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1933年(54歳)、『女人芸術』の仲間に励まされ、『輝ク会』を結成して、機関紙『輝ク』を発刊した。今度は、[[タブロイド]]判二つ折り4ページの、月刊の小型新聞で、発行・編集人は時雨、発行所は赤坂桧町の自宅、会員の会費で足らぬ分は時雨が自腹でまかなった。 |
1933年(54歳)、『女人芸術』の仲間に励まされ、『輝ク会』を結成して、機関紙『輝ク』を発刊した。今度は、[[タブロイド]]判二つ折り4ページの、月刊の小型新聞で、発行・編集人は時雨、発行所は赤坂桧町の自宅、会員の会費で足らぬ分は時雨が自腹でまかなった。 |
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『女人芸術』の執筆者、新顔、男性陣を含む大勢が狭い紙面を充実させた。年齢順で、長谷川時雨、岡田八千代、[[田村俊子]]、[[柳原白蓮]]、[[平塚らいてう]]、[[長谷川かな女]]、[[深尾須磨子]]、[[岡本かの子]]、[[鷹野つぎ]]、[[高群逸枝]]、[[八木 |
『女人芸術』の執筆者、新顔、男性陣を含む大勢が狭い紙面を充実させた。年齢順で、長谷川時雨、岡田八千代、[[田村俊子]]、[[柳原白蓮]]、[[平塚らいてう]]、[[長谷川かな女]]、[[深尾須磨子]]、[[岡本かの子]]、[[鷹野つぎ]]、[[高群逸枝]]、[[八木あき]]、[[坂西志保]]、[[板垣直子]]、[[中村汀女]]、[[大谷藤子]]、[[森茉莉]]、[[林芙美子]]、[[佐多稲子|窪川稲子]]、[[平林たい子]]、[[円地文子]]、[[田中千代]]、大石千代子 /[[三上於菟吉]]、[[直木三十五]]、[[獅子文六]]、[[葉山嘉樹]]、[[大佛次郎]]……など。会員からの投稿も多かった。『女人芸術』誌の後期の左傾を精算したような、編集だった。会員仲間で[[ピクニック]]や観劇もした。 |
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1936年(昭和11年)、三上於菟吉が[[脳血栓]]で倒れ、看病し、彼の新聞連載を代筆した。そして翌年、[[関東軍]]が[[支那事変]]を始め、『輝ク』は『戦争応援』の方向へ旋回した。1937年10月の『輝ク』は『皇軍慰問号』であった。旋回に会員間の摩擦が起こり、1938年には2度休刊したが、時雨は進んだ。 |
1936年(昭和11年)、三上於菟吉が[[脳血栓]]で倒れ、看病し、彼の新聞連載を代筆した。そして翌年、[[関東軍]]が[[支那事変]]を始め、『輝ク』は『戦争応援』の方向へ旋回した。1937年10月の『輝ク』は『皇軍慰問号』であった。旋回に会員間の摩擦が起こり、1938年には2度休刊したが、時雨は進んだ。 |
2014年10月18日 (土) 15:20時点における版
長谷川 時雨 (はせがわ しぐれ) | |
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![]() (1928年 - 1929年) 『女人芸術』発刊の頃 | |
誕生 |
1879年10月1日 東京府日本橋区(現東京都中央区) |
死没 |
1941年8月22日 東京府東京市四谷区(現東京都新宿区) |
職業 | 作家、婦人運動推進者 |
国籍 |
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活動期間 | 1901年 - 1941年 |
ジャンル | 戯曲・小説 |
代表作 |
『江島生島』(戯曲)、 『旧聞日本橋』(小説)、 『評釋一葉小説全集』(評論) |
デビュー作 | 『うづみ火』 |
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人物
東京府日本橋区通油町1丁目︵現在の東京都中央区日本橋大伝馬町3丁目︶に、深造・多喜の長女として生まれた。深造は日本初の免許代言人︵弁護士︶の一人で、東京市会の有力者でもあった。多喜は御家人の娘であった。 5歳から12歳まで、秋山源泉小学校で寺子屋教育を受け、かたわら、唄・踊り・お花・お茶など当時の女子の躾けを受け、祖母には芝居へ連れられた。女に学問は不要という母に隠れて本を読み、14歳から行儀見習いに奉公した池田侯爵家でも、夜分は読書に耽った。17歳のとき肋膜炎を病んで家に戻り、佐佐木信綱の竹柏園に通って古典を学んだ。 1897年︵明治30年︶︵18歳︶、父の命で鉄成金の息子と結婚させられたが、遊び人で釜石鉱山に追われ、それに嫌々従った3年間、勉強し習作し、1901年、短編﹃うづみ火﹄が﹃女学世界﹄誌の特賞に選ばれた。そのときは﹃水橋康子﹄を筆名とした。のち、﹃しぐれ女﹄、﹃長谷川康子﹄、﹃奈々子﹄なども使った。 1904年︵25歳︶、帰京し、引責辞職していた深造と佃島の屋敷に住んだ︵離婚は3年後︶。多喜は箱根で旅館を営んでいた。築地の女子語学校︵現、雙葉学園︶の初等科に2年通った。岡田八千代と知り合った。 1905年︵明治38年︶、読売新聞の懸賞に応募した戯曲﹃海潮音﹄が、坪内逍遙に認められて入選し、逍遙に師事した。そして次々と新作を発表して人気作者になった。釜石時代から文通した中谷徳太郎との仲が深くなり、1912年の第1次﹃シバヰ﹄誌にともに寄稿し、さらに翌年の第2次﹃シバヰ﹄5冊を中谷と発行したが[1]、喧嘩別れした。1912年には六代目尾上菊五郎らと﹃舞踊協会﹄を作って8回公演し、次いで翌年、﹃狂言座﹄を菊五郎と結成したが、公演2回で挫折した。たまたま、甥の育児・事業に躓いた母の面倒見・父の看病・鶴見への引っ越しなどに多用で、劇評は続けたものの、演劇界からは退いた。菊五郎とは生涯の親友であった。 文学の面では、既に1911年﹃日本美人伝﹄を、翌年﹃臙脂伝﹄を刊行していた。 劇作および文学面の業績は、主な劇作と主な著作の項に纏める。 1916年︵大正5年︶︵37歳︶、無名だった三上於菟吉を知り、押し掛けられるように1919年から内縁関係の世帯を持ち、以降は12歳年上の姉さん女房として、三上を世に出すことに努めた。1921年頃から三上は売り出して放蕩し、時雨を悩ませた。父没後の母らの世話に忙しい時期でもあった。 1923年︵大正12年︶、岡田八千代との同人雑誌、﹃女人芸術﹄を出したが、関東大震災のため、2号で終わった。 1928年︵昭和3年︶︵49歳︶、女性作家の発掘・育成と女性の地位向上のため、商業雑誌﹃女人芸術﹄を創刊した。時雨に大人気作家へ押し上げられて女遊びを続ける三上が、費用を負担した。世相のなかで左傾し、たびたび発禁処分を受け、資金に詰まり、1932年の48号目までで廃刊した。﹃旧聞日本橋﹄は、同誌に連載された。 1933年︵54歳︶、﹃女人芸術﹄の仲間に励まされ、﹃輝ク会﹄を結成して、機関紙﹃輝ク﹄を発刊した。今度は、タブロイド判二つ折り4ページの、月刊の小型新聞で、発行・編集人は時雨、発行所は赤坂桧町の自宅、会員の会費で足らぬ分は時雨が自腹でまかなった。 ﹃女人芸術﹄の執筆者、新顔、男性陣を含む大勢が狭い紙面を充実させた。年齢順で、長谷川時雨、岡田八千代、田村俊子、柳原白蓮、平塚らいてう、長谷川かな女、深尾須磨子、岡本かの子、鷹野つぎ、高群逸枝、八木あき、坂西志保、板垣直子、中村汀女、大谷藤子、森茉莉、林芙美子、窪川稲子、平林たい子、円地文子、田中千代、大石千代子 /三上於菟吉、直木三十五、獅子文六、葉山嘉樹、大佛次郎……など。会員からの投稿も多かった。﹃女人芸術﹄誌の後期の左傾を精算したような、編集だった。会員仲間でピクニックや観劇もした。 1936年︵昭和11年︶、三上於菟吉が脳血栓で倒れ、看病し、彼の新聞連載を代筆した。そして翌年、関東軍が支那事変を始め、﹃輝ク﹄は﹃戦争応援﹄の方向へ旋回した。1937年10月の﹃輝ク﹄は﹃皇軍慰問号﹄であった。旋回に会員間の摩擦が起こり、1938年には2度休刊したが、時雨は進んだ。 1939年︵60歳︶、女性の銃後運動を統率する﹃輝ク部隊﹄を結成し、慰問袋を募って送り、戦死者の遺族や戦傷者を見舞い、占領地や戦地に慰問団を派遣した。 1940年、陸海軍の資金により、文芸誌﹃輝ク部隊﹄および﹃海の銃後﹄を編んで、紀元二千六百年の前線へのお年玉とし、1941年1月にも﹃海の勇士慰問文集﹄を送った。﹃女人芸術﹄誌以来の本格的な雑誌であった。その1月から、﹃輝ク部隊﹄の﹃南支方面慰問団﹄の団長として、台湾・広東・海南島などを約1ヶ月強行軍した。その後も忙しくして、発病し、白血球顆粒細胞減少症のため8月22日早暁、慶應病院で没した。24日芝青松寺で営まれた﹃輝ク部隊葬﹄には、600人が焼香した。 ﹃輝ク﹄は追悼号を出してのち、11月の103号で終わった。 墓は今、鶴見の総持寺にある。主な劇作
本項および次項で、例えばz1 とあるのは、全集の第1巻に載っている、の意である。 ●1905年‥﹃海潮音﹄︵1幕︶、読売新聞の懸賞に入選し、同誌に掲載。/ 1908年、新富座で、喜多村緑郎、伊井蓉峰らが初演。喜多村が当たり役とした。 ●1906年‥﹃覇王丸﹄︵史劇︶、日本海事協会の募集に当選し、演劇画報に掲載。/﹃花王丸﹄z5と改題し歌舞伎座で、六代目尾上菊五郎、初代中村吉右衛門らが初演。菊五郎が認められた。 ●1911年‥﹃操﹄、演劇画報掲載。﹃さくら吹雪﹄z5と改題し歌舞伎座で、菊五郎、七代目坂東三津五郎らが初演。菊五郎が当たり役とした。 ●1912年‥﹃竹取物語﹄z5、シバヰ誌掲載。歌舞伎座で、五代目中村歌右衞門らが初演。 ●1913年、﹃玉ははき﹄、歌舞伎座で初演。 ●1913年‥﹃空華﹄z5、歌舞伎座で初演 ●1913年‥﹃足利尊氏﹄、﹃湊川皐月の一夜﹄と改題し歌舞伎座で初演。 ●1913年‥﹃丁字みだれ﹄z5、市村座で初演。 ●1913年‥﹃江島生島﹄歌舞伎座で初演。現在まで上演度々。 ●1915年‥﹃お国山三歌舞伎草紙﹄、市村座で初演した。現在まで上演度々。主な著作
重版改版は、最新と思われる版のみ / 印の後に記す。単行本
●﹃日本美人伝﹄、聚精堂 新婦人叢書1︵1911年︶︵125人︶ ●﹃臙脂伝﹄、聚精堂 新婦人叢書6︵1912年︶︵25人︶ ●﹃美人伝﹄、東京社︵1918年︶/不二出版﹃青鞜﹄の女たち9︵1986年) ●﹃名婦伝﹄、実業之日本社︵1919年︶︵千日女、伊賀の局、慧春尼、津田勝子、芳春夫人松子、瓜生岩子、奥村五百子など︶z3 ●﹃情熱の女﹄、玄文社︵1919年︶︵美人伝︶/ゆまに書房 近代女性作家精選集28︵2000年︶ ●﹃処女時代﹄、平凡社︵1929年︶/ゆまに書房 近代女性作家精選集13︵1999年︶ISBN 9784897148540 ●﹃時雨脚本集1﹄︵業火の洗禮、暗夜、つくしの空、犬、氷の雨、手児奈z5、西の空、北國薬研谷、ミイの生れた朝、月に住む人︶、女人芸術社︵1929年︶/ゆまに書房 近代女性作家精選集14︵1999年︶ISBN 9784897148557 ●三上於莵吉と共著‥﹃春の鳥﹄、平凡社 令女文学全集13︵1930年︶︵時雨4篇、於菟吉1篇︶ ●﹃旧聞日本橋﹄、岡倉書房︵1935年︶/岩波文庫︵2000年︶ISBN 9784003110317 ●﹃草魚﹄、サイレン社︵1935年︶/ゆまに書房 女性のみた近代1-20︵2000年︶ISBN 9784843301098 ●﹃近代美人伝﹄、サイレン社︵1936年︶︵マダム貞奴、樋口一葉、鹿島恵津子、竹本綾之助、大橋須磨子、松井須磨子、九条武子など20人︶z3 /クレス出版 日本人物誌選集6︵2007︶ISBN 9784877333812 ●﹃春帯記 明治大正女性抄﹄、岡倉書房︵1937年︶︵美人伝︶z2 ●樋口一葉著、長谷川時雨評釋‥﹃評釋一葉小説全集﹄、冨山房百科文庫︵1938年︶ ●﹃きもの﹄、実業之日本社︵1939年︶ ●﹃桃﹄、中央公論社︵1939年︶ ●﹃紅燈和蘭船﹄、春陽堂文庫︵1941年?︶ 没後 ●﹃働くをんな﹄、実業之日本社︵1942年︶ ●﹃東京開港﹄、日本文林社︵1947年︶z1 ●﹃廿八日、小説雲、落日、小説暗、かっぽれ、マダム貞奴﹄、筑摩書房 明治文学全集82︵1965年︶の中 ●﹃操﹄脚本、筑摩書房 明治文学全集85︵1966年︶の中 ●﹃ある日の午後﹄、筑摩書房 明治文学全集86︵1969年︶の中 ●﹃江島生島﹄、東京創元社 名作歌舞伎全集24︵1972年︶の中 ●杉本苑子編‥﹃新編近代美人伝 上下﹄、岩波文庫︵1985年︶ISBN 9784003110324 & ISBN 9784003110331 ●尾形明子編‥﹃長谷川時雨﹄、日本図書センター 作家の自伝26︵1995年︶ISBN 9784820593966︵﹃薄ずみいろ﹄﹃おふうちゃん﹄﹃石のをんな﹄﹃東京開港︵抄︶﹄﹃渡り切らぬ橋﹄︶ ●日本近代文学館編‥﹃文学者の日記8長谷川時雨 & 深尾須磨子﹄、博文館新社 日本近代文学館資料叢書︵1999年︶ISBN 9784891779788 ●尾形明子監修‥﹃情熱の女﹄復刻、2000.11年ゆまに書房 近代女性作家精選集028︵2000年︶ISBN 9784843301906 ●長谷川啓監修‥﹃時代の娘﹄復刻、ゆまに書房 戦時下の女性文学7︵2002年︶ISBN 9784843305430 ●尾形明子編‥﹃長谷川時雨作品集﹄、藤原書店︵2009︶ISBN 9784894347175全集
●﹃長谷川時雨全集﹄全5巻、日本文林社︵1941 - 1942︶ /復刻版、不二出版︵1993︶ ●第1巻‥円地文子編、小説 ●第2巻‥森三千代編、女性伝 ●第3巻‥岡田八千代編、美人伝 ●第4巻‥真杉静枝 編、随筆等 ●第5巻‥岡田禎子編、戯曲等 各巻の内容は、国会図書館のサイトを検索して見られる[2]。参考図書
- 尾形明子:『女人芸術の世界 長谷川時雨とその周辺』、ドメス出版 (1980)ISBN 9784810701173
- 長谷川仁著・紅野敏郎編:『長谷川時雨 人と生涯』、ドメス出版 (1982)ISBN 9784810701388
- 岩橋邦枝:『評伝長谷川時雨』、筑摩書房(1993)ISBN 9784480823069 /講談社文芸文庫(1999)ISBN 9784061976870
- 尾形明子:『「輝ク」の時代 長谷川時雨とその周辺』、ドメス出版 (1993)ISBN 9784810703658
- 尾形明子編:『作家の自伝26 長谷川時雨』、日本図書センター(1995)、ISBN 482059396X
- 森下真理:『わたしの長谷川時雨』、ドメス出版(2005)ISBN 9784810706574
脚注
- ^ 早稲田大学図書館編:『シバヰ』、雄松堂出版 マイクロフィッシュ版 精選近代文芸雑誌集103(2002年)
- ^ 国会図書館 資料の検索 NDL-OPAC(蔵書検索・申込み)