「長快 (熊野別当)」の版間の差分
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'''長快'''(ちょうかい、[[1037年]] - [[1122年]])は、[[平安時代]]後期の[[熊野三山]]の社僧で、[[承保]]2年([[1075年]])に15代[[熊野別当]]に補任され、亡くなるまで48年もの長きにわたって熊野別当の地位にあったという<ref>熊野速玉大社所蔵『熊野別当代々次第』は、長快を |
'''長快'''︵ちょうかい、[[1037年]] - [[1122年]]︶は、[[平安時代]]後期の[[熊野三山]]の社僧で、[[承保]]2年︵[[1075年]]︶に15代[[熊野別当]]に補任され、亡くなるまで48年もの長きにわたって熊野別当の地位にあったという<ref>熊野速玉大社所蔵﹃熊野別当代々次第﹄は、長快を11代熊野別当の快真︵[[藤原実方]]の子である10代熊野別当の[[泰救]]の子︶の長男であると伝えている。﹃[[尊卑分脈]]﹄によると藤原実方の子であると伝えている。</ref>。
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== 生涯 == |
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長快は、[[寛治 |
長快は、[[寛治]]4年([[1090年]])に[[白河天皇|白河院]]の熊野御幸の際の功により熊野別当としては初めて[[僧位#僧綱の僧位相当表|法橋]]に叙せられ<ref>『[[中右記]]』・『初例抄』など。阪本[2005: 189-190]。</ref>、さらに熊野別当の上に置かれた初代の[[熊野三山検校]]に御幸の先達を務めた[[園城寺]]僧の[[増誉]]が補任されたことにより、熊野三山は中央寺社勢力の秩序の中に組み込まれた<ref>宮家[1992: 5-6]、小山[2000: 25]、阪本[2005: 33]。</ref>。また同時に、「紀伊国二ケ郡田畠五箇所合百余町」(『帝王編年記』)もしくは「一ケ郡田畠百余町」(『[[百錬抄]]』)が熊野三山に寄進されたことにより、その財政的基礎が確立した<ref>阪本[2005: 33]。</ref>。 |
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さらに、長快は[[永久 (元号)|永久]]2年([[1114年]])に朝廷の命を受け、諸国運上物を盗み取っていた「[[南海道海賊]]」について調べ、[[南海道]]の海賊たちへの統制を強めた<ref>『中右記』。阪本[2011: 119]。</ref>。 |
さらに、長快は[[永久 (元号)|永久]]2年([[1114年]])に朝廷の命を受け、諸国運上物を盗み取っていた「[[南海道海賊]]」について調べ、[[南海道]]の海賊たちへの統制を強めた<ref>『中右記』。阪本[2011: 119]。</ref>。 |
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* {{Cite book ja-jp|author=[[宮家準]]|year=1992|title=熊野修験|publisher=吉川弘文館|series=日本歴史叢書|isbn=4-7924-0587-4}} |
* {{Cite book ja-jp|author=[[宮家準]]|year=1992|title=熊野修験|publisher=吉川弘文館|series=日本歴史叢書|isbn=4-7924-0587-4}} |
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2020年6月13日 (土) 08:57時点における最新版
生涯
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 小山靖憲、2000、『熊野古道』、岩波書店 ISBN 4-00-430665-5
- ―、2003、「熊野三山と熊野参詣」、田辺市史編さん委員会(編)『通史編 I (地理・原始・古代中世)』、田辺市〈田辺市史 第一巻〉 pp. 300-355
- 阪本敏行、2003、「院政と熊野三山」、田辺市史編さん委員会(編)『通史編 I (地理・原始・古代中世)』、田辺市〈田辺市史 第一巻〉 pp. 379-418
- ―、2005、『熊野三山と熊野別当』、清文堂 ISBN 4-7924-0587-4
- ―、2011、「熊野水軍 - 中世前期を中心にして」、谷川健一・三石学(編)『海の熊野』、森話社 ISBN 978-4-86405-025-8 pp. 119-130
- 宮家準、1992、『熊野修験』、吉川弘文館〈日本歴史叢書〉 ISBN 4-7924-0587-4