諏訪御料人
表示
諏訪御料人(すわごりょうにん 1530年︵享禄3年︶? - 1555年12月18日︵弘治元年11月6日︶)は、武田信玄の側室で武田勝頼の母。諏訪頼重と小見氏の娘。諏訪御寮人・小説での呼び名の湖衣姫が使われる事もある。
異母弟には、頼重の正室の禰々の産んだ寅王がいる。
武田信虎の人質政策の一環として、禰々の頼重への輿入れと引き換えに、甲斐に人質として送られてきたという説がある。信玄に父の頼重を攻め滅ぼされた後、信玄の側室となり、天文十五年(1546年)に勝頼を産む。絶世の美女、薄幸の女性として有名である。弘治元年十一月六日に死去。墓所は長野県西高遠町の建福寺。
なお、長野県岡谷市の小坂観音院にある墓は、現代になってから建てられた物である。
彼女が信玄最愛の妻というのが通説だが、彼女の人物像を伝えてくれるような史料は存在しておらず、しかも子供を勝頼一人しか産んでいないため、彼女が信玄の最愛の妻だという従来の説には、かなりの疑問が残る。
しかも、信玄は武田家の息子たちに与える﹁信﹂という字を、勝頼には与えておらず、諏訪家の﹁頼﹂という字を名乗らせており、初めから勝頼には、諏訪家を継がせるつもりだったと思われる。
よく、勝頼が武田家を継ぐ事になったのは、信玄が不仲の正室、三条の方との息子の義信を疎んじ、諏訪御料人と、彼女の息子である勝頼を溺愛していたためだと言われるが、彼の武田家相続は、彼の上の兄弟たちが、さまざまな理由で武田家後継者の座から消えていった結果と考えるべきであろう。
それに、信玄の中での側室としての重要性から言えば、五人も子供を産んでいる油川夫人の方が、信玄の中で占める割合は強かったと考えられる。また、信玄が妻たちの中で、格別、諏訪御料人を寵愛していた形跡が残る史料も、みあたらない。彼女は、あくまで信玄の側室の中の一人でしかなかったのであろう。また、信玄が彼女の美貌にひかれて側室にしたという事も、盛んに喧伝されるが、彼女が初めて甲斐に来たと思われる時は、まだ十二・三歳の少女であり、とても真実とは思いがたい。やはり、この婚姻には政略結婚の色合いの方が強く見られる。