「第一次世界大戦」を編集中
この編集を取り消せます。 下記の差分を確認して、本当に取り消していいか検証してください。よろしければ変更を公開して取り消しを完了してください。
最新版 | 編集中の文章 | ||
140行目: | 140行目: | ||
セルビアにおけるオーストリア=ハンガリーの第一次攻勢はセルビアの一般市民に対する攻撃とともに行われた。民衆数千人が殺害され、集落は略奪、放火された。オーストリア=ハンガリー軍部は一般市民に対する攻撃を暗に認め、「系統的でない徴発」や「無意味な報復」などと形容した。セルビア軍は善戦したが、12月までにその力を使い切ったうえセルビアで疫病が流行し、苦しめられることになった<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.834 f.</ref>。 |
セルビアにおけるオーストリア=ハンガリーの第一次攻勢はセルビアの一般市民に対する攻撃とともに行われた。民衆数千人が殺害され、集落は略奪、放火された。オーストリア=ハンガリー軍部は一般市民に対する攻撃を暗に認め、「系統的でない徴発」や「無意味な報復」などと形容した。セルビア軍は善戦したが、12月までにその力を使い切ったうえセルビアで疫病が流行し、苦しめられることになった<ref>Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.834 f.</ref>。 |
||
12月5日から17日、オーストリア=ハンガリー軍はロシア軍の[[クラクフ]]への進軍を阻止し、その後は長大な前線にわたって塹壕戦に突入した。また1914年12月から1915年4月にかけて |
12月5日から17日、オーストリア=ハンガリー軍はロシア軍の[[クラクフ]]への進軍を阻止し、その後は長大な前線にわたって塹壕戦に突入した。また1914年12月から1915年4月にかけて{{仮リンク|カルパティアの戦い|de|Schlacht in den Karpaten|label=カルパティア山脈の冬季戦役}}が行われ、中央同盟国軍がロシア軍に対し善戦した<ref>Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.108 f.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.606; Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.242 ff.</ref>。
|
||
=== 西部戦線における戦争計画の失敗と塹壕戦への移行 === |
=== 西部戦線における戦争計画の失敗と塹壕戦への移行 === |
||
280行目: | 280行目: | ||
1914年11月にパウル・フォン・ヒンデンブルクとエーリッヒ・フォン・ルーデンドルフが東部戦線のドイツ軍総指揮官に任命された以降、2人は東部戦線の決着を目指した。ドイツの目的はロシアを弱らせることによって、連合国の同盟の解体を準備しようとした。当時の東部戦線はロシアがガリツィア全体を占領している状態であり、単独講和できる状態にないため、軍事上の圧力をかけることによってロシアへの圧力を増すことと、中立国、特にバルカン諸国に良い印象を与えることができると考えられた<ref>Münkler: ''Der Große Krieg.'' 2013, pp.292-295, 302-306.</ref>。さらに、イタリアが参戦してくる恐れがあったためオーストリア=ハンガリーは戦略的危機に陥っていた。 |
1914年11月にパウル・フォン・ヒンデンブルクとエーリッヒ・フォン・ルーデンドルフが東部戦線のドイツ軍総指揮官に任命された以降、2人は東部戦線の決着を目指した。ドイツの目的はロシアを弱らせることによって、連合国の同盟の解体を準備しようとした。当時の東部戦線はロシアがガリツィア全体を占領している状態であり、単独講和できる状態にないため、軍事上の圧力をかけることによってロシアへの圧力を増すことと、中立国、特にバルカン諸国に良い印象を与えることができると考えられた<ref>Münkler: ''Der Große Krieg.'' 2013, pp.292-295, 302-306.</ref>。さらに、イタリアが参戦してくる恐れがあったためオーストリア=ハンガリーは戦略的危機に陥っていた。 |
||
ロシア軍は |
ロシア軍は{{仮リンク|カルパティアの戦い|de|Schlacht in den Karpaten|label=カルパティア山脈の冬季戦役}}を有利に進めており、イタリアが参戦するとオーストリア=ハンガリー軍は[[イゾンツォ川]]と[[カルパティア山脈]]の間で挟み撃ちにされる形になり、オーストリア=ハンガリー帝国の終焉を意味するほどの危機となる。そこで考えられるのが、西ガリツィアから[[サン川]]方面へ突破して、ロシア軍にカルパティア山脈からの撤退を迫る(撤退しなければドイツとオーストリア=ハンガリーの挟み撃ちを受ける)ことだった。この戦略を実行に移すため、1915年春に[[アウグスト・フォン・マッケンゼン]]率いる{{仮リンク|第11軍 (ドイツ帝国)|en|11th Army (German Empire)|label=ドイツ第11軍}}が西部戦線から東部戦線に転配された。5月1日から10日まで、[[クラクフ]]の東で[[ゴルリッツ=タルヌフ攻勢]]が行われた。この攻勢において、ドイツと{{仮リンク|第4軍 (オーストリア=ハンガリー帝国)|en|4th Army (Austria-Hungary)|label=オーストリア=ハンガリー第4軍}}は予想外に善戦してロシアの陣地に深く侵入、5月中旬にはサン川までたどり着いた。この戦闘は東部戦線の変わり目だったが、オーストリア=ハンガリーは開戦から1915年3月まで約200万人の損害を出しており、ドイツの援助に段々と依存するようになった<ref>Keegan: ''Der Erste Weltkrieg. Eine europäische Tragödie.'' 2001, p.247, 324 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.531 f.; Piekałkiewicz: ''Der Erste Weltkrieg.'' 1988, p.221 ff.</ref>。 |
||
6月、中央同盟国はゴルリッツ=タルヌフ攻勢に続いて{{仮リンク|ブク攻勢|de|Bug-Offensive}}を開始した。6月4日に[[プシェムィシル]]を、22日に[[リヴィウ|レンベルク]]を再占領した後、ロシア領ポーランドに{{仮リンク|突起部 (軍事)|en|Salient (military)|label=突起部}}を作ることが可能のように見えた。南と北とで共同して攻撃を仕掛けることで、ロシア軍を包囲するという計画が[[陸軍最高司令部|ドイツ最高司令部]]︵実際に計画を立てたのはルーデンドルフだった︶から示されたが、ファルケンハインとマッケンゼンはマルヌ会戦の惨状を見て、ルーデンドルフの計画を野心的すぎるとしてそれを縮小させた。6月29日から9月30日までのブク攻勢と7月13日から8月24日までの{{仮リンク|ナレフ攻勢|de|Narew-Offensive}}はロシアの大部隊を包囲するには至らなかったが、ロシア軍にポーランド、[[リトアニア]]、そして[[クールラント]]の大半からの[[大撤退]]を強いることができた。
|
6月、中央同盟国はゴルリッツ=タルヌフ攻勢に続いて{{仮リンク|ブク攻勢|de|Bug-Offensive}}を開始した。6月4日に[[プシェムィシル]]を、22日に[[リヴィウ|レンベルク]]を再占領した後、ロシア領ポーランドに{{仮リンク|突起部 (軍事)|en|Salient (military)|label=突起部}}を作ることが可能のように見えた。南と北とで共同して攻撃を仕掛けることで、ロシア軍を包囲するという計画が[[陸軍最高司令部|ドイツ最高司令部]]︵実際に計画を立てたのはルーデンドルフだった︶から示されたが、ファルケンハインとマッケンゼンはマルヌ会戦の惨状を見て、ルーデンドルフの計画を野心的すぎるとしてそれを縮小させた。6月29日から9月30日までのブク攻勢と7月13日から8月24日までの{{仮リンク|ナレフ攻勢|de|Narew-Offensive}}はロシアの大部隊を包囲するには至らなかったが、ロシア軍にポーランド、[[リトアニア]]、そして[[クールラント]]の大半からの[[大撤退]]を強いることができた。
|
||
484行目: | 484行目: | ||
7月6日、[[中央党 (ドイツ)|中央党]]の[[マティアス・エルツベルガー]]が国会で演説を行った<ref>Theodor Wolff: ''Tagebücher 1914-1919. Der Erste Weltkrieg und die Entstehung der Weimarer Republik in Tagebüchern, Leitartikeln und Briefen des Chefredakteurs am „Berliner Tageblatt“ und Mitbegründer der „Deutschen Demokratischen Partei“.'' Erster Teil, hrsg. von Bernd Sösemann. Boppard am Rhein 1984, ISBN 3-7646-1835-3, p.509.</ref>。エルツベルガーは保守派の政治家であり、﹁勝利の平和﹂を支持したが、軍部が潜水艦作戦の有効性を偽ったとして、領土併合を諦める平和交渉を主張した。同日、多数派社会民主党、中央党、自由派の[[進歩人民党 (ドイツ)|進歩人民党]]が{{仮リンク|多党派委員会|de|Interfraktioneller Ausschuss}}で主要会派の調整を行うことに同意した。これはドイツの議会化の第一歩とされ、保守派からは﹁革命の始まり﹂とされた<ref>Theodor Wolff: ''Tagebücher 1914-1919. Der Erste Weltkrieg und die Entstehung der Weimarer Republik in Tagebüchern, Leitartikeln und Briefen des Chefredakteurs am „Berliner Tageblatt“ und Mitbegründer der „Deutschen Demokratischen Partei“.'' Erster Teil, hrsg. von Bernd Sösemann. Boppard am Rhein 1984, ISBN 3-7646-1835-3, p.511.</ref>。エルツベルガーの演説の後、ヒンデンブルクとルーデンドルフはヴィルヘルム2世に宰相の更迭を迫ったが、再び拒否された。ベートマン・ホルヴェークは7月10日にヴィルヘルム2世に謁見、戦後にプロイセンで[[普通選挙]]を行う保証を受けた︵プロイセンではそれまで選挙が{{仮リンク|プロイセン三等制|en|Prussian three-class franchise|label=3等級}}に分けられて行われた︶。この保証は12日に公表されたが、同日の夜にはヒンデンブルクとルーデンドルフが再びヴィルヘルム2世に迫り、宰相を解任しなければ2人が辞任すると脅した。ヴィルヘルム2世は要求を受け入れ、ベートマン・ホルヴェークは翌朝にそれを知ると自ら辞表を提出した。後任の宰相は無名な[[ゲオルク・ミヒャエリス]]だった<ref>Ullrich: ''Die nervöse Großmacht 1871-1918. Aufstieg und Untergang des deutschen Kaiserreichs.'' 2010, p.522 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.385, 465, 581 f., 711 f., 770 f.</ref>。
|
7月6日、[[中央党 (ドイツ)|中央党]]の[[マティアス・エルツベルガー]]が国会で演説を行った<ref>Theodor Wolff: ''Tagebücher 1914-1919. Der Erste Weltkrieg und die Entstehung der Weimarer Republik in Tagebüchern, Leitartikeln und Briefen des Chefredakteurs am „Berliner Tageblatt“ und Mitbegründer der „Deutschen Demokratischen Partei“.'' Erster Teil, hrsg. von Bernd Sösemann. Boppard am Rhein 1984, ISBN 3-7646-1835-3, p.509.</ref>。エルツベルガーは保守派の政治家であり、﹁勝利の平和﹂を支持したが、軍部が潜水艦作戦の有効性を偽ったとして、領土併合を諦める平和交渉を主張した。同日、多数派社会民主党、中央党、自由派の[[進歩人民党 (ドイツ)|進歩人民党]]が{{仮リンク|多党派委員会|de|Interfraktioneller Ausschuss}}で主要会派の調整を行うことに同意した。これはドイツの議会化の第一歩とされ、保守派からは﹁革命の始まり﹂とされた<ref>Theodor Wolff: ''Tagebücher 1914-1919. Der Erste Weltkrieg und die Entstehung der Weimarer Republik in Tagebüchern, Leitartikeln und Briefen des Chefredakteurs am „Berliner Tageblatt“ und Mitbegründer der „Deutschen Demokratischen Partei“.'' Erster Teil, hrsg. von Bernd Sösemann. Boppard am Rhein 1984, ISBN 3-7646-1835-3, p.511.</ref>。エルツベルガーの演説の後、ヒンデンブルクとルーデンドルフはヴィルヘルム2世に宰相の更迭を迫ったが、再び拒否された。ベートマン・ホルヴェークは7月10日にヴィルヘルム2世に謁見、戦後にプロイセンで[[普通選挙]]を行う保証を受けた︵プロイセンではそれまで選挙が{{仮リンク|プロイセン三等制|en|Prussian three-class franchise|label=3等級}}に分けられて行われた︶。この保証は12日に公表されたが、同日の夜にはヒンデンブルクとルーデンドルフが再びヴィルヘルム2世に迫り、宰相を解任しなければ2人が辞任すると脅した。ヴィルヘルム2世は要求を受け入れ、ベートマン・ホルヴェークは翌朝にそれを知ると自ら辞表を提出した。後任の宰相は無名な[[ゲオルク・ミヒャエリス]]だった<ref>Ullrich: ''Die nervöse Großmacht 1871-1918. Aufstieg und Untergang des deutschen Kaiserreichs.'' 2010, p.522 ff.; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.385, 465, 581 f., 711 f., 770 f.</ref>。
|
||
7月19日、{{仮リンク|ライヒスターク平和議案|en|Reichstag Peace Resolution}}が議会を通過したが、外交には大きな影響はなかった。しかし、内政では9月2日に併合主義、民族主義の |
7月19日、{{仮リンク|ライヒスターク平和議案|en|Reichstag Peace Resolution}}が議会を通過したが、外交には大きな影響はなかった。しかし、内政では9月2日に併合主義、民族主義の{{仮リンク|ドイツ祖国党|en|German Fatherland Party}}が結成されるなどの影響があった<ref>Ullrich: ''Die nervöse Großmacht 1871-1918. Aufstieg und Untergang des deutschen Kaiserreichs.'' 2010, p.528; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.376, 437, 511.</ref>。8月1日、[[ローマ教皇]][[ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス15世]]は{{仮リンク|ド・ル・デビュー|de|Dès le début}}という{{仮リンク|使徒的勧告|en|Apostolic exhortation}}を出して、無併合無賠償の講和、[[公海]]の自由通航、[[国際法]]に基づく紛争解決を訴えた。この時は効果がなかったが、この勧告、カトリック教会の人道主義活動︵負傷捕虜交換の提案、行方不明者の捜索事業など︶、そして戦争を﹁無用な流血﹂だとして繰り返し批判したことは教皇の現代外交政策の始まりとなった<ref>Ernesti: ''Benedikt XV. - Papst zwischen den Fronten.'' 2016, pp.114-149.</ref>。
|
||
ゲオルク・ミヒャエリスが軍部の言いなりなのは明らかだったため、議会の多数派は10月末より彼の追い落としに成功した。後任は11月1日に就任した[[ゲオルク・フォン・ヘルトリング]]だった<ref>Ullrich: ''Die nervöse Großmacht 1871-1918. Aufstieg und Untergang des deutschen Kaiserreichs.'' 2010, p.529; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.552 f.</ref>。 |
ゲオルク・ミヒャエリスが軍部の言いなりなのは明らかだったため、議会の多数派は10月末より彼の追い落としに成功した。後任は11月1日に就任した[[ゲオルク・フォン・ヘルトリング]]だった<ref>Ullrich: ''Die nervöse Großmacht 1871-1918. Aufstieg und Untergang des deutschen Kaiserreichs.'' 2010, p.529; Hirschfeld u. a. (Hrsg.): ''Enzyklopädie Erster Weltkrieg.'' 2014, p.552 f.</ref>。 |