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このような極端な経営方針の転換に至った大きな理由は、地震によるダメージばかりではなく姉[[菊池巻子]]の夫・[[大橋訥庵]]の攘夷思想によるところが大きい。訥庵は[[開国]]後列強との開戦は必至であり江戸は灰燼に帰すると予想しており、これを受け入れ佐野屋の資産を守ろうとした。また賎商思想が強く[[武士]]になることを望んだともいわれる。 |
このような極端な経営方針の転換に至った大きな理由は、地震によるダメージばかりではなく姉[[菊池巻子]]の夫・[[大橋訥庵]]の攘夷思想によるところが大きい。訥庵は[[開国]]後列強との開戦は必至であり江戸は灰燼に帰すると予想しており、これを受け入れ佐野屋の資産を守ろうとした。また賎商思想が強く[[武士]]になることを望んだともいわれる。 |
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[[万延]]元年(1860年)に宇都宮藩から功績が認められ、士籍(御家来並・七人扶持)に列せられ、名字を菊地から菊池と改名した<ref>『栃木県歴史人物事典』 |
[[万延]]元年(1860年)に宇都宮藩から功績が認められ、士籍(御家来並・七人扶持)に列せられ、名字を菊地から菊池と改名した<ref name=栃歴>『栃木県歴史人物事典』219頁。</ref>。 |
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以降、義兄訥庵とともに攘夷運動に奔走。[[文久]]2年(1862年)1月、[[徳川慶喜|一橋慶喜]]を擁立し挙兵を画策したことが発覚。訥庵とともに幕府によって捕らわれ投獄される。捕縛されなかった宇都宮藩・[[水戸藩]]の同志6名がこの後すぐ、[[老中]][[安藤信正]]を襲撃した([[坂下門外の変]])。同年、宇都宮藩に身柄を預けられたが、病死。[[享年]]35。[[生福寺]]に葬られる。[[維新]]後に[[正五位]]を贈られている。 |
以降、義兄訥庵とともに攘夷運動に奔走。[[文久]]2年(1862年)1月、[[徳川慶喜|一橋慶喜]]を擁立し挙兵を画策したことが発覚。訥庵とともに幕府によって捕らわれ投獄される。捕縛されなかった宇都宮藩・[[水戸藩]]の同志6名がこの後すぐ、[[老中]][[安藤信正]]を襲撃した([[坂下門外の変]])。同年、宇都宮藩に身柄を預けられたが、病死。[[享年]]35。[[生福寺]]に葬られる。[[維新]]後の明治41年(1908年)に[[正五位]]を贈られている<ref>田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.25</ref>。 |
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== 文人として == |
== 文人として == |
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== 著作 == |
== 著作 == |
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*『澹如詩稿』全六巻 題簽:[[大槻磐渓]]・序文:佐藤一斎・跋:[[県六石]] 安政6年(1859年) |
*『澹如詩稿』全六巻 題簽:[[大槻磐渓]]・序文:佐藤一斎・跋:[[県六石]] 安政6年(1859年) |
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== 親族 == |
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*三男 [[菊池三郎]](貴族院多額納税者議員){{R|栃歴}} |
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== 脚註 == |
== 脚註 == |
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<references /> |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*[[岩崎良能]]「文人としての菊池澹如」(長嶋元重・稲木宏済・雨宮義人共編「下野幕末の文人画人」所載、下野文人・画人実行委員会、1984年) |
*[[岩崎良能]]「文人としての菊池澹如」(長嶋元重・稲木宏済・雨宮義人共編「下野幕末の文人画人」所載、下野文人・画人実行委員会、1984年) |
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*栃木県歴史人物事典編纂委員会編『栃木県歴史人物事典』[[下野新聞社]]、1995年。 |
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[[Category:幕末の人物]] |
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[[Category:武蔵国の人物]] |
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[[Category:正五位受位者]] |
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[[Category:1828年生]] |
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[[Category:1862年没]] |
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