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「話劇」の版間の差分

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'''話劇'''(huaju わげき)とは会話と自然な身体動作を基礎とする演劇である。日本の[[新劇]]に相当る。中国語の話劇は地域を限定しないが、日本で話劇という時は一般に中国の話劇を指す。


''''''( huaju)[[]][[]]()


==話劇の萌芽と発端==

==話劇の萌芽と発端==


[[]]19使

[[]]19使

 20世紀初頭は中国人日本留学の最初のピークであった。在日中国人留学生の芝居好きが1906年秋に日本の[[新派]]や[[文芸協会]]の影響で[[春柳社]]を結成した。春柳社は東京で[[1907年]]2月に『茶花女』(『[[椿姫]]』脚色)を、同年6月に『黒奴籲天録』(こくどゆてんろく 『[[アンクルトムの小屋]]』脚色)を上演し、大成功を収めた。春柳社は国語(標準語)を用いていた。春柳社からは、その後の話劇運動をリードした人材も生まれ、今日では中国話劇の起点とされている。

20世紀初頭は中国人日本留学の最初のピークであった。在日中国人留学生の芝居好きが1906年秋に日本の[[新派]]や[[文芸協会]]の影響で[[春柳社]]を結成した。春柳社は東京で[[1907年]]2月に『茶花女』(『[[椿姫 (小説)|椿姫]]』脚色)を、同年6月に『黒奴籲天録』(こくどゆてんろく 『[[アンクルトムの小屋]]』脚色)を上演し、大成功を収めた。春柳社は国語(標準語)を用いていた。春柳社からは、その後の話劇運動をリードした人材も生まれ、今日では中国話劇の起点とされている<ref>陳凌虹『日中演劇交流の諸相』(思文閣出版 2014年)</ref>

 春柳社『黒奴籲天録』公演成功の反響上海に伝わり、過渡的な演劇である[[文明戯]](早期話劇)が成立した。[[1914年]]頃全盛期を迎え、新民社、民鳴社、春柳社(新劇同志会)などが活躍したが、まもなく衰退していった。


 

春柳社『黒奴籲天録』公演成功の反響はただちに上海に伝わり、過渡的な演劇である[[文明戯]](早期話劇)が辛亥革命に至る革命運動と結びついて成立した。[[1914年]]頃全盛期を迎え、新民社、民鳴社、春柳社(新劇同志会)などが活躍したが、まもなく商業主義の影響で堕落・衰退していった。



==話劇の成立と発展==

==話劇の成立と発展==

 文明戯の堕落に反発する演劇人と『[[新青年]]』の新文化運動が結びつき、[[五四運動]]以後、話劇が確立していく。[[1924年]]の[[戯劇協社]]『若奥様の扇』([[ワイルド]]『ウィンダミア卿夫人の扇』翻案)が、話劇成立の指標である。これ以後話劇は、知識人の演劇として成長していく。[[田漢]]、[[郭沫若]]などの劇作家が登場した。


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 1920年代末から30年代にかけて、プロレタリア演劇運動が勃興し、[[夏衍]]らが活躍した。一方では国民党政権による相対的安定の中で、[[中国旅行劇団]]のような職業話劇団も成立する。[[曹禺]]などの劇作家も現れ、彼の『雷雨』(1934)『日の出』(1936)などは多くの劇団で上演され、話劇の発展に貢献した。1935年には国立演劇学校である国立戯劇学校(後に国立戯劇専科学校と改称、[[国立劇専]])も創立された。

1920年代末から30年代にかけて、プロレタリア演劇運動が勃興し、[[夏衍]]らが活躍した。一方では国民党政権による相対的安定の中で、[[中国旅行劇団]]のような職業話劇団も成立する。[[曹禺]]などの劇作家も現れ、彼の『雷雨』(1934)『日の出』(1936)などは多くの劇団で上演され、話劇の発展に貢献した。1935年には国立演劇学校である国立戯劇学校(後に国立戯劇専科学校と改称、[[国立劇専]])も創立された。



 [[1937年]]に[[抗日戦争]]が勃発すると、初期には、演劇人は[[演劇隊]]を作り中国各地で短い街頭劇などを巡演した。[[1938年]]以降抗戦長期化が明らかになると、演劇人の視点は戦争下の現実に向かい、中国社会の問題点を掘り下げた多幕物の名作が多数現れた。戦争の影響で映画製作・輸入が弱まったこともあり、演劇は[[重慶]]や上海を中心に大いに栄え、郭沫若『屈原』(1942)などが登場する。三十年代のさまざまな演劇潮流は、戦争という空前の民族的危機の前に衰え、[[リアリズム]]が劇の主流となった。


[[1937]][[|]][[]][[]][[1938]][[]]1942[[]][[]][[]]


[[中国共産党]]の根拠地[[延安]]では、抗日戦争勃発後都市部から大量の青年が入り、彼らの求めで1940年から曹禺など大型名作劇を盛んに上演したが、農民には受け入れがたかった。この傾向などを是正するため、1942年共産党宣伝部が開催した文芸座談会で[[毛沢東]]が講話をおこない、文芸の労農兵への奉仕、知識人の思想改造と政治基準の優先が強調された。この講話はまもなく「延安文芸座談会での講話」([[文芸講話]])として論文化され、[[1980年]]頃までの中国文学芸術界の指針となった。座談会以後、当地の民謡を基にした[[秧歌劇]]や新歌劇『[[白毛女]]』([[1945年]])などが生まれた。

[[中国共産党]]の根拠地[[延安]]では、抗日戦争勃発後都市部から大量の青年が入り、彼らの求めで1940年から曹禺など大型名作劇を盛んに上演したが、農民には受け入れがたかった。この傾向などを是正するため、1942年共産党宣伝部が開催した文芸座談会で[[毛沢東]]が講話をおこない、文芸の労農兵への奉仕、知識人の思想改造と政治基準の優先が強調された。この講話はまもなく「延安文芸座談会での講話」([[文芸講話]])として論文化され、[[1980年]]頃までの中国文学芸術界の指針となった。座談会以後、当地の民謡を基にした[[秧歌劇]]や新歌劇『[[白毛女]]』([[1945年]])などが生まれた。



==中華人民共和国建国から文化大革命期まで==

==中華人民共和国建国から文化大革命期まで==

[[中華人民共和国]]が[[1949年]]に建国して後、[[北京人民芸術劇院]]、[[上海人民芸術劇院]]はじめ各省・自治区に最低一つの国立話劇団が作られ、[[中央戯劇学院]]、[[上海戯劇学院]]も創立され、話劇は著しく普及した。しかしその内容は延安など解放区の経験が正統とされ、共産党の政治宣伝の道具傾向が強まった。この傾向は[[1966年]]からの[[文化大革命]]で頂点に達した。[[老舎]]『茶館』(1958)や児童劇などごく一部を除き、文革終結までの話劇は今日上演されない。ただし、文革期の『紅灯記』など革命現代京劇、バレエは、今も上演される。


[[]][[1949]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[1966]][[]][[]]1958


==文革終結後から今日まで==

==文革終結後から今日まで==

[[1976年]]の文革終結後、話劇は文革の傷や知識人の尊重などを訴え、1979年前後大いに観客を引きつけた。しかし政治宣伝の道具傾向を脱しきれなかった話劇は1980年代に入って映画、テレビなどの影響もあり観客離れが進んだ。その克服のため[[不条理劇]]など西洋前衛演劇に学んだ小劇場運動や曹禺など現実直視の作風を今日に復活させようとする新しい動きが起こった。[[高行健]]『絶対信号』(1982)、[[錦雲]]『犬だんなの涅槃』(1986)などで、演出でも、[[林兆華]]、[[孟京輝]]、[[王暁鷹]]、[[任鳴]]などが現れた。

[[1976年]]の文革終結後、話劇は文革の傷や知識人の尊重などを訴え、1979年前後大いに観客を引きつけた。しかし政治宣伝の道具傾向を脱しきれなかった話劇は1980年代に入って映画、テレビなどの影響もあり観客離れが進んだ。その克服のため[[不条理劇]]など西洋前衛演劇に学んだ小劇場運動や曹禺など現実直視の作風を今日に復活させようとする新しい動きが起こった。[[高行健]]『絶対信号』(1982)、[[錦雲]]『犬だんなの涅槃』(1986)などで、演出でも、[[林兆華]]、[[孟京輝]]、[[王暁鷹]]、[[任鳴]]などが現れた。




[[21]][[]][[]][[]][[]]

[[21]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]


==参考文献==

==参考文献==

[[瀬戸宏]]『中国演劇の20世紀 中国話劇史概況』([[東方書店]] 1999)

*[[瀬戸宏]]『中国の現代演劇 中国話劇史概況』([[東方書店]] 2018年)

*陳白塵・董健主編『中国現代戯劇史稿』(中国戯劇出版社 1989年)*中文

*董健・胡星亮主編『中国当代戯劇史稿』(中国戯劇出版社 2008年)*中文

*葛一虹主編『中国話劇通史』(文化芸術出版社 1990年)*中文


==出典==

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[[Category:中国の演劇]]

[[Category:中国の演劇]]

[[Category:演劇のジャンル]]

[[Category:演劇のジャンル]]


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参考文献[編集]

  • 瀬戸宏『中国の現代演劇 中国話劇史概況』(東方書店 2018年)
  • 陳白塵・董健主編『中国現代戯劇史稿』(中国戯劇出版社 1989年)*中文
  • 董健・胡星亮主編『中国当代戯劇史稿』(中国戯劇出版社 2008年)*中文
  • 葛一虹主編『中国話劇通史』(文化芸術出版社 1990年)*中文

出典[編集]

  1. ^ 陳凌虹『日中演劇交流の諸相』(思文閣出版 2014年)
  2. ^ 瀬戸宏『中国話劇成立史研究』(東方書店 2005年)