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2014年12月14日 (日) 07:16時点における版
かわむら れいきち 河村 黎吉 | |||||
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本名 |
河村 石五郎 かわむら いしごろう | ||||
生年月日 | 1897年9月11日 | ||||
没年月日 | 1952年12月22日(55歳没) | ||||
出生地 |
![]() | ||||
民族 | 日本人 | ||||
職業 | 俳優 | ||||
活動期間 | 1921年 - 1952年 | ||||
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三船敏郎(右)と
河村 黎吉︵かわむら れいきち、1897年9月1日 (一説に6月16日) - 1952年12月22日︶は、東京府︵現東京都︶出身の日本の俳優。本名は河村石五郎。
略歴
東京神田の錦城商業学校予科を卒業後、14歳で中洲・真砂座で初舞台を踏む。以降は新派劇の無名劇団に参加して地方巡業で各地を転々とし、自ら小劇団を組織したこともあった。1921年、松竹蒲田に入社、当初は仕出し程度だったが、特徴的な風貌と舞台で培われた演技力でたちまち頭角をあらわし、1923年に準幹部俳優、1924年には幹部俳優に昇格した。この間、関東大震災の為に蒲田撮影所は使用不可能となり、大半の所員と共に下加茂撮影所に移る。1925年に下加茂撮影所が閉鎖され、蒲田に引き揚げる。この頃から二枚目半、三枚目がかった役を演じるようになり、次第に芸達者ぶり認められる。また時代がトーキーに入っても、江戸弁の台詞回しの良さから人気は衰えることがなかった。終戦後は東宝に移り、1952年には、のちに東宝のドル箱となる社長シリーズの母体である﹃三等重役﹄に主演。映画は大ヒットし、河村も毎日映画コンクール演技特別賞を受賞︵但し、受賞が決定したのは本人の死後︶。続編にも出演するなど一躍、人気スターになった。しかし同年に胃癌のために倒れ、55歳で亡くなった。当り役である﹃三等重役﹄は、人事課長役で共演していた森繁久彌が社長役に出世し、社長シリーズとして1956年の﹃へそくり社長﹄からはじまり10年以上続く看板シリーズであるが、毎回、社長室には前社長の河村の遺影が掲げられている。出演作品
映画
- 懺悔の刃(1927年)
- 君と別れて(1933年)
- 荒城の月(1937年)
- 婚約三羽烏(1937年)
- 愛染かつら(1938年)伯父
- 戸田家の兄妹(1941年)
- 水兵さん(1944年)
- はたちの青春(1946年)桑原
- 三百六十五夜(1948年)照子の父 坂元東吉
- 長屋紳士録(1949年)為吉
- 三百六十五夜(1948年)
- 野良犬(1949年)スリ係老刑事
- 森の石松(1949年)
- 宗方姉妹(1950年)
- 戦後派お化け大会(1951年)