「金平正紀」の版間の差分
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<!--父親も広島市内段原でボクシングジム「[[金平ボクシングジム (広島市)|金平ジム]]」を経営していた。-->中学時代にケンカで負けた悔しさからボクシングを始める<ref name="世界の勝負師">『世界の勝負師 名トレーナー金平正紀に学ぶ』 9-19頁</ref>。[[呉市]]にあった芸南高校<ref>荒廃校として有名で廃校となり現在はない。</ref>を1年で中退して上京。[[野口ボクシングジム]]に入門し[[フライ級]]と[[バンタム級]]で活躍する。日本チャンピオンにはなれなかったが、国内ランキングでは1位、師匠同様のブルファイター型のボクサーとして目黒ジムの四天王と呼ばれた。後の[[三迫ボクシングジム|三迫ジム]]初代会長[[三迫仁志]]は同い年の兄弟子、会長の長男[[野口修]]とは同い年の親友だった。 |
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[[1958年]]に[[引退]]後、しばらくはマネージャーとして活動するが、ボクシングから身を引くことと決意し、[[とんかつ]]屋を開業する。金平が現役時代に住み込みで働いた[[目黒雅叙園]]仕込みの味付けは<ref>皿洗いが本職だったが暇なとき、板場に入り込んで、見て覚えたもの︵﹃世界の勝負師 名トレーナー金平正紀に学ぶ﹄16頁︶。</ref>評判を呼んだという<ref name="世界の勝負師" />。ある日、新規にアルバイトを募集したところ、応募してきたのが[[海老原博幸]]であった。海老原とグローブを交え、天与の才能を見出した金平は、繁盛していた店を畳み[[1959年]]、﹁金平ジム﹂︵のちの[[協栄ボクシングジム|協栄ジム]]︶を設立する<ref name="世界の勝負師" />。練習生は海老原一人であった。
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2011年2月14日 (月) 12:04時点における版
基本情報 | |
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階級 | フライ級 |
国籍 |
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誕生日 | 1934年2月10日 |
出身地 | 広島県広島市 |
死没日 | 1999年3月26日(65歳没) |
金平 正紀︵かねひら まさき、1934年2月10日 - 1999年3月26日︶は、日本のボクシング指導者。広島県広島市出身[1][2]。金平ジム︵現・協栄ボクシングジム︶設立者。
長男は現・協栄ボクシングジム会長の金平桂一郎。
来歴
青年期 - ジム設立
中学時代にケンカで負けた悔しさからボクシングを始める[3]。呉市にあった芸南高校[4]を1年で中退して上京。野口ボクシングジムに入門しフライ級とバンタム級で活躍する。日本チャンピオンにはなれなかったが、国内ランキングでは1位、師匠同様のブルファイター型のボクサーとして目黒ジムの四天王と呼ばれた。後の三迫ジム初代会長三迫仁志は同い年の兄弟子、会長の長男野口修とは同い年の親友だった。 1958年に引退後、しばらくはマネージャーとして活動するが、ボクシングから身を引くことと決意し、とんかつ屋を開業する。金平が現役時代に住み込みで働いた目黒雅叙園仕込みの味付けは[5]評判を呼んだという[3]。ある日、新規にアルバイトを募集したところ、応募してきたのが海老原博幸であった。海老原とグローブを交え、天与の才能を見出した金平は、繁盛していた店を畳み1959年、﹁金平ジム﹂︵のちの協栄ジム︶を設立する[3]。練習生は海老原一人であった。トレーナーとしての活躍と永久追放
海老原を育て上げ4年後の1963年、遂に海老原をWBA・WBC世界フライ級王者に導く。その後は西城正三︵WBA・フェザー︶、具志堅用高︵WBA・ライトフライ︶、上原康恒︵WBA・スーパーフェザー︶、渡嘉敷勝男︵WBA・ライトフライ︶、鬼塚勝也︵WBA・スーパーフライ︶、勇利アルバチャコフ︵WBC・フライ︶、オルズベック・ナザロフ︵WBA・ライト︶、佐藤修︵WBA・スーパーバンタム︶、坂田健史︵WBA・フライ︶、と国内最多10人の世界チャンピオンを育てた。佐藤修と坂田健史は金平の死去後にチャンピオンになったが、高校アマボクシングで凡庸な戦績だった彼らの才能を見出し、ジムに入門させたのは金平である。 一時期草加市にジムを構えていたが、渋谷区の代々木駅近くに移転。草加のジムは実業家の有澤二男へ売却し草加協栄ジムとなった。 プロモーターとしてまとめた世界タイトルマッチ級の試合は100を超え、米国のドン・キングになぞらえ﹁日本のドン﹂、あるいは﹁顔役﹂などの異名を取った。自らは﹁業界の暴れん坊﹂を自称、1972年には王座を明け渡した西城を擁してキックボクシングの興行にも乗り出す。全日本ボクシング協会から利敵行為だと除名され、同名の﹁第二協会﹂を結成し後の協会会長木村七郎らと対立した︵黒い霧事件︶が、1980年、両協会の和解に伴う会長選で2期目を狙っていた元同僚三迫仁志を退けて当選し全日本ボクシング協会会長に就任した。また田中敏朗と共にパブリック・マネージャー制度導入に尽力。この他、藤圭子の1981年のカムバックは、事業家・藤原成郷に頼まれ芸能界にも顔がきく金平が、藤のかつての所属事務所・新栄プロダクションの西川幸男社長︵西川哲、西川賢の父︶を説得したもの[6]。 名声の一方で﹁巨悪﹂の影は付いてまわったが1982年、世界戦で具志堅・渡嘉敷の対戦相手の選手の食べ物に毒物を入れる薬物投与事件が発覚、永久追放となった︵ジムが新宿区の新大久保駅近くに移転後の1989年解除︶。晩年
こうした挫折をものともせず、いち早く国際戦略にも乗り出す。長男の桂一郎をロシアに、甥のマック金平をメキシコに語学留学させ、ソビエト連邦のペレストロイカを見て取るや、アントニオ猪木と組んでロシア人ボクサーの輸入を実現。晩年には北朝鮮からオリンピック金メダリスト崔鉄洙を招聘した。 1997年にはナゴヤドームでのK-1 JAPAN GP参戦も表明し、シュートボクシング初代全日本カーディナル級王者大村勝巳を専属トレーナーに招聘しK-1キョウエイジムの看板も掲げていた。 1966年に起きた袴田事件の﹁無実のプロボクサー袴田厳を救う会﹂の発起人になる︵現在も係争中︶。 1992年、女性ファンの多かったミッキー・ロークを来日させて試合をさせたが、ロークの軽くかすったような猫なでパンチ一発で相手が倒れ、ロークの1ラウンドKO勝ち。この試合をメインにして、ソ連のペレストロイカで連れて来た勇利アルバチャコフ戦を前座にした。 1995年全日本ボクシング協会会長選で現職ファイティング原田は3選。しかし、その際金平は結果的に敗北したが金子繁治を出馬させ、笹崎ジムの先輩後輩の金子と原田は民事訴訟沙汰になった。 不動産投資に失敗し30億円近い負債を残し、1999年、大腸がんで死去。65歳没。協栄ジムの経営は長男の桂一郎が引き継いだ。 金平最後の弟子・坂田健史が苦節10年目の2007年3月19日、WBA世界フライ級チャンピオンとなった。逸話
●自身がプロモートした試合で最高のファイトが1971年ルーベン・オリバレスVS金沢和良のWBA世界バンタム級タイトルマッチだったという。同年年間最高試合にも選ばれた。 ●中学卒業後、横浜でケンカ、ケンカの毎日を送っていたジョー山中の腕っぷしの強さを聞きつけ自ら出向いて1962年スカウト、その日のうちに上京させ協栄ジム入りさせた。ジョーは三年間、きついトレーニングとアルバイトを両立させ頑張ったが、プロテスト後の新人戦前の無理な減量で脱水症状を起こし棄権、そのままジムもボクシングも辞めてしまった。横浜に戻って友人に誘われ程なくして音楽を始めという[7]。脚注
(一)^ 金平家は広島県豊田郡川尻町で漁を営んでいた家系と、金平桂一郎が自身のブログ、2007年6月9日分で言及している︵金平桂一郎ブログ﹁興行師のひとりごと﹂︶。
(二)^ 三輪義弘の著書﹃世界の勝負師 名トレーナー金平正紀に学ぶ﹄では川尻町生まれ︵同書9頁︶。
(三)^ abc﹃世界の勝負師 名トレーナー金平正紀に学ぶ﹄ 9-19頁
(四)^ 荒廃校として有名で廃校となり現在はない。
(五)^ 皿洗いが本職だったが暇なとき、板場に入り込んで、見て覚えたもの︵﹃世界の勝負師 名トレーナー金平正紀に学ぶ﹄16頁︶。
(六)^ サンデー毎日、1981年7月26日142頁
(七)^ 東京スポーツ、2007年10月23日。
参考文献
- 三輪義弘『世界の勝負師 名トレーナー金平正紀に学ぶ』おりじん書房、1994年