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* 8月14日 - 16日:義経神社例大祭 |
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== 義経資料館 == |
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== 義經資料館 == |
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* 開館時間:9時-17時、休館日:月曜日 |
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* 見料大人200円 小中学100円 |
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2023年4月24日 (月) 19:57時点における版
義経神社︵よしつねじんじゃ︶又は義經神社は、日本の北海道沙流郡平取町にある神社。祭神は源九郎判官義經︵源義經︶。1941年︵昭和16年︶まで正式には﹁義經社﹂と称した。敷地内に義経資料館付設。
沿革
●創建の正確な年紀不詳。[1]
●1876年︵明治9年︶2月 - 村社に列格︵当時はハヨピラ山に所在[2]︶。
●1884年︵明治17年︶8月 - 小松宮彰仁親王が台臨、祭祀料下賜。[1]
●1888年︵明治21年︶- 沙流川水害及び山崩れにより社が流失[2]。
●1901年︵明治34年︶- 沙流川水害によりホンスマウンナに仮社殿造営。[1]
●1906年︵明治39年︶11月13日 - 神饌幣帛料供進神社に指定︵北海道庁︶。[1]
●1911年︵明治44年︶9月11 - 皇太子北海道行啓時、甘露寺侍従が代拝。[1]
●1920年︵大正9年︶8月15日 - 社殿造営・遷座。[1]
●1922年︵大正11年︶7月22日 - 摂政宮北海道行啓時、本多侍従が代拝。[1]
●1941年︵昭和16年︶3月25日 - 郷社に列格。[1]
●1941年︵昭和16年︶10月10日 - 義經社を﹁義經神社﹂に変更。[1]
●1942年︵昭和17年︶1月23日 - 神饌幣帛料供進神社に指定。[1]
●1946年︵昭和21年︶6月19日 - 宗教法人︵北承232号︶に。[1]
●1961年︵昭和36年︶8月15日 - 現社殿造営。[1]
由来
寛政3年︵1791年︶、沙流場所請負人の山田文右衛門が建立したのが始まりという説[2]と、寛政10年︵1798年︶に北方調査のため蝦夷地を訪れた幕臣近藤重蔵が、平取のアイヌが崇敬していた英雄オキクルミを源義経と同一視し、翌寛政11年︵1799年︶あるいは享和2年︵1802年︶に、小祠をハヨピラ山に建て、仏師に彫らせた源義経の木像︵像背面に寛政十一年己未四月二十八日、近藤重蔵藤原守重、比企市良右衛門藤原可滿と刻み、基部に江戸神田住大仏工法橋善啓と墨書︶を安置したのが始まりとする説[1][3][4]がある。2度の水害により社が流されたが、その度に義経像は無事発見され、首長である平村ペンリウクによって現在地に遷座されたとされる[5]。
社伝によれば、義経一行は、蝦夷地白神︵現在の福島町︶に渡り、西の海岸を北上し、羊蹄山を廻って、日高ピラトリ︵現在の平取町︶のアイヌ集落に落ち着いたとされ、そこで農耕、舟の製作法、機織りなどを教え、アイヌの民から﹁ハンガンカムイ﹂︵判官の神ほどの意味か︶あるいは﹁ホンカンカムイ﹂と慕われたという。他にアイヌの民の間ではアイヌの民から様々な宝物を奪った大悪人だという伝承もあり、義経に裏切られて女の子︵メノコ︶が自殺を遂げた場所も存在する。
行事
●8月14日 - 16日‥義経神社例大祭
義經資料館
●開館時間‥9時-17時、休館日‥月曜日
●見料大人200円 小中学100円
●義經の木像、源義經に関係する資料を展示。
●平取地区に関係する、歴史的な人物の資料なども展示。
脚注
(一)^ abcdefghijklm北海道神社庁HP義経神社、﹁由来﹂節。2023年2月6日閲覧。
(二)^ abc御子柴五百彦﹃日高国志料 沙流郡之部﹄1892年、18頁。
(三)^ 社掌・山岸守之﹁義經神社沿革﹂︵高瀬敏徳﹃九郎判官源義経﹄文明堂、1913年の巻頭19-20頁に所載︶。
(四)^ 小笠原省三﹃北海道拓殖と神社﹄海外移住文化研究所、1951年、30-33頁。
(五)^ 木原直彦他﹃北海道歴史人物事典﹄北海道新聞社、1993年、311頁。
関連項目
外部リンク