ノート:第一次世界大戦
この「第一次世界大戦」には下記のような選考・審査があります。有用なアイデアが残されているかもしれません。この記事を編集される方は一度ご参照下さい。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
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1. | 2007年1月19日 | 査読依頼 | |
2. | 2007年7月10日 | 月間強化記事賞 | 良質な記事自動選出 |
3. | 2013年1月20日 | 良質な記事の再選考 | 維持 |
4. | 2018年1月15日 | 良質な記事の再選考 | 除去 |
ウィキプロジェクト 中央ヨーロッパ | ||||||||
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2004年10月24日[編集]
従来の歩兵による突撃では大量の兵士を浪費するだけになった
浪費 ですか…
この戦争において始めて投入された兵器(飛行機・戦車・潜水艦等)も多く、それまでに行われた国家間の戦争に比べ、死傷者の数が飛躍的に増加した。また初めて毒ガス兵器が使われた戦争でもあった。
よくある間違いですが、飛行機や潜水艦は第一次世界大戦が初ではありません。それと「始めて~。初めて~」となってます。
戦争の始まりは銃を持った兵が騎馬に乗って突撃するといった戦国時代さながらの戦争であったが
「戦国時代」が日本の戦国時代のことなのであれば、そういうことはありませんでした。たしかに一般にはそういうイメージがあるので、イメージでならば間違ってはありませんが事実ではありません。
特に戦車の出現が革命的で、負けたドイツ側は戦後の再軍備前から密かに戦車の開発と運用を研究していた。それが第二次世界大戦で実行されることになる。
なんかちょっと日本語が変な気が。それと、密かに研究されていたのは戦車だけでなく文中に挙げられている他の何れでもそうですよねぇ。まぁ、戦車の登場がエポックメイキングなのは事実ではありますが、外のよりも更に突出しているのかどうかは論を避けておきます。
オーストリア・ハンガリー帝国はハプスブルク家による君主制であったが、サラエボ事件に対しベルヒトルト外相の局地戦か開戦せずに済むとの判断を入れ、7月23日セルビア政府に対し最後通牒を実施。セルビアの条件付き承諾に対し納得せず、7月25日国交断絶に踏み切る。躊躇する皇帝と軍部の反対を押し切る形で7月28日宣戦布告。
日本語が変な気が。主語が分かりにくい。あと、軍部って反対していないのでは?参謀総長のコンラート・ヘッツェンドルフなんて実に好戦的でしたが。
ドイツ帝国 は独墺同盟の関係から相談されたオーストリア・ハンガリー帝国に対しセルビアへの強硬論を説き、オーストリア・ハンガリー帝国を支援。次いで、ロシア帝国の総動員令に対して小モルトケが暴走し「シュリーフェン・プラン」に基づき8月1日総動員を発令、プラン実行の必要からベルギーに対し無害通行権の要求を開始するなど、3大国を相手にした戦争の準備を開始。翌日には対ロシア宣戦布告し、第一次世界大戦開戦。
最初のところは日本語がちょっと変な気が。小モルトケの暴走とは?
日英同盟によりイギリスと同盟関係にあった日本(大日本帝国)は、イギリス・フランスから要請され連合国側として参戦
果して要請されたのか… まぁ、日本はそれを装ってましたが。
--Pochi 2004年10月24日 (日) 16:50 (UTC)
- 小モルトケとは ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ のことだとおもいます。--2404:7A80:8700:E900:B4A7:2082:A351:3FD3 2023年12月18日 (月) 06:19 (UTC)
- 要請はあったはずですが、それは山東省と南洋諸島にいるドイツ軍を代わりに叩いてくれってものです。
ですが、これを要請したイギリス外交当局は世論から非難されたはずです。--210.196.189.19 2006年1月13日 (金) 09:34 (UTC)
2005年11月の編集保護[編集]
荒らしによって編集保護になる。編集1&編集2&編集3を参照。--経済準学士 2005年12月18日 (日) 13:14 (UTC)
第一次世界大戦はヨーロッパの世界における優越的立場を揺るがしたか[編集]
- 書き込みありがとうございます。ノートで内容を調整できると助かります。私としては「大戦の結果(ヴェルサイユ体制)」の記述が不足していると感じます。個々の戦闘の記述も必要ですが、第一次世界大戦がその後の歴史にどのような影響を与えたかも、この項目には欠かせない内容だと考えます。したがって、間を取って「もっとも、ヨーロッパ中心の世界秩序が変わったかどうかについては、意見が分かれている。」とするよりも、他の世界との政治的、経済的な関係の変化をしっかり書き込むことが必要でしょう。影響力が大きくなった、小さくなったという結論に導くためには、どのような変化があったのかをまとめることが必要です。ノートの上の方にも書きましたが、貿易など経済関係の変化は私でも多少は記入できます。60.37.155.110さんにも書き込んでいただけると助かります。---Redattore 2006年7月29日 (土) 09:27 (UTC)
分割提案[編集]
エーとですね、Template:日本の歴史を貼っているものなんですが、もしよろしければ”第一次大戦”から日本史的見地の”第一次大戦中の日本”という記事を分割したいのですがどうでしょうか?分割するより並列した方がいいでしょうか?--Forestfarmer 2006年8月19日 (土) 11:12 (UTC)
質問です。[編集]
WAKABAYASIと申します。 ロシア革命の文中に【女帝アレクサンドラ】 とありますが、アレクサンドラはニコライ二世と共同帝位にあったのでしようか? 10月26日(木)17:56(UTC)
[1] >二次マルヌ会戦が始まった。これに対抗して行った同盟国軍の反撃は、この戦争初の同盟国の成功した攻撃を特徴づけた。
協商国の間違いでは?--60.36.194.246 2006年11月15日 (水) 13:57 (UTC)
参考書の節[編集]
参考書の節のところに小説はどうなんでしょうか。参考書ではないと思いますが。--Kuty 2007年1月17日 (水) 11:48 (UTC)
一部転記提案[編集]
要出典に関して[編集]
IP氏はなぜカフカース戦線のところの要出典タグを外したのですか。あれIFの話ですよ。ウィキペディアは自説を述べる場所ではないようですから、出典がないのなら削除した方が良いのではありませんか。確かに1916年後半のカフカースのオスマン軍第2軍、第3軍はかなり戦力をすり減らしてます。しかし史実では翌年にヨーロッパに派遣されていた兵を撤収して新しく創設された第7軍(とドイツ・オスマン混合編成の電撃軍集団)がパレスチナに投入されましたが、これの撤収が早められてカフカースに投入されていたかもしれませんし、もっと他方面から増援を得たかもしれません(第7軍司令官には最初ムスタファ・ケマルが任命されています)。あるいは東部戦線で同盟軍が攻勢に出て、カフカースのロシア軍の兵の一部が転出されていたかもしれません。ロシア軍の1917年カフカース攻勢によって、パレスチナ、メソポタミアから兵力が引き抜かれ、これらの方面が優勢な英軍に圧迫された結果による中東戦線崩壊なんかも考えられるでしょう。また史実では、オスマン軍は敗戦時でもなお25個歩兵師団を擁し、指揮命令系統は健全なままです。これらを考えてみるのは面白いかもしれませんが、ウィキペディアは自説を述べる場所ではないでしょう。しかし、カフカース攻勢による中東戦線崩壊を唱える有力な説があったとしても不思議ではないと思ったので要出典を貼ったのです。出典がないならその一文は消すべきです。Hikasuke 2009年10月3日 (土) 12:24 (UTC)
- なんか反応がないし、要出典を貼ってから一か月以上もたっているので、出典が確認できなかったものは削除しました。Hikasuke 2009年10月6日 (火) 11:11 (UTC)
シベリア出兵[編集]
交戦勢力についての記述。[編集]
大英帝国に属する国々を交戦勢力に記載しないのは何故でしょうか。高校世界史レベルの知識しかありませんが、大英帝国が第1次世界大戦で重要な役割を果たしたことは知っています。英語版には記載されていて日本語版では記載されていないのは、やはり、この記事が日本版で、日本から見た世界大戦であるからでしょうか。--カフェイン丸太(会話) 2013年6月8日 (土) 04:27 (UTC)
あからさまな陰謀史観ってどうなの?[編集]
今かかれている影響とか、あからさまな陰謀史観としかおもえないんだけど、ウィキペディアとしてどうなの?0null0(会話) 2015年11月5日 (木) 08:36 (UTC)
" 一方、ボリシェビキ、それを支援するジョン・モルガン、そこから関係をたどることのできるロスチャイルド・ハプスブルク・ロマノフ家がいる。ずっと後になってから中国がデタントによる米ソ共存を「世界支配の神聖同盟」だと批判したのは無理からぬことである。細かい事実を指摘するまでもなく、血筋と金で刻まれた歴史は双頭の鷲が教えてくれる。 "
こんな説明が百科事典でゆるされるのかな。0null0(会話) 2015年11月5日 (木) 08:40 (UTC)
ロシア出兵の記述[編集]
再選考に基づき、ロシア出兵の記述は本記事でカバーすべき範囲を超えていると判断してノート:ロシア出兵に転記いたしました。当該記事の執筆にあたり、参考になれば幸いです。--ネイ(会話) 2018年2月4日 (日) 15:12 (UTC)
時機・時期[編集]
「積極的に行動する時機が来たと考えた。」を「積極的に行動する時期が来たと考えた。」に書き換えられました。 「時機」は誤字ではありません。 また,文脈から言って「時機」のほうが良いのではないかと思います。 --Omitugi(会話) 2019年8月11日 (日) 04:15 (UTC)