「縄文杉」の版間の差分
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[[1966年]]、[[屋久町]]役場の観光課長だった岩川貞次により発見され広く紹介される。発見当初は大岩杉と呼ばれていた。﹁縄文杉﹂という名前の由来は、当時推定された[[樹齢]]が4,000年以上で[[縄文時代]]から生きていることから来たという説と、奔放にうねる幹の造形が[[縄文式土器|縄文土器]]に似ているからという説がある。
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[[1966年]]、[[屋久町]]役場の観光課長だった岩川貞次により発見され広く紹介される。発見当初は大岩杉と呼ばれていた。﹁縄文杉﹂という名前の由来は、当時推定された[[樹齢]]が4,000年以上で[[縄文時代]]から生きていることから来たという説と、奔放にうねる幹の造形が[[縄文式土器|縄文土器]]に似ているからという説がある。
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1976年、[[九州大学]]工学部の[[真鍋大覚]]助教授により、周囲の[[樹木]]の[[年輪年代学|年輪測定]]、幹周の大きさなどから、樹齢7,000年以上と推定され話題になった。しかし、その後の調査で古木の周囲を3本程度の若い木が融合して包み込んでいる[[合体木]]である可能性が浮上し、外側の若い木の部分の年代測定では樹齢約2,700年と判定された︵芯部の古木は樹体保護のため未調査︶。ただし、[[鹿児島大学]]農学部が縄文杉の[[ペルオキシダーゼ|パーオキシダーゼ]]を[[アイソザイム|アイソザイム分析]]した結果、縄文杉は合体木ではなく一つの木であることが証明されている{{要出典|date=2011年8月}}。また、調査によって[[倒木更新]]の痕跡も発見されている。
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[[1976年]]、[[九州大学]]工学部の[[真鍋大覚]]助教授により、周囲の[[樹木]]の[[年輪年代学|年輪測定]]、幹周の大きさなどから、樹齢7,000年以上と推定され話題になった。しかし、その後の調査で古木の周囲を3本程度の若い木が融合して包み込んでいる[[合体木]]である可能性が浮上し、外側の若い木の部分の年代測定では樹齢約2,700年と判定された︵芯部の古木は樹体保護のため未調査︶。ただし、[[鹿児島大学]]農学部が縄文杉の[[ペルオキシダーゼ|パーオキシダーゼ]]を[[アイソザイム|アイソザイム分析]]した結果、縄文杉は合体木ではなく一つの木であることが証明されている{{要出典|date=2011年8月}}。また、調査によって[[倒木更新]]の痕跡も発見されている。
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また約7,300年前<ref>約6,300年前とする文献もあるが、これは炭化物の[[放射性炭素年代測定]]の[[暦年#考古学における暦年|暦年補正]]前のもの、本項では暦年補正後の値を採用した。</ref>に[[鬼界カルデラ]]から広がった[[幸屋火砕流]]によって、屋久島を含む九州南部諸島の大型植物は全滅したと考えられており、縄文杉の樹齢は古くとも4,000年以上はさかのぼらないとするのが定説になっている。一方で、後代に持ち込まれた記録の無い[[ヤクシマザル]]などの大型動物が現存していることから、屋久島全体が火砕流に飲み込まれたのではなく一部の動植物は生き延びたのではないかとする意見もある。 |
また約7,300年前<ref>約6,300年前とする文献もあるが、これは炭化物の[[放射性炭素年代測定]]の[[暦年#考古学における暦年|暦年補正]]前のもの、本項では暦年補正後の値を採用した。</ref>に[[鬼界カルデラ]]から広がった[[幸屋火砕流]]によって、屋久島を含む九州南部諸島の大型植物は全滅したと考えられており、縄文杉の樹齢は古くとも4,000年以上はさかのぼらないとするのが定説になっている。一方で、後代に持ち込まれた記録の無い[[ヤクシマザル]]などの大型動物が現存していることから、屋久島全体が火砕流に飲み込まれたのではなく一部の動植物は生き延びたのではないかとする意見もある。 |
2012年10月9日 (火) 04:19時点における版
縄文杉︵じょうもんすぎ︶は、鹿児島県熊毛郡屋久島町︵屋久島︶に自生する最大級の屋久杉。屋久杉を代表する古木として著名である。世界自然遺産﹁屋久島﹂、国の特別天然記念物﹁屋久島スギ原始林﹂に包含される。[1]