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1920年、『演芸画報』発行元の演芸倶楽部を退社し、[[小山内薫]]の紹介で[[松竹キネマ]]に入社するも、翌21年、経費削減を理由に[[馘首]]([[解雇]])される。松竹キネマを退社後、[[大阪府]]西成郡中津町に住んでいた兄信治郎のもとに身を寄せ、「根津権現裏」を執筆する。小山内の紹介で劇作家協会常任幹事となり、1922年にはやはり小山内の世話でプラトン社の非常勤編集者の職を得る。 |
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1922年4月、友人の[[三上於菟吉]]の世話で長編小説『[{{NDLDC|970103}} 根津権現裏]』を日本図書出版株式会社から刊行する。1932年1月29日早朝、芝区[[芝公園]]内の六角堂内で凍死体となって発見される。 |
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2015年8月18日 (火) 16:54時点における版
藤澤 清造︵ふじさわ せいぞう、1889年10月28日 - 1932年1月29日︶は、日本の男性小説家、劇作家、演劇評論家。
経歴
石川県鹿島郡藤橋村ハ部37番地︵現在の石川県七尾市︶に、藤澤庄三郎・古への次男として生まれる。長姉とよ、兄信治郎、次姉よねにつづく第4子であった。1900年、七尾尋常高等小学校男子尋常科第4学年を卒業。卒業後、七尾町内の活版印刷所に働く。仕事は、印刷所が新聞取次を兼業していたので、新聞配達であった。右足が骨髄炎に罹り手術を受け自宅療養。生涯、骨髄炎の後遺症に苦しめられる。恢復後は、阿良町の足袋屋﹁大野木屋﹂、次いで、鋲屋、代書屋に勤める。 1906年、18歳のときに東京へ行き、伊藤銀月や中里介山の面識を得る。弁護士野村此平の玄関番、製綿所、沖仲仕といった職に就き、1910年には当時弁護士だった斎藤隆夫の書生となる。このころ、同郷の横川巴︵巴人︶、赤尾彌一、大槻了、安野助多郎らと親しく交友する。安野に紹介された徳田秋声の縁で三島霜川が編集主任であった演芸画報社に入社し、訪問記者として勤める。 1912年、斎藤茂吉の青山脳病院に入院していた安野助多郎が縊死。安野は、清造の代表作となった﹃根津権現裏﹄の岡田のモデルであると言われる。 1920年、﹃演芸画報﹄発行元の演芸倶楽部を退社し、小山内薫の紹介で松竹キネマに入社するも、翌21年、経費削減を理由に馘首︵解雇︶される。松竹キネマを退社後、大阪府西成郡中津町に住んでいた兄信治郎のもとに身を寄せ、﹁根津権現裏﹂を執筆する。小山内の紹介で劇作家協会常任幹事となり、1922年にはやはり小山内の世話でプラトン社の非常勤編集者の職を得る。 1922年4月、友人の三上於菟吉の世話で長編小説﹃根津権現裏﹄を日本図書出版株式会社から刊行する。1932年1月29日早朝、芝区芝公園内の六角堂内で凍死体となって発見される。死後
最近では私小説作家、西村賢太が傾倒し、小説の中で言及する作家としても知られる機会が増えた。西村は自らが編集する形で朝日書林から全5巻別巻2の﹁藤澤清造全集﹂を2001年から刊行する予定だったが、内容見本を出しただけにとどまっており、未刊行である。 2011年2月に芥川賞を受賞した西村賢太が藤澤もろとも脚光を浴びた機会をとらえ、﹁一杯やった勢いで文庫の部長に直談判し﹂、代表作﹁根津権現裏﹂の文庫復刊を新潮社にもちかけた結果、2011年7月に復刊が実現。解説から年譜、語注まで西村が一手に引き受けた[† 1]。著書
- 加能作次郎 藤沢清造 戸部新十郎〈石川近代文学全集5〉 (1988 石川近代文学館)
- 根津権現裏 復刻版〈まぼろし文学館 大正篇3〉 (1998 本の友社)
- 藤澤清造貧困小説集 勝井隆則編 (2001 龜鳴屋)
- 根津権現裏 (2011 新潮文庫 ISBN 9784101356167)※無削除完本準拠
- 藤澤清造短篇集 (2012 新潮文庫 ISBN 9784101356174)※新発見原稿含む
脚注
- ^ 日本経済新聞夕刊2011年7月12日付