藤田信吉
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藤田 信吉︵ふじた のぶよし、1559年︵永禄2年︶ - 1616年8月26日︵元和2年7月14日︶︶は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。山内上杉氏の家臣・藤田康邦の次男。
信吉が生まれた頃、山内上杉氏はすでに滅び、藤田氏も北条氏邦に家督を譲らせられていたため、信吉ははじめ、武田勝頼の家臣として仕えた。はじめ小野姓を称していたが、1579年に勝頼から藤田姓と能登守、そして上野国沼田に5700貫の所領を拝領した。1582年、武田氏が織田信長によって滅ぼされると、上杉景勝のもとに逃れて、その家臣となった。そして景勝に従って新発田重家討伐、佐渡国の本間氏討伐、小田原征伐に従軍して功を立て、1598年に上杉氏が会津に移封されると、景勝から大森に1万5000石の所領を与えられた。
1600年、景勝が家老の直江兼続と図って徳川家康に敵対する姿勢を見せ始めると、信吉は景勝に思いとどまるように諫言すると同時に、大坂に上坂して家康に﹁上杉氏に敵対の意思は無い﹂と懸命に両家の融和に努めたが、兼続から圧力を受けて上杉氏から出奔を余儀なくされ、徳川秀忠のもとに難を逃れた。このとき、信吉が家康と秀忠に対して﹁上杉氏に謀反の疑いあり﹂と言上したことが、関ヶ原の戦いの契機となったのである。その後、信吉は大徳寺に入って剃髪し、源心と号した。そして関ヶ原後、下野国西方に1万5000石の所領を与えられた。1602年、佐竹義宣が常陸水戸から出羽秋田へ減移封されたとき、水戸城を守備している。
大坂の陣にも従軍したが、1615年の夏の陣後、改易された。理由は榊原康勝軍の軍監を務めていたときの失態、戦功に対する不満からの失言など諸々の理由を挙げられている。1616年7月14日、58歳で死去。死因は病死説もあるが、近年では自殺説が有力となっている。墓所は栃木県上都賀郡西方村の実相寺。
信吉は関ヶ原の戦いの原因を作り出した武将として有名で、保身のために上杉氏から徳川氏に鞍替えしたと言われているが、信吉は信吉なりに上杉氏を救おうと懸命に奔走している。むしろ、家康に無謀な挑戦をしようとし、そのために邪魔となった信吉を排除しようと企んだ直江兼続こそ、奸臣と言えるのではないのであろうか。