「金光宅吉」の版間の差分
HikaruFukushima (会話 | 投稿記録) m 金光教2代→二代金光様 |
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'''金光宅吉'''(こんこう いえよし、[[安政]]元年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]([[1855年]][[2月11日]]) - [[明治]]26年([[1893年]])12月20日)は、[[金光教]]の二代[[金光様]]。 |
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今の[[岡山県]][[浅口市]][[金光町]]大谷に生まれる。赤沢文治([[金光大神]])登勢(とせ)の5男。幼名は、宇之丞(うのじょう)、後に虎吉(とらよし)と改められる。金光四神(こんこうしじん)の神号を許され、金光大神の死後、広前の取次の座を主として守り、金光教の信奉者からは二代金光様あるいは四神様(しじんさま)と呼ばれている。神道本局傘下の神道金光教会で、金光教[[教監]]を務めた。諡号は「金光四神貫行君」(こんこうしじんつらゆきのきみ)。 |
今の[[岡山県]][[浅口市]][[金光町]]大谷に生まれる。赤沢文治︵[[金光大神]]︶登勢︵とせ︶の5男。幼名は、宇之丞︵うのじょう︶、後に虎吉︵とらよし︶と改められる。金光四神︵こんこうしじん︶の神号を許され、金光大神の死後、広前の取次の座を主として守り、金光教の信奉者や布教者からは二代金光様あるいは四神様︵しじんさま︶と呼ばれている。神道本局傘下の神道金光教会で、金光教[[教監]]を務めた。諡号は﹁金光四神貫行君﹂︵こんこうしじんつらゆきのきみ︶。
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妻 喜代(きよ:安部家より嫁す)との間に、4男4女をもうけた。[[金光攝胤]](せつたね)、堤一二野(ひふの)、佐藤女子(ひめこ)、[[近藤明道]](あきみち)、白神根能勢(ねのせ)、金光国開(くにはる)、金光三代太郎(みよたろう)、金光塩野(しおの)の8人である。 |
妻 喜代︵きよ‥安部家より嫁す︶<ref>喜代‥安部三平・與志の長女。</ref>との間に、4男4女をもうけた。[[金光攝胤]]︵せつたね︶、堤一二野︵ひふの︶<ref>一二野‥﹁飛婦野﹂とも書かれる。明治15年︵1882年︶2月10日生。明治23年︵1890年︶5月6日に高宮教会長堤清四郎の養女として入籍、[[福嶋儀兵衛]]の三男政治郎を養子として迎える。なお、政治郎の兄福嶋儀助には、叔母にあたる安部家の次女登加が嫁している。</ref>、佐藤女子︵ひめこ︶<ref>女子‥明治18年︵1885年︶4月24日生。﹁にょし﹂が正しい読みとされる、明治30年︵1897年︶、芸備教会長[[佐藤範雄]]の長男[[佐藤一夫(金光教教老)|佐藤一夫]]の許嫁となり、明治40年︵1907年︶8月29日妻として入籍。</ref>、[[近藤明道]]︵あきみち︶<ref>明道:明治20年︵1887年︶1月13日生、同年9月5日難波教会長[[近藤藤守]]の養子となる。難波教会二代目教会長。</ref>、白神根能勢︵ねのせ︶<ref>根能勢:明治21年︵1888年︶8月14日生。大阪教会[[白神新一郎 (二代目)]]の養女として、明治24年︵1891年︶12月1日に入籍、白神新一郎 (三代目)の妻。</ref>、金光国開︵くにはる︶<ref>国開‥明治23年︵1890年︶3月1日生。明治27年︵1894年︶6月28日、金光金吉の養子として入籍。</ref>、金光三代太郎︵みよたろう︶<ref>三代太郎‥明治24年︵1891年︶11月22日生。</ref>、金光塩野︵しおの︶<ref>塩野‥明治26年︵1893年︶9月14日生。</ref>の8人である。
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40歳で死去。遺言により息子の攝胤(せつたね:1880 - 1963)が13歳で取次の座についた。(攝胤は、三代金光様と呼ばれ、教団独立後の信仰の中心となった) |
40歳で死去。遺言により息子の攝胤︵せつたね‥1880 - 1963︶が13歳で取次の座についた。︵攝胤は、三代金光様と呼ばれ、教団独立後の信仰の中心となった︶。
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== 参考文献 == |
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*金光大神(2003年、金光教本部教庁刊、ISBN 4-906088-15-5) |
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*金光四神様(1993年、金光真整著、金光和道編、金光教若葉刊行会発行) |
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2024年6月20日 (木) 02:35時点における最新版
略歴[編集]
今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。赤沢文治︵金光大神︶登勢︵とせ︶の5男。幼名は、宇之丞︵うのじょう︶、後に虎吉︵とらよし︶と改められる。金光四神︵こんこうしじん︶の神号を許され、金光大神の死後、広前の取次の座を主として守り、金光教の信奉者や布教者からは二代金光様あるいは四神様︵しじんさま︶と呼ばれている。神道本局傘下の神道金光教会で、金光教教監を務めた。諡号は﹁金光四神貫行君﹂︵こんこうしじんつらゆきのきみ︶。 妻 喜代︵きよ‥安部家より嫁す︶[1]との間に、4男4女をもうけた。金光攝胤︵せつたね︶、堤一二野︵ひふの︶[2]、佐藤女子︵ひめこ︶[3]、近藤明道︵あきみち︶[4]、白神根能勢︵ねのせ︶[5]、金光国開︵くにはる︶[6]、金光三代太郎︵みよたろう︶[7]、金光塩野︵しおの︶[8]の8人である。 40歳で死去。遺言により息子の攝胤︵せつたね‥1880 - 1963︶が13歳で取次の座についた。︵攝胤は、三代金光様と呼ばれ、教団独立後の信仰の中心となった︶。参考文献[編集]
●金光大神(2003年、金光教本部教庁刊、ISBN 4-906088-15-5︶ ●金光四神様(1993年、金光真整著、金光和道編、金光教若葉刊行会発行)脚注[編集]
(一)^ 喜代‥安部三平・與志の長女。 (二)^ 一二野‥﹁飛婦野﹂とも書かれる。明治15年︵1882年︶2月10日生。明治23年︵1890年︶5月6日に高宮教会長堤清四郎の養女として入籍、福嶋儀兵衛の三男政治郎を養子として迎える。なお、政治郎の兄福嶋儀助には、叔母にあたる安部家の次女登加が嫁している。 (三)^ 女子‥明治18年︵1885年︶4月24日生。﹁にょし﹂が正しい読みとされる、明治30年︵1897年︶、芸備教会長佐藤範雄の長男佐藤一夫の許嫁となり、明治40年︵1907年︶8月29日妻として入籍。 (四)^ 明道:明治20年︵1887年︶1月13日生、同年9月5日難波教会長近藤藤守の養子となる。難波教会二代目教会長。 (五)^ 根能勢:明治21年︵1888年︶8月14日生。大阪教会白神新一郎 (二代目)の養女として、明治24年︵1891年︶12月1日に入籍、白神新一郎 (三代目)の妻。 (六)^ 国開‥明治23年︵1890年︶3月1日生。明治27年︵1894年︶6月28日、金光金吉の養子として入籍。 (七)^ 三代太郎‥明治24年︵1891年︶11月22日生。 (八)^ 塩野‥明治26年︵1893年︶9月14日生。
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