]]がかなりの藩で実施される。変わったところでは、[[紀州藩]]の﹁[[熊野三山寄付貸付]]﹂があり、大名自らが金融業者になり利子を取るということまでしている。また、[[仙台藩]]が大坂の升屋の[[番頭]]である[[山片蟠桃]]に藩財政を総覧させたように、財政を商人に任せるような藩も出てきた。
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一部の[[国主|国持大名]]の藩を除いて、藩の領地は中心城と城下町周辺と、その他は少し離れた[[飛び地]]を持っていた︵[[相給]]︶。この傾向は特に10万石前後の譜代大名に多く見られる。京都付近の[[淀藩]]は、山城など近畿のほか遠く上総まで所領を持っていた<!--が、これは稲葉家が上総から淀に移封する際に付いてきた物と考えられる。こういう例は意外と多い-->。
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一部の[[国主|国持大名]]の藩を除いて、藩の領地は中心城と城下町周辺と、その他は少し離れた[[飛び地]]を持っていた︵[[相給]]︶。この傾向は特に10万石前後の譜代大名に多く見られる。京都付近の[[淀藩]]は、山城など近畿のほか遠く上総まで所領を持っていた<!--が、これは稲葉家が上総から淀に移封する際に付いてきた物と考えられる。こういう例は意外と多い-->。
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しかし江戸時代中期に入り、港町や宿場町などの発展、換金性の高い綿が栽培され始めるなど農村部に[[資本主義]]が流入され、また大名への献金が過重になり過ぎて商家の一部が潰れるなど、城下町の衰退が目立つようになった。この農民の商売熱を冷まそうと幕府は[[田畑永代売買禁止令]]や[[帰農令]]などを発布するも効果がなかった。
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しかし江戸時代中期に入り、港町や宿場町などの発展、換金性の高い綿が栽培され始めるなど農村部に[[資本主義]]が流入され、また大名への献金が過重になり過ぎて商家の一部が潰れるなど、城下町の衰退が目立つようになった。この農民の商売熱を冷まそうと幕府は[[田畑永代売買禁止令]]や[[帰農令]]などを発布するも効果がなかった。
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農村では[[名主]]、[[庄屋]]が幕府・大名と農村の橋渡しとして存在し、原則的に武士は農村にいなかったとされる |
農村では[[名主]]、[[庄屋]]が幕府・大名と農村の橋渡しとして存在し、原則的に武士は農村にいなかったとされる︵[[地方知行制]]を温存した仙台藩など例外はある︶。この[[名主]]、[[庄屋]]は昔から土地を所有している有力農民や土着した武士の末裔などがなる場合が多く、[[苗字帯刀]]あるいは諸役御免の特権を持つ者や郷士に列せられる者も多かった。また大きな村では複数名の名主、庄屋が[[寄合]]を開いて村を治めた。彼らは、年貢を滞りなく収めるようにするだけでなく、施政者の命令を下達する役目もあった。諸藩により違いはあるものの、百姓が困っている場合には彼らを代表して施政者に伝え、一揆の際には農村側に立って先導するような百姓側の代表としての意識の強いものと、支配機構の末端を担う下級官吏の面が強く一揆などの際に標的となる場合もあった。困窮した零細農民の土地を集積するなど地主的な側面の強くなる近世後期には後者の面を持つものが多くなった。
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読み書きを中心とした[[寺子屋]]や[[私塾]]、農村部における[[郷学]]︵郷校︶が設置され、日本人の[[識字率]]は高かった |
読み書きを中心とした[[寺子屋]]や[[私塾]]、農村部における[[郷学]]︵郷校︶が設置され、日本人の[[識字率]]は高かった。また岡山藩の[[閑谷学校]]を嚆矢として、あちこちの藩・旗本が郷民でも入校できる学校を作った。このようなことが[[最上徳内]]や[[間宮林蔵]]などの農村出身者の活躍に一役買っているといえる。
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幕府により大名の大幅な配置換えが実施された江戸時代は、同時に日本中で活発な文化交流が行われた時代でもあった。たとえば、三河の[[水野氏]]が備後福山に立藩したため三河の言語が備後地域に流入し、福山地方の方言に三河方言が混ざっている。また、信濃を統治していた[[仙石氏]]が但馬出石に転封した際、信濃の[[蕎麦]]を出石に持ち込んだため、[[出石そば]]が発祥した |
幕府により大名の大幅な配置換えが実施された江戸時代は、同時に日本中で活発な文化交流が行われた時代でもあった。たとえば、三河の[[水野氏]]が備後福山に立藩したため三河の言語が備後地域に流入し、福山地方の方言に三河方言が混ざっている。また、信濃を統治していた[[仙石氏]]が但馬出石に転封した際、信濃の[[蕎麦]]を出石に持ち込んだため、[[出石そば]]が発祥した。このような物の交流は各地で起こっているが、これが現在の名産物になっている地域も多い。
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== 社会 == |
== 社会 == |
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* [[大塩平八郎の乱]] |
* [[大塩平八郎の乱]] |
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身分制度は大きく分けると、[[武士]]などの支配階級と、被支配階級である[[町人]]・[[百姓]]・水呑・借家人などがあったが、有力な町人や百姓が武士の株を買い取ることもあるなど、身分間にはある程度の流動性もあった。これらのほか、[[公家]]、[[検校]]、役者、神官、[[長吏 (賎民)|長吏]]、[[穢多]]、[[非人]]などさまざまな階級があったが、別々の地域で同じ名前で呼ばれる階級が事実上別の実態を持っていたり、ある地域では別の階級とみなされている階級がほかの地域では同一視されているなど、地域・時期により錯綜した状況を呈する。被差別階級とされる長吏、穢多、非人などは皮革の製造加工、[[死刑]]執行人・牛馬の死体の掃除など人の嫌がる仕事を割り当てられ、ほかの階級から差別されたが、それらの職種を独占したために経済的にはある程度安定していた |
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身分制度は大きく分けると、[[武士]]などの支配階級と、被支配階級である[[町人]]・[[百姓]]・水呑・借家人などがあったが、有力な町人や百姓が武士の株を買い取ることもあるなど、身分間にはある程度の流動性もあった。これらのほか、[[公家]]、[[検校]]、役者、神官、[[長吏 (賎民)|長吏]]、[[穢多]]、[[非人]]などさまざまな階級があったが、別々の地域で同じ名前で呼ばれる階級が事実上別の実態を持っていたり、ある地域では別の階級とみなされている階級がほかの地域では同一視されているなど、地域・時期により錯綜した状況を呈する。被差別階級とされる長吏、穢多、非人などは皮革の製造加工、[[死刑]]執行人・牛馬の死体の掃除など人の嫌がる仕事を割り当てられ、ほかの階級から差別されたが、それらの職種を独占したために経済的にはある程度安定していた。のちに[[明治維新]]で行われた四民平等政策により、制度的差別は廃止され彼らは[[平民]]となるが、それにより[[死牛馬取得権]]などの[[特権]]を失いかえって困窮する者が多く出た。民間では社会的な差別は依然として残り、近現代の[[部落解放運動]]につながった︵[[部落問題]]︶。
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=== 災害 === |
=== 災害 === |
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江戸時代もまた数々の大災害に見舞われた時代であった。幕府による災害復旧の御普請はほぼ天領に限られ、各大名領に対する救恤は多くが貸付金という形であった<ref name="Kitahara2016">{{Cite book|和書|author=北原糸子|title=日本災害史|publisher=吉川弘文館|year=2016}}</ref>。
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江戸時代もまた数々の大災害に見舞われた時代であった。幕府による災害復旧の御普請はほぼ天領に限られ、各大名領に対する救恤は多くが貸付金という形であった<ref name="Kitahara2016">{{Cite book|和書|author=北原糸子|title=日本災害史|publisher=吉川弘文館|year=2016}}</ref>。
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中でも18世紀初頭の元禄から宝永期は巨大災害が立て続けに起こり<ref name="Kitahara2016" />、富士山の宝永噴火後の1708年には高100石に付金2両を徴収する「諸国高役金令」を出し、幕府始まって以来の全国的課税となった<ref>{{Cite book|和書|author=久光重平|title=日本貨幣物語|publisher=毎日新聞社|year=1976}}</ref>。領地からの収入増を目的として元禄ごろまで盛んに行われてきた新田開発は、宝永津波をきっかけに転換を迫られることとなり、以後の開発面積は激減することになる<ref name="Isoda2012">{{Cite book|和書|author=磯田道史|authorlink=磯田道史|series=NHKさかのぼり日本史 6|title=江戸“天下泰平”の礎|publisher=日本放送協会出版|year=2012}}</ref>。慶長期から増加し続けてきた人口はその後停滞期に入り、享保の大飢饉および天明の大飢饉 |
中でも18世紀初頭の元禄から宝永期は巨大災害が立て続けに起こり<ref name="Kitahara2016" />、富士山の宝永噴火後の1708年には高100石に付金2両を徴収する「諸国高役金令」を出し、幕府始まって以来の全国的課税となった<ref>{{Cite book|和書|author=久光重平|title=日本貨幣物語|publisher=毎日新聞社|year=1976}}</ref>。領地からの収入増を目的として元禄ごろまで盛んに行われてきた新田開発は、宝永津波をきっかけに転換を迫られることとなり、以後の開発面積は激減することになる<ref name="Isoda2012">{{Cite book|和書|author=磯田道史|authorlink=磯田道史|series=NHKさかのぼり日本史 6|title=江戸“天下泰平”の礎|publisher=日本放送協会出版|year=2012}}</ref>。慶長期から増加し続けてきた人口はその後停滞期に入り、享保の大飢饉および天明の大飢饉頃は減少局面も見られ、幕末までほとんど人口は増加しなかった<ref name="Isoda2012" />。 |
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; [[飢饉|大飢饉]] 死者1万人以上 |
; [[飢饉|大飢饉]] 死者1万人以上 |
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* [[寛永の大飢饉]]、[[享保の大飢饉]]、[[天明の大飢饉]]、[[天保の大飢饉]] |
* [[寛永の大飢饉]]、[[享保の大飢饉]]、[[天明の大飢饉]]、[[天保の大飢饉]] |
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各地の諸大名は、江戸藩邸や参勤交代の費用を捻出するために自藩産出の米や魚農産物を大阪で売ったため、大阪は諸大名の[[蔵屋敷]]が置かれ、全国の特産品が並び、活況を呈した。また、参勤交代やお手伝い普請で多くの諸大名が街道筋の宿屋・旅籠に泊まったため、経済の流通が活発化したのである。江戸幕府は[[株仲間]]を結成させて特定商人の独占を認めることで商業統制を行おうとした。しかし、実際には江戸時代も後期に入ると、都市・地方ともに新興商人の台頭が始まり、活発な展開を見せるようになる。幕府はこうした経済発展の動きに十分な対応が取れず、物価変動による社会的混乱を鎮められずに幕府が動揺する一因となった。
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各地の諸大名は、江戸藩邸や参勤交代の費用を捻出するために自藩産出の米や魚農産物を大阪で売ったため、大阪は諸大名の[[蔵屋敷]]が置かれ、全国の特産品が並び、活況を呈した。また、参勤交代やお手伝い普請で多くの諸大名が街道筋の宿屋・旅籠に泊まったため、経済の流通が活発化したのである。江戸幕府は[[株仲間]]を結成させて特定商人の独占を認めることで商業統制を行おうとした。しかし、実際には江戸時代も後期に入ると、都市・地方ともに新興商人の台頭が始まり、活発な展開を見せるようになる。幕府はこうした経済発展の動きに十分な対応が取れず、物価変動による社会的混乱を鎮められずに幕府が動揺する一因となった。
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[[アンガス・マディソン]]によれば<!-- 後述書 pp.195 - 196. -->、[[1820年]]︵[[享保]]年間︶時点の[[GDP]]は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を1とした場合、日本はその1.75倍、[[オランダ]]は0.3倍、[[イギリス]]は2.8倍であり、[[1850年]]になり、アメリカが日本の2倍近くに達する<ref>[[磯田道史]]﹃日本史の内幕﹄ [[中公新書]]、10版2018年、 pp.195 - 196.</ref>。江戸期における1人あたりの生産量は、 |
[[アンガス・マディソン]]によれば<!-- 後述書 pp.195 - 196. -->、[[1820年]]︵[[享保]]年間︶時点の[[GDP]]は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を1とした場合、日本はその1.75倍、[[オランダ]]は0.3倍、[[イギリス]]は2.8倍であり、[[1850年]]になり、アメリカが日本の2倍近くに達する<ref>[[磯田道史]]﹃日本史の内幕﹄ [[中公新書]]、10版2018年、 pp.195 - 196.</ref>。江戸期における1人あたりの生産量は、0.15%である<ref>[[高島正憲]]﹃経済成長の日本史﹄2017年</ref>。
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対外政策としては幕府は[[海禁]]︵いわゆる[[鎖国]]︶政策を布いていた。しかし、将軍代替りの際に来府した[[朝鮮通信使]]によって清国の動向を、またやはりたびたび来府した[[オランダ商館長]]によって欧州の動向を、ある程度においては把握していたといわれている︵[[オランダ風説書]]︶。たとえば天保の改革を行った老中・[[水野忠邦]]は、清国でアヘン戦争が起こると、ただちに異国船打払令を撤回させているが、これも英国をはじめとした西洋列強の清国に対する外交姿勢を把握していたからこその対処だった。なお、長崎鳴滝に西洋医術の塾︵[[鳴滝塾]]︶を開いた[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]のもとには多数の日本人が修学しており、限られた範囲で西洋人と日本人との交流は行われていた。
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対外政策としては幕府は[[海禁]]︵いわゆる[[鎖国]]︶政策を布いていた。しかし、将軍代替りの際に来府した[[朝鮮通信使]]によって清国の動向を、またやはりたびたび来府した[[オランダ商館長]]によって欧州の動向を、ある程度においては把握していたといわれている︵[[オランダ風説書]]︶。たとえば天保の改革を行った老中・[[水野忠邦]]は、清国でアヘン戦争が起こると、ただちに異国船打払令を撤回させているが、これも英国をはじめとした西洋列強の清国に対する外交姿勢を把握していたからこその対処だった。なお、長崎鳴滝に西洋医術の塾︵[[鳴滝塾]]︶を開いた[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]のもとには多数の日本人が修学しており、限られた範囲で西洋人と日本人との交流は行われていた。
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===通貨政策=== |
===通貨政策=== |
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{{see also|江戸時代の三貨制度}} |
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江戸幕府は、大量に蓄積された金銀を原資に貨幣制度の改革を行った。幕府創立前の[[1601年]]︵慶長6年︶に[[金座]]︵小判座︶および[[銀座 (歴史)|銀座]]を設立し、[[慶長小判|慶長金]][[慶長丁銀|銀]]の鋳造を命じた。慶長から[[寛永]]期頃までは各地の[[金鉱山|金山]]および[[銀山]]の産出が世界有数の規模であり、5代将軍・[[徳川綱吉]]のころまでは江戸城御金蔵の金銀の蓄えも潤沢であった。そして輸入品であった[[永楽銭]]などに代わり、[[1636年]]︵寛永13年︶、[[銭座]]を設けて[[寛永通宝]]などの国内貨幣を鋳造し、流通させた。
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[[ファイル:Keicho-koban2.jpg|thumb|left|80px|慶長小判]] |
[[ファイル:Keicho-koban2.jpg|thumb|left|80px|慶長小判]] |
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[[ファイル:Ko-kaneitsuho.jpg|thumb|right|80px|寛永通寳]] |
[[ファイル:Ko-kaneitsuho.jpg|thumb|right|80px|寛永通寳]] |
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また寛永期を過ぎると、金銀の産出に陰りが見え始めたのに対し、[[人口]]が次第に増加し経済が発展して幕府の支出が増大したため財政難に陥るようになり、金銀の備蓄も底が見え始め、[[1695年]]︵元禄8年︶の[[元禄小判|元禄金]][[元禄丁銀|銀]]の発行を発端に、出目獲得および通貨拡大のため品位を低下させる改鋳が行われるようになる |
また寛永期を過ぎると、金銀の産出に陰りが見え始めたのに対し、[[人口]]が次第に増加し経済が発展して幕府の支出が増大したため財政難に陥るようになり、金銀の備蓄も底が見え始め、[[1695年]]︵元禄8年︶の[[元禄小判|元禄金]][[元禄丁銀|銀]]の発行を発端に、出目獲得および通貨拡大のため品位を低下させる改鋳が行われるようになる。
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{{江戸時代の貨幣}} |
{{江戸時代の貨幣}} |
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[[1772年]](安永元年)の南鐐二朱銀発行以降、次第に[[両]]を基軸とする、分、朱の単位を持つ計数銀貨が増加し始め、[[1837年]](天保8年)の[[一分銀]]発行に至って、丁銀のような[[秤量銀貨]]を凌駕するようになり、銀貨は小判の通貨体系に組み込まれることになった。 |
[[1772年]](安永元年)の南鐐二朱銀発行以降、次第に[[両]]を基軸とする、分、朱の単位を持つ計数銀貨が増加し始め、[[1837年]](天保8年)の[[一分銀]]発行に至って、丁銀のような[[秤量銀貨]]を凌駕するようになり、銀貨は小判の通貨体系に組み込まれることになった。 |
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=== 財政 === |
=== 財政 === |
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[[ファイル:Gold oban 050918 163354.jpg|110px|right|thumb|万延大判]] |
[[ファイル:Gold oban 050918 163354.jpg|110px|right|thumb|万延大判]] |
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徳川家康は武士の支配構造の基本として、士分の収入を[[米]]に依存していた |
徳川家康は武士の支配構造の基本として、士分の収入を[[米]]に依存していた。そのため、幕府の経済政策の主力は米相場を安定させることが中心になった。しかしながら、収入を増やすために米の生産量を増やすと米価が下がるというようになかなか思うようにはいかず、また武士階級を困窮させることになり、幾度も[[倹約令]]や[[徳政令]]が出されることになる。こうした要因によって商人たちが経済の主導権を握るようになった。
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18世紀に入ると日本は飢饉が頻発するようになり、[[天保の大飢饉]]になると藩によっては収穫ゼロ︵[[津軽藩]]など︶のところも出てくるようになる。これを見て[[田沼意次]]は[[重商主義]]政策を取り入れようとしたが、反対勢力によって失敗に終わっている。また財政を改善させることを主目的とする、[[貨幣改鋳]]をたびたび行っている{{sfn|大塚|1999|p=74}}。
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18世紀に入ると日本は飢饉が頻発するようになり、[[天保の大飢饉]]になると藩によっては収穫ゼロ︵[[津軽藩]]など︶のところも出てくるようになる。これを見て[[田沼意次]]は[[重商主義]]政策を取り入れようとしたが、反対勢力によって失敗に終わっている。また財政を改善させることを主目的とする、[[貨幣改鋳]]をたびたび行っている{{sfn|大塚|1999|p=74}}。
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== 対外関係・外交 == |
== 対外関係・外交 == |
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: 「鎖国」([[海禁]])政策{{efn|江戸幕府の対外関係は「鎖国」と呼ばれてきたが、対ヨーロッパ貿易をオランダに制限しただけで、清や朝鮮などとは貿易を行っていたため、「海禁」と呼ぶべきだという主張がある<ref>荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会、1988年</ref><ref>ロナルド・P・ トビ著・ 速水融・ 川勝平太・ 永積洋子翻訳『近世日本の国家形成と外交』(創文社、1990年)</ref>。}}のもとで、[[長崎市|長崎]]の[[唐人屋敷]]における清、長崎[[出島]]におけるオランダとの交易が幕府によって行われた。 |
: ﹁鎖国﹂︵[[海禁]]︶政策{{efn|江戸幕府の対外関係は﹁鎖国﹂と呼ばれてきたが、対ヨーロッパ貿易をオランダに制限しただけで、清や朝鮮などとは貿易を行っていたため、﹁海禁﹂と呼ぶべきだという主張がある<ref>荒野泰典﹃近世日本と東アジア﹄東京大学出版会、1988年</ref><ref>ロナルド・P・ トビ著・ 速水融・ 川勝平太・ 永積洋子翻訳﹃近世日本の国家形成と外交﹄︵創文社、1990年︶</ref>。}}のもとで、[[長崎市|長崎]]の[[唐人屋敷]]における清、長崎[[出島]]におけるオランダとの交易が幕府によって行われた。また、[[対馬藩]]を仲介した[[李氏朝鮮]]との[[倭館]]での交易も幕府の公認を受けたものだった。幕府による公式の貿易関係ではないが、[[薩摩藩]]の支配下にあった[[琉球王国]]を通じ清国・東南アジアとの仲介貿易、[[松前藩]]の勢力下にあった[[アイヌ]]との交易なども行われていた。この四箇所を﹁[[四つの口]]﹂と呼ぶこともある。交易とは違うが、天候不順により海外へ難破した者もいた。今に知られている漂流者らは、一様に外国の手厚い保護を受け、外国の知識を得て日本に帰国した。18世紀末にロシアに漂流し、女帝[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]に謁見した[[大黒屋光太夫]]や、アメリカで教育を受けて幕末に活躍する中浜万次郎︵[[ジョン万次郎]]︶もその一人である。なお、江戸幕府は唯一、[[李氏朝鮮]]とは正式な国交を持っていた。
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: 日清貿易においては、[[1715年]]︵[[正徳 (日本)|正徳]]5年︶に貿易制限令︵[[長崎新令]]︶を出し、入港を認める清船を年間70隻から30隻に削減、先着順に[[信牌]](しんぱい)︵貿易許可証︶を配布し、﹁来年以降、必ず持参するように﹂と申し渡した。受け取れなかった清の商人が﹁日本の年号が入った許可証をもらい、臣従した商人がいる﹂と訴えたので、清朝は信牌を没収したが、翌年、信牌を持たずに入港した清船は幕府に追い払われて、日清貿易は断絶した。しかし清では基軸通貨である銅銭の原料の過半が日本からの輸入銅を用いていたため、交易を再開・継続する必要に迫られ、清朝は信牌を商人たちに返却した<ref>{{Cite web |title=第4回 江戸時代の貿易‥株式会社日立システムズ |url=https://www.hitachi-systems.com/report/specialist/edo/04/ |website=www.hitachi-systems.com |access-date=2024-06-06 |publisher=[[日立システムズ]]}}</ref>。
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: [[オランダ商館長]]が江戸幕府に提出した[[オランダ風説書]]、中国船がもたらし幕府がまとめた唐船風説書は、海外事情を知る手掛かりとなった<ref>{{Cite web |title=オランダ風説書(オランダフウセツガキ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E9%A2%A8%E8%AA%AC%E6%9B%B8-455185 |website=コトバンク |access-date=2024-06-06 |language=ja |first=デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,改訂新版 世界大百科事典,日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,山川 日本史小辞典 改訂新版,旺文社日本史事典 |last=三訂版,世界大百科事典内言及}}</ref><ref>{{Cite web |title=唐船風説書(とうせんふうせつがき)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E5%94%90%E8%88%B9%E9%A2%A8%E8%AA%AC%E6%9B%B8-103813 |website=コトバンク |access-date=2024-06-06 |language=ja |first=ブリタニカ国際大百科事典 |last=小項目事典}}</ref>。 |
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: また、[[対馬藩]]を仲介した[[李氏朝鮮]]との[[倭館]]での交易も幕府の公認を受けたものだった。幕府による公式の貿易関係ではないが、[[薩摩藩]]の支配下にあった[[琉球王国]]を通じ清国・東南アジアとの仲介貿易、[[松前藩]]の勢力下にあった[[アイヌ]]との交易なども行われていた。
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: 以上四箇所を「[[四つの口]]」と呼ぶこともある。 |
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: 交易とは違うが、天候不順により海外へ難破した者もいた。今に知られている漂流者らは、一様に外国の手厚い保護を受け、外国の知識を得て日本に帰国した。18世紀末にロシアに漂流し、女帝[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]に謁見した[[大黒屋光太夫]]や、アメリカで教育を受けて幕末に活躍する中浜万次郎︵[[ジョン万次郎]]︶などがその例である。
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: 国交については、江戸幕府は唯一、[[李氏朝鮮]]とは正式な国交を持つ状態が長らく続いた<ref>{{Cite web |title=江戸時代に東海道を通ったという朝鮮通信使について教えてください。 |url=https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index5/answer4.htm#:~:text=%E9%8E%96%E5%9B%BD%E6%94%BF%E7%AD%96%E3%81%8C%E3%81%A8%E3%82%89%E3%82%8C,%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 |website=www.ktr.mlit.go.jp |access-date=2024-05-09}}</ref>。
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: [[1854年]]︵嘉永7年︶の[[日米和親条約]]の締結により﹁鎖国﹂は終了した<ref>{{Cite web |title=第1部 4. 日本の開国と日蘭関係 {{!}} 江戸時代の日蘭交流 |url=https://www.ndl.go.jp/nichiran/s1/s1_4.html |website=www.ndl.go.jp |access-date=2024-06-06 |language=ja |publisher=[[国立国会図書館]]}}</ref>。
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=== 外交 === |
=== 外交 === |
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* [[朝鮮通信使]] |
* [[朝鮮通信使]] |
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* [[日朝関係史]] |
* [[日朝関係史]] |
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* [[日蘭関係]] |
* [[日蘭関係]] |
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== 宗教 == |
== 宗教 == |
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=== 儒教 === |
=== 儒教 === |
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[[儒教]]は日本においてはむしろ儒学として発展し、江戸時代初期から中期にかけて[[朱子学]]や[[陽明学]]が盛んになった |
[[儒教]]は日本においてはむしろ儒学として発展し、江戸時代初期から中期にかけて[[朱子学]]や[[陽明学]]が盛んになった。 |
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=== 仏教 === |
=== 仏教 === |
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[[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|200px|[[エンゲルベルト・ケンペル]]による[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』(中央公論社、1994年) p.95</ref>。[[豊臣秀吉]]が方広寺大仏を発願し、その後相次ぐ天災のため損壊と再建が繰り返されたが、それらの大仏は文献記録によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、江戸時代には大仏として日本一の高さを誇っていた。]] |
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[[仏教]]は[[檀家制度]]により一概に不振だった<ref>{{Cite web |title=第8回:徳川幕府の政治体制に組み込まれた仏教 |url=https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09408/ |website=nippon.com |date=2023-06-29 |access-date=2024-04-24 |language=ja}}</ref>、仏教内部も腐敗して「葬式仏教」が成立して堕落したとする戦前の[[辻善之助]]に代表される「近世仏教堕落論」は、戦後になって多くの批判が行われた。一方で近世仏教思想の研究は、未だに道半ばな状況にある。 |
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[[仏教]]は、旗本出身である[[鈴木正三]]や独力で[[大蔵経]]を刊行した[[鉄眼道光]]、[[サンスクリット]]研究、戒律復興を提唱した[[慈雲]]、[[臨済宗]]中興の祖と称される[[白隠]]などの優れた僧侶がいなかったわけではなかったが、幕府の宗教政策の一環として民衆支配の方策として用いられたために([[檀家制度]])、一概に不振だった。仏教内部も腐敗し、いわゆる「葬式仏教」が成立したのもこの時期で、形骸化した仏教は神道、儒教の両派から批判された。織田政権や江戸幕府より邪宗とされた[[日蓮宗不受不施派]]は徹底的に弾圧された。 |
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江戸時代の仏教は、僧侶による教理研究が盛んに行われ、旗本出身である[[鈴木正三]]や独力で[[大蔵経]]を刊行した[[鉄眼道光]]、[[サンスクリット]]研究、戒律復興を提唱した[[慈雲]]、[[臨済宗]]中興の祖と称される[[白隠]]などの僧侶がいた。また大衆による仏教信仰は[[縁日]]・[[開帳]]・[[勧進]]といった[[祭礼]]の隆盛に繋がった。更には[[近世文学]]には仏教の[[法話]]を参考にしたものも多く、江戸文化の根底の一つであった。 |
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織田政権や江戸幕府より邪宗とされた[[日蓮宗不受不施派]]は徹底的に弾圧された<ref>{{Cite web |url=https://www.asahi-net.or.jp/~wj8t-okmt/007-06edofmiginitiren.htm |title=日蓮宗不受不施派の弾圧 |access-date=2024-04-24 |publisher=asahi-net.or.jp}}</ref>。
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=== 神道 === |
=== 神道 === |
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[[神道]]では、幕府や諸藩の儒教奨励にともなって神道と儒教が習合した神儒一致の[[垂加神道]]などの儒教神道が現れた。次いで[[国学]]の隆盛にともない儒仏を廃した復古神道が唱えられ、一部では神仏分離が始まった復古神道は儒教や仏教の教えを排除したが、一方では、垂加神道や復古神道は幕末の[[尊王論|尊王思想]]にも影響を与え |
[[神道]]では、幕府や諸藩の儒教奨励にともなって神道と儒教が習合した神儒一致の[[垂加神道]]などの儒教神道が現れた。次いで[[国学]]の隆盛にともない儒仏を廃した復古神道が唱えられ、一部では神仏分離が始まった。復古神道は儒教や仏教の教えを排除したが、一方では、垂加神道や復古神道は幕末の[[尊王論|尊王思想]]にも影響を与え、明治期の政策にも影響を与えた。明治維新で朝廷権力が復活したために、各地で勤皇の神社が建立され︵[[湊川神社]]もこのころ︶、天皇陵が各地で定められた。
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=== 耶蘇教(キリスト教) === |
=== 耶蘇教(キリスト教) === |
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江戸時代初期は交易国であった[[イギリス]]や[[ポルトガル]]などからもキリスト教が伝えられたため、禁止令も徹底されなかった。しかし[[鎖国]]政策を強めるにつれてキリスト教の弾圧が強化された。 |
江戸時代初期は交易国であった[[イギリス]]や[[ポルトガル]]などからもキリスト教が伝えられたため、禁止令も徹底されなかった。しかし[[鎖国]]政策を強めるにつれてキリスト教の弾圧が強化された。 |
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*1622年︵[[元和 (日本)|元和]]8年︶には長崎西坂で[[元和の大殉教]]として知られる大量処刑が行われた |
*1622年︵[[元和 (日本)|元和]]8年︶には長崎西坂で[[元和の大殉教]]として知られる大量処刑が行われた。この3代将軍[[徳川家光]]の時代には、封建制度の確立、貿易・出入国の管理・統制の強化︵﹁鎖国﹂の徹底︶、[[キリシタン]]の禁止が三大政策となり、キリスト教徒は殉教か棄教のいずれかを選択せざるを得なくなった。
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*1635年([[寛永]]12年)長崎奉行に対する職務規定(「第三次鎖国令」)で、日本人の東南アジア方面との往来を禁止することで、[[宣教師]]の密航の手段として利用された朱印船貿易を廃止した。 |
*1635年([[寛永]]12年)長崎奉行に対する職務規定(「第三次鎖国令」)で、日本人の東南アジア方面との往来を禁止することで、[[宣教師]]の密航の手段として利用された朱印船貿易を廃止した。 |
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*1637年︵寛永14年︶[[島原の乱]]が発生。この後は、全国でキリシタン取り締まりが徹底され、寺請制度などの制度によってキリシタンを摘発した。わずかに残った教徒は[[隠れキリシタン]]として幕末まで信仰を持続した |
*1637年︵寛永14年︶[[島原の乱]]が発生。この後は、全国でキリシタン取り締まりが徹底され、寺請制度などの制度によってキリシタンを摘発した。わずかに残った教徒は[[隠れキリシタン]]として幕末まで信仰を持続した。
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*1865年︵[[慶応]]元年︶には隠れキリシタンたちがフランス人宣教師に信仰を告白して世界的ニュースとなった。彼らはその後、明治政府に弾圧された︵[[浦上四番崩れ]]︶ |
*1865年([[慶応]]元年)には隠れキリシタンたちがフランス人宣教師に信仰を告白して世界的ニュースとなった。彼らはその後、明治政府に弾圧された([[浦上四番崩れ]])。 |
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== 学問・思想 == |
== 学問・思想 == |
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江戸時代には、戦乱が静まり社会が安定し平和になったことと[[経済]]活動が活発になったことにより、人々の言論活動も活発になり、多様な[[学問]]が開花した。また経済の発展による[[庶民]]の台頭は、学問の担い手を生むこととなった。江戸時代の学問の特徴としては、研究者個人の直感的・連想的な思考を軸とする[[中世]]的な発想で研究を進めるのではなく、文献などに基づき実証的に研究するという態度が現れたことが挙げられる。また一部には[[身分]]制度を否定したりする思想が現れた。このように、中世を離れ[[近代]]に近い時期として、江戸時代は歴史の上で[[近世]]と定義されている |
江戸時代には、戦乱が静まり社会が安定し平和になったことと[[経済]]活動が活発になったことにより、人々の言論活動も活発になり、多様な[[学問]]が開花した。また経済の発展による[[庶民]]の台頭は、学問の担い手を生むこととなった。江戸時代の学問の特徴としては、研究者個人の直感的・連想的な思考を軸とする[[中世]]的な発想で研究を進めるのではなく、文献などに基づき実証的に研究するという態度が現れたことが挙げられる。また一部には[[身分]]制度を否定したりする思想が現れた。このように、中世を離れ[[近代]]に近い時期として、江戸時代は歴史の上で[[近世]]と定義されている。
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江戸時代中期になると、藩政改革の一環としての[[藩校]]開学が各地で行われるようになる。基本的には藩士の子弟に朱子学や[[剣術]]を奨励・徹底するものだが、一部には医術や西洋技術を講義し、さらに庶民までも受講対象となるところもあった。庶民レベルでは、[[僧|僧侶]]ら知識階級が庶民らの子どもを集めて基本的な読み書きを教えた。この[[寺子屋]]が増えていったことで日本の識字率が高まっていき、幕末から明治にかけての近代化を支える原動力となった。また、京都や大坂などの大きな町では江戸時代初期から[[伊藤仁斎]]が[[古義堂]]を開くなど、[[私塾]]を構えるところもあったが、江戸中期から郷村で村塾といわれる私塾が出てきた。
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江戸時代中期になると、藩政改革の一環としての[[藩校]]開学が各地で行われるようになる。基本的には藩士の子弟に朱子学や[[剣術]]を奨励・徹底するものだが、一部には医術や西洋技術を講義し、さらに庶民までも受講対象となるところもあった。庶民レベルでは、[[僧|僧侶]]ら知識階級が庶民らの子どもを集めて基本的な読み書きを教えた。この[[寺子屋]]が増えていったことで日本の識字率が高まっていき、幕末から明治にかけての近代化を支える原動力となった。また、京都や大坂などの大きな町では江戸時代初期から[[伊藤仁斎]]が[[古義堂]]を開くなど、[[私塾]]を構えるところもあったが、江戸中期から郷村で村塾といわれる私塾が出てきた。
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'''儒学''' |
'''儒学''' |
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[[論語]]をはじめとする儒教経典は古代から仏教経典とともに日本に伝来しており、[[室町時代]]には[[五山]]の僧により読まれていた。[[豊臣秀吉]]の[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]の際、[[姜沆]]らの朱子学者が連れ帰られたこと、また、徳川家康が論語を愛し、[[藤原惺窩]]とその弟子[[林羅山]]を重用したことで[[朱子学]]の研究が本格化した。幕府は[[昌平坂学問所]]を徳川家私設の学問所として設立した。民間では﹁近江聖人﹂と呼ばれた[[中江藤樹]]や、朱子の﹁祖述﹂を旨とした[[山崎闇斎]]の学派が存在し、民間にも朱子学は伝わっていった。[[ヘルマン・オームス]]は朱子学と神道を統合した闇斎学派によって﹁徳川イデオロギー﹂が完成したとする<ref>{{Cite book|和書|title=徳川イデオロギー|year=1990|publisher=ぺりかん社|author=ヘルマン・オームス|translator=黒住真、清水正之、沢一、頼住光子}}</ref>。[[松平定信]]は[[寛政異学の禁]]で昌平坂学問所での朱子学以外の講義を禁じ、大坂の町人学問所である[[懐徳堂]]を公認した。[[陽明学]]は中江藤樹の弟子である[[熊沢蕃山]]が学んでいたほか、[[大塩平八郎]]や[[吉田松陰]]ら幕末の |
[[論語]]をはじめとする儒教経典は古代から仏教経典とともに日本に伝来しており、[[室町時代]]には[[五山]]の僧により読まれていた。[[豊臣秀吉]]の[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]の際、[[姜沆]]らの朱子学者が連れ帰られたこと、また、徳川家康が論語を愛し、[[藤原惺窩]]とその弟子[[林羅山]]を重用したことで[[朱子学]]の研究が本格化した。幕府は[[昌平坂学問所]]を徳川家私設の学問所として設立した。民間では﹁近江聖人﹂と呼ばれた[[中江藤樹]]や、朱子の﹁祖述﹂を旨とした[[山崎闇斎]]の学派が存在し、民間にも朱子学は伝わっていった。[[ヘルマン・オームス|へルマン・オームス]]は朱子学と神道を統合した闇斎学派によって﹁徳川イデオロギー﹂が完成したとする<ref>{{Cite book|和書|title=徳川イデオロギー|year=1990|publisher=ぺりかん社|author=ヘルマン・オームス|translator=黒住真、清水正之、沢一、頼住光子}}</ref>。[[松平定信]]は[[寛政異学の禁]]で昌平坂学問所での朱子学以外の講義を禁じ、大坂の町人学問所である[[懐徳堂]]を公認した。[[陽明学]]は中江藤樹の弟子である[[熊沢蕃山]]が学んでいたほか、[[大塩平八郎]]や[[吉田松陰]]ら幕末の志士にも学ばれた。
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朱子学が勢いづくに従ってその批判も起こった。[[山鹿素行]]は聖学と称して[[古学]]派の先駆者となり、[[貝原益軒]]は朱子学教説への懐疑を露にした。[[伊藤仁斎]]と[[伊藤東涯]]は朱子によらず経典が書かれた中国古代の字句の意味を明らかにする古義学を打ち立てた。[[荻生徂徠]]の古文辞学はこれらを大成するものであり、古代の聖人による﹁物﹂︵事物、儀礼︶に対する﹁名﹂︵概念︶の﹁制作﹂を論じ、政治的な復古主義を主張した。懐徳堂で学んだ[[富永仲基]]や[[山片蟠桃]]は儒教・仏教・神道全てを否定する無鬼論を主張した |
朱子学が勢いづくに従ってその批判も起こった。[[山鹿素行]]は聖学と称して[[古学]]派の先駆者となり、[[貝原益軒]]は朱子学教説への懐疑を露にした。[[伊藤仁斎]]と[[伊藤東涯]]は朱子によらず経典が書かれた中国古代の字句の意味を明らかにする古義学を打ち立てた。[[荻生徂徠]]の古文辞学はこれらを大成するものであり、古代の聖人による「物」(事物、儀礼)に対する「名」(概念)の「制作」を論じ、政治的な復古主義を主張した。懐徳堂で学んだ[[富永仲基]]や[[山片蟠桃]]は儒教・仏教・神道全てを否定する無鬼論を主張した。 |
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'''国学''' |
'''国学''' |
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===江戸時代生まれの最後の生き残り=== |
===江戸時代生まれの最後の生き残り=== |
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1868年︵慶応4年︶生まれが96歳となる[[1960年代]]の時期の[[1964年]]︵昭和39年 |
1868年︵慶応4年︶生まれが96歳となる[[1960年代]]の時期の[[1964年]]︵昭和39年頃︶より江戸時代生まれの男性がゼロになった県が出ていた。100歳となる[[1968年]]︵[[明治100周年記念式典]]の頃︶より江戸時代生まれの人物が女性を含めてゼロになった県が出ていた。1968年9月時点では1868年9月以前の生まれの人口が山形県、栃木県、群馬県、埼玉県が1人で青森県、富山県、石川県、奈良県が2人であった<ref>明治百年記念関係行事等概況﹁明治百年記念100歳以上の高齢者の慶祝﹂より</ref>。
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[[1970年]]時点での江戸時代生まれの人物は100人台、うち男性は19人であった。1973年9月時点では江戸時代生まれの人物は10人、 |
[[1970年]]時点での江戸時代生まれの人物は100人台、うち男性は19人であった。1973年9月時点では江戸時代生まれの人物は10人、1975年時点では6人であった。 |
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大政奉還以前生まれ最後の人物は[[1976年]][[11月16日]]に死去した[[河本にわ]]で、うち男性は[[1973年]][[8月1日]]に死去した[[後藤長次郎]]([[1866年]][[7月4日]]生まれ、岐阜県)であった。 |
大政奉還以前生まれ最後の人物は[[1976年]][[11月16日]]に死去した[[河本にわ]]で、うち男性は[[1973年]][[8月1日]]に死去した[[後藤長次郎]]([[1866年]][[7月4日]]生まれ、岐阜県)であった。 |
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明治改元以前生まれ最後の人物は[[1977年]][[5月27日]]に死去した[[中山イサ]]で、うち男性は1976年[[1月2日]]に死去した吉川与三太郎あった。 |
明治改元以前生まれ最後の人物は[[1977年]][[5月27日]]に死去した[[中山イサ]]で、うち男性は1976年[[1月2日]]に死去した[[吉川与三太郎]]であった。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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* {{Cite book|和書|title=近世大名家臣団の社会構造|year=2013|origyear=2003|publisher=文春学芸ライブラリー|author=磯田道史|isbn=9784168130083}} |
* {{Cite book|和書|title=近世大名家臣団の社会構造|year=2013|origyear=2003|publisher=文春学芸ライブラリー|author=磯田道史|isbn=9784168130083}} |
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* {{Cite book|和書|title=近世国語学史|year=1928|publisher=立川文明堂|author=伊藤愼吾}} |
* {{Cite book|和書|title=近世国語学史|year=1928|publisher=立川文明堂|author=伊藤愼吾}} |
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* {{Cite book|和書|title=日本文学史(近世篇 |
* {{Cite book|和書|title=日本文学史(近世篇1~3)|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|year=2011|origyear=1995|author=ドナルド・キーン|translator=徳岡孝夫}} |
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* {{Cite book|和書|title=近世文学史論:古典知の継承と展開|year=2023|publisher=岩波書店|author=鈴木健一|isbn=9784000615808}} |
* {{Cite book|和書|title=近世文学史論:古典知の継承と展開|year=2023|publisher=岩波書店|author=鈴木健一|isbn=9784000615808}} |
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* {{Cite book|和書|title=日本の近世文学|year=1965|publisher=文化書房|author=黒羽英男}} |
* {{Cite book|和書|title=日本の近世文学|year=1965|publisher=文化書房|author=黒羽英男}} |