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高崎県高崎︵現在の[[群馬県]][[高崎市]]︶に生まれる。旧本名は山田郁子。生家は[[ロシア正教会]]の信者。ニコライ女子神学校卒業、のち[[ニコライ神学校]]校長となる[[瀬沼恪三郎]]と結婚、[[尾崎紅葉]]に入門し、一字をとって夏葉の雅号を貰う。ニコライのもとでロシヤ語を学び、1904年、[[アントン・チェーホフ|チェーホフ]]を本邦初訳し、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]の﹃[[アンナ・カレーニナ]]﹄を中途まで翻訳、紅葉はそのために雑誌を刊行した。
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また[[1904年]]、﹃文藝倶楽部﹄に﹁貧しき少女﹂を発表するなど創作活動も行い、2度にわたってロシヤを訪問、帰国後、[[青鞜]]社の賛助員となるが、40歳で逝去した。
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以上が従来の夏葉伝だが、[[中村健之介]]・悦子『ニコライ堂の女性たち』によると、夏葉は疑問の人物であり、男性関係が不羈本邦でニコライを悩ませ、その翻訳も、夏葉ではなく恪三郎がしたものではないかとされている。事実、恪三郎はトルストイ宛に、『アンナ』の翻訳について手紙を書いているが、そこには自分が訳していると書いてある。 |
以上が従来の夏葉伝だが、[[中村健之介]]・悦子『ニコライ堂の女性たち』によると、夏葉は疑問の人物であり、男性関係が不羈本邦でニコライを悩ませ、その翻訳も、夏葉ではなく恪三郎がしたものではないかとされている。事実、恪三郎はトルストイ宛に、『アンナ』の翻訳について手紙を書いているが、そこには自分が訳していると書いてある。 |
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*「すゞめ」 [[イワン・ツルゲーネフ|ツルゲーネフ]]著 |
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*「里の女」 チェーホフ著 |
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*「師の恩」 |
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2007年11月16日 (金) 13:41時点における版
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瀬沼 夏葉︵せぬま かよう、1875年12月11日 - 1915年2月28日︶は、小説家、翻訳家。
高崎県高崎︵現在の群馬県高崎市︶に生まれる。旧本名は山田郁子。生家はロシア正教会の信者。ニコライ女子神学校卒業、のちニコライ神学校校長となる瀬沼恪三郎と結婚、尾崎紅葉に入門し、一字をとって夏葉の雅号を貰う。ニコライのもとでロシヤ語を学び、1904年、チェーホフを本邦初訳し、トルストイの﹃アンナ・カレーニナ﹄を中途まで翻訳、紅葉はそのために雑誌を刊行した。
また1904年、﹃文藝倶楽部﹄に﹁貧しき少女﹂を発表するなど創作活動も行い、2度にわたってロシヤを訪問、帰国後、青鞜社の賛助員となるが、40歳で逝去した。
以上が従来の夏葉伝だが、中村健之介・悦子﹃ニコライ堂の女性たち﹄によると、夏葉は疑問の人物であり、男性関係が不羈本邦でニコライを悩ませ、その翻訳も、夏葉ではなく恪三郎がしたものではないかとされている。事実、恪三郎はトルストイ宛に、﹃アンナ﹄の翻訳について手紙を書いているが、そこには自分が訳していると書いてある。
主な翻訳書・作品
- 「アンナ・カレーニナ」 トルストイ著
- 「写真帳」チェーホフ著
- 「貧しき少女」 ドストエフスキー著
- 「すゞめ」 ツルゲーネフ著
- 「里の女」 チェーホフ著
- 「叱ッ!」 チェーホフ著
- 「良犬」 チェーホフ著
- 「彼女だ!」 チェーホフ著
- 「師の恩」
関連文献
- 「明治文学全集 82 明治女流文学集(二)」筑摩書房(1965)
- 神奈川大学 「人文研究 131」「瀬沼夏葉 ―生涯と業績―」 秋山 勇造(1997)
- ニコライ堂の女性たち 中村健之介,中村悦子 教文館, 2003