「福島県迎賓館」の版間の差分
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近くにある[[天鏡閣]]の[[別邸]]として建設されたものの、現在は間に道路が通り400メートルほど離れている上、天鏡閣が[[洋風建築]]であるのに対し、こちらは[[日本建築]]である。古い伝統的和風住宅の[[皇族]]別邸は、全国的にも珍しいと言われている<ref>[http://www.jalan.net/kankou/spt_07408ae2180022288/ 【迎賓館】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet]</ref>。設計は[[宮内省]]内匠寮、担当は宮内技師[[木子幸三郎]]<ref>[https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/102/2070 旧高松宮翁島別邸(福島県迎賓館)居間棟](国指定文化財等データベース)</ref>。 |
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[[大正天皇]]の第3皇子・[[高松宮宣仁親王]]が、[[有栖川宮威仁親王]]妃[[威仁親王妃慰子|慰子]]の保養のため、天鏡閣の別邸として[[1922年]]([[大正]]11年)に建設したもの。[[還暦]]前の慰子妃を気遣い、洋館ではなく自然の景観を庭園に見立てた純日本風の造りになっている<ref name="tif" />。 |
[[大正天皇]]の第3皇子・[[高松宮宣仁親王]]が、[[有栖川宮威仁親王]]妃[[威仁親王妃慰子|慰子]]の保養のため、天鏡閣の別邸として[[1922年]]([[大正]]11年)に建設したもの。[[還暦]]前の慰子妃を気遣い、洋館ではなく自然の景観を庭園に見立てた純日本風の造りになっている<ref name="tif" />。 |
2021年11月5日 (金) 15:04時点における版
福島県迎賓館 | |
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情報 | |
旧名称 | 高松宮翁島別邸 |
用途 | 一部公開文化財 |
旧用途 | 皇族別邸 |
建築主 | 高松宮宣仁親王 |
管理運営 | 福島県観光物産交流協会 |
構造形式 | 木造 |
建築面積 | 589.7[1] m² |
竣工 | 1922年(大正11年) |
所在地 | 福島県耶麻郡猪苗代町大字翁沢字畑田1072番地4 |
座標 | 北緯37度31分3.5秒 東経140度2分40.5秒 / 北緯37.517639度 東経140.044583度座標: 北緯37度31分3.5秒 東経140度2分40.5秒 / 北緯37.517639度 東経140.044583度 |
文化財 | 国の重要文化財 |
指定・登録等日 | 1999年(平成11年)5月13日 |
概要
近くにある天鏡閣の別邸として建設されたものの、現在は間に道路が通り400メートルほど離れている上、天鏡閣が洋風建築であるのに対し、こちらは日本建築である。古い伝統的和風住宅の皇族別邸は、全国的にも珍しいと言われている[2]。設計は宮内省内匠寮、担当は宮内技師木子幸三郎[3]。 大正天皇の第3皇子・高松宮宣仁親王が、有栖川宮威仁親王妃慰子の保養のため、天鏡閣の別邸として1922年︵大正11年︶に建設したもの。還暦前の慰子妃を気遣い、洋館ではなく自然の景観を庭園に見立てた純日本風の造りになっている[1]。 1952年︵昭和27年︶12月、高松宮宣仁親王より福島県に下賜され、福島県迎賓館となった。 1996年︵平成8年︶12月20日、居間棟が国の登録有形文化財に登録。1999年︵平成11年︶5月13日には、国の重要文化財に指定された︵重文指定により登録有形文化財の登録は抹消︶[4][5]。公開
通常は庭園のみが公開されている。建物については﹁特別公開﹂として年間100日程度[6]の公開日が設けられ、予約者のみ見学が可能。脚注
外部リンク
- 福島県迎賓館 - (財)福島県観光物産交流協会